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「太平記」諸国宮方蜂起事付越中軍事(その1)

山陽道せんやうだうには同じき年六月三日に、山名伊豆いづかみ時氏ときうぢ五千余騎にて、伯耆はうきより美作みまさか院庄ゐんのしやうへ打ち越えて国々へ勢を差し分かつ。先づ一方へは、時氏の子息左衛門さゑもんすけ師義もろよしを大将にて、二千余騎、備前・備中両国へ発向はつかうす。一勢は備前の仁万堀に陣を取つて敵を待つに、その国の守護の勢、松田・河村かはむら・福林寺・浦上うらかみ七郎兵衛行景ゆきかげら、皆無勢ぶせいなれば、出で合ひては敵はじとや思ひけん。また讃岐より細河右馬のかみ頼之よりゆき、近日児島へ押し渡ると聞こゆるをや相待あひまちけん。皆じやうに立て籠もつていまだかつて戦はず。一勢は多治目たぢめ備中の守、楢崎ならさきを侍大将にて、千余騎備中の新見にひみへ打ち出でたるに、秋庭あきば三郎多年こしらへ済まして、水も兵粮もたくさんなる松山の城へ、多治目・楢崎を引き入れしかば、当国の守護越後ゑちごの守師秀もろひで戦ふべきやうなくして、備前の徳倉とくらの城へ引き退く刻み、郎従赤木あかき父子二人ににん落ち止まつて、思ふほど戦ひてつひに討ち死にしてけり。これによつて敵勝つに乗つて国中こくぢゆうへ乱れ入つて、勢を差し向け差し向け攻め出だすに、一儀をも言ふべき様なければ、国人一人も従ひ付くと言ふ者なし。ただ陶山すやま備前の守ばかりを、南海の端に添うてわづかなる城をこしらへて、将軍しやうぐん方とては残りける。




山陽道には同じ年(康安二年(1362))六月三日に、山名伊豆守時氏(山名時氏)が五千余騎で、伯耆より美作の院庄(現岡山県津山市)へ打ち越えて国々へ勢を分けました。まず一方へは、時氏の子息左衛門佐師義(山名師義。山名時氏の嫡男)を大将に、二千余騎が、備前・備中両国へ発向しました。一勢は備前の仁万堀(仁堀?現岡山県赤磐市)に陣を取って敵を待ちましたが、その国の守護勢、松田・河村・福林寺・浦上七郎兵衛行景らは、皆無勢でしたので、出で合っては敵わないと思ったか。また讃岐より細川右馬頭頼之(細川頼之)が、近日児島(現岡山県倉敷市)へ押し渡ると聞こえたのを待ったか。皆城に立て籠もってまったく戦いませんでした。一勢は多治目(多治米?)備中守、楢崎を侍大将にして、千余騎で備中の新見(現岡山県新見市)へ打ち出ましたが、秋庭三郎(秋庭信盛?)は多年準備して、水も兵粮もたくさん用意した松山城(現岡山県高梁市)へ、多治目・楢崎を引き入れたので、当国の守護越後守師秀は戦いようもなく、備前の徳倉城(現岡山県岡山市)に引き退く時、郎従赤木父子二人が落ち止まって、思うほど戦って遂に討ち死にしました。こうして敵は勝つに乗って国中に乱れ入って、勢を差し向け差し向け攻め出すと、一儀も言うべき様もなく、国人は一人も従い付く者はありませんでした。ただ陶山備前守ばかりが、南海の端に沿ってわずかな城を構えて、将軍(室町幕府第二代将軍、足利義詮よしあきら)方として残りました。


続く


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by santalab | 2016-11-12 08:50 | 太平記 | Comments(0)

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