梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門これを打つ。山口新左衛門をば高山又次郎切つて落とす。梶原孫七は十余町前に打ちけるが、跡に軍あつて執事の討たれぬるやと人の云ひけるを聞きて、取つて返して打ち刀を抜いて戦ひけるが、自害を半ばにしかけて、路の傍らに伏したりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸けんよりはとて、泣く泣く首を取つてけり。鹿目平次左衛門は、山口が討たるるを見て、身の上とや思ひけん、跡なる長尾三郎左衛門に抜いて懸りかけるを、長尾少しも不騒、「御事の身の上にては候はぬものを、僻事し出だして、命失はせ給ふな」と云はて、をめをめと太刀を指して、物語して行きけるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬に付ひ傍うて、「御馬の沓切つて捨て候はん」とて、抜いたる刀を取り直し、肘の懸かりを二刀刺して、馬より取つて引き落とし、主に首をば掻かせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負ひたりける間、馬には乗り得ずして、塵取りに舁かれて、遥かの迹に来けるが、執事こそすでに討たれさせ給ひつれと、人の云ふを聞きて、とある辻堂のありけるに、輿を舁き据ゑさせ、腹掻き切つて死にけり。
梶原孫六は佐々宇六郎左衛門に討たれました。山口新左衛門は高山又次郎が斬って落としました。梶原孫七は十余町前を進んでいましたが、後ろで軍があって執事(高師直)が討たれたと人が言うのを聞いて、取って返して打ち刀を抜いて戦いましたが、自害を半ばにしかけて、路の傍らに伏しました、阿佐美三郎左衛門は、年来の知音([互いによく心を知り合った友])でしたが、人手に懸けるのならばと、泣く泣く首を取りました。鹿目平次左衛門は、山口(新左衛門)が討たれるのを見て、身の上と思ったか、後ろの長尾三郎左衛門に抜いて懸かりましたが、長尾は少しも騒がず、「身の上のことではないものを、僻事([道理や事実に合わないこと])をなして、命を失うな」と言われて、おめおめと太刀を収めて、話しをしながら進んでいましたが、長尾(三郎左衛門)が中間([武士の下位の者])に目配せすると、中間二人は鹿目(平次左衛門)の馬に寄り添って、「馬沓([ひづめを保護するための藁や皮革・和紙などで作った馬用の履物])を切ってあげましょう」と言って、抜いた刀を取り直し、肘の懸かりを二刀刺して、馬より取って引き落とし、主(上杉能憲)に首を掻かせました。河津左衛門(河津氏明?)は、小清水(越水。現兵庫県西宮市)の合戦で痛手を負っていたので、馬には乗ることができずに、塵取り([塵取り輿]=[腰輿の簡略なもの。高欄だけで屋形のないもの])に舁かれて、遥か後に付いていましたが、執事(高師直)はすでに討たれたと、人が言うのを聞いて、とある辻堂があったので、輿を舁き据えさせて、腹を掻き切って死にました。
(続く)