車に乗りたる雲客は、またこれを見て、「あな浅ましや。もしこれは土岐が一族にてやあるらん。院をだに散々に射進らする、まして我らここを下りでは悪しかりぬべし」とあわて騒ぎ、懸けも外さぬ車より飛び下りけるほどに、車は生強ひに先へ行き馳するに、軸に当たつて立烏帽子を打ち落とし、髻放ちなる青陪従片手にては髻を捕らへ、片手には笏を取り直し、騎馬の客の前に跪き、「いかにいかに」と色代しけるは、前代未聞の曲事なり。その日は殊更聖廟の御縁日にて、参詣の貴賎布引きなりけるが、これを見て、「怪しからずの為体や、路頭の礼は弘安の格式に被定置たり。それにも雲客武士に対せば、自車降り髻を放せとはなきものを」とて、笑はぬ者もなかりけり。
一方車に乗った雲客([殿上人])は、またこれを見て、「なんとも嘆かわしいことよ。もしこれは土岐一族ではないか。院さえ散々に射るような者ぞ、まして我ら車から下りなくばどんな目に遭うことか」とあわて騒ぎ、懸け([軛]=[牛を牛車に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具])も外さぬ車から飛び降りました、車はなおも先に進もうとしたので、軸([車輪の心棒])に当たって立烏帽子を打ち落とし、髻放ちの青陪従([天皇・貴人に付き従う若者])は片手で髻([髪を頭の上に集めて束ねた所])を押さえ、片手には笏を取り直し、騎馬の客の前にひざまずき、「何はともあれ」と色代([挨拶])する姿は、前代未聞の曲事([道理に合わない事柄])でした。その日はとりわけ聖廟(菅原道真)の縁日(二十五日)でしたので、参詣の貴賎は布引き([大勢の人がとぎれることなく続くこと])でしたが、これを見て、「何とも情けない姿よ、路頭の礼([路上において他者と遭遇した際の礼法])は弘安の格式(『弘安礼節』。貴族社会の礼儀作法を規定した書)に定められておるものを。そもそも雲客が武士に会った時、自車を降り髻を放てとは書かれておらぬものを」と言って、笑わぬ者はいませんでした。