海上の兵船、陸地の大勢、思ひしよりもおびたたしくして、聞きしにもなほ過ぎたれば、官軍御方を顧みて、退屈してぞ思へける。されども義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮らざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少しも機を失ひたる気色なうして、先づ和田の岬の小松原に打ち出でて、静かに手分けをぞし給ひける。一方には脇屋右衛門の佐義助を大将として末々の一族二十三人、その勢五千余騎経の島にぞ控へたる。一方には大舘左馬の助氏明を大将として、相従ふ一族十六人、その勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に控へらる。一方には楠木判官正成態と佗の勢を交へずして七百余騎、湊川の西の宿に控へて、陸地の敵に相向かふ。左中将義貞は総大将にてをはすれば、諸将の命を司つて、その勢二万五千余騎、和田の岬に帷幕を引かせて控へらる。
海上の兵船、陸地の大勢、思っていたよりも数多く、聞いていたよりもなお過ぎていたので、官軍は味方を顧みて、退屈([困難にぶつかってしりごみすること])するように思われました。けれども義貞朝臣(新田義貞)も正成(楠木正成)も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮らざる、世祖光武(光武帝。後漢王朝の初代皇帝)の心根を写し得た勇者でしたので、少しも気を失う気色もなく、まず和田岬(現兵庫県神戸市兵庫区)の小松原に打ち出て、静かに手分けをしました。一方には脇屋右衛門佐義助(脇屋義助。新田義貞の弟)を大将として末々の一族二十三人、その勢五千余騎を経の島(現兵庫県神戸市兵庫区)に控えさせました。一方には大舘左馬助氏明(大舘氏明)を大将として、相従う一族十六人、その勢三千余騎にて、灯炉堂(神戸市神戸市兵庫区?)の南の浜に控えさせました。一方には楠木判官正成がわざと他の勢を交えず七百余騎で、湊川(現兵庫県神戸市中央区・兵庫区)の西の宿に控えて、陸地の敵に向かいました。左中将義貞は総大将でしたので、諸将の命を司って、その勢二万五千余騎で、和田岬に帷幕([垂れ幕と引き幕。陣営])を引かせて控えました。
(続く)