ここに如何なる雲客にてかありけん、破れたる簾より見れば、年四十余りなりけるが、眉作り金付けて、立烏帽子引き被き着たる人の、轅剥げたる破車を、打てども行かぬ疲れ牛に懸けて、北野の方へぞ通りける。今程洛中には武士ども充満して、時を得る人その数を不知。誰とは不見、太く逞しき馬どもに思ひ思ひの鞍置いて、唐笠に毛沓履き、色々の小袖脱ぎ下げて、酒温め、焚き残したる紅葉の枝、手毎に折りかざし、早歌交じりの雑談して、馬上二三十騎、大内野の芝生の花、露とともに蹴散らかし、当たりを払つて歩ませたり。主人と思しき馬上の客、この車を見付けて、「すはやこれこそ件の院と云ふ曲者よ。頼遠などだにも懸かる恐しき者に乗り会ひして生涯を失ふ。まして我らが様の者いかにと咎められては叶ふまじ。いざや下りん」とて、一度にさつと自馬下り、頰かぶり外し笠脱ぎ、頭を地に着けてぞ畏りける。
ここに如何なる雲客([殿上人])か、破ぶれた簾の隙間から見れば、年四十余りでしたが、眉を描き鉄漿(お歯黒)を付けて、立烏帽子をかぶった人が、轅が剥げた破れ車を、打てども進まぬ疲れ牛に懸けて、北野(現京都市上京区にある北野天満宮)の方へ向かっていました。当時洛中には武士どもが充満して、時を得る人は数知れませんでした。誰かれも、太く逞しい馬どもに思い思いの鞍を置いて、唐笠に毛沓([騎馬・狩猟用の毛皮製のくつ])を履き、色々の小袖を脱ぎ下げて、酒を温め、焚き残した紅葉の枝を、手に手に折りかざし、早歌([鎌倉時代に貴族・武士・僧侶の間に流行した歌謡。特に、鎌倉武士に愛好された])交じりの雑談をしながら、馬に乗り二三十騎連れ立ち、大内野(平安京大内裏の跡)の芝生の花を、露とともに蹴散らかし、当たりを払って馬を歩ませていました。主人と思われる馬上の客が、破れ車を見付けて、「なんとこれはあの光厳の院という曲者([油断のならないもの])よ。頼遠(土岐頼遠)のような者でさえこの恐しき者に乗り会いして命を失ったのだ。まして我らほどの者が難癖付けられてはどうにもならぬ。ともかく馬から下りよう」と言って、一度にさっと馬から下りて、頰かぶりを外して笠を脱ぎ、頭を地に着けて畏りました。
(続く)