備後へは、富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲よりすぐに国中へ打ち出でたるに、江田・広沢・三吉の一族馳せ着きける間、なきほど二千余騎になりにけり。富田その勢を合はせて、宮の下野の入道が城を攻めんとするところに、石見の国より足利左兵衛の佐直冬、五百騎ばかりにて富田に力を合はせ戦はんと、備後の宮の内へ出でられたりけるが、禅僧を一人、宮の下野の入道の許へ使ひに立てて仰されけるは、「天下の事時刻到来して、諸国の武士大略御方に心ざしを通ずるところに、その方よりかつて承る旨なき間に、遮て使者を以つて申すなり。天下に人多しといへども、別して頼み思ひ奉る心ざし深し。今もし御方に参じて忠を致され候はば、闕所分以下の事に於いては毎事所望に随ふべし」とぞのたまひ遣はされける。
備後へは、富田判官秀貞(富田秀貞)の子息弾正少弼直貞(富田直貞)が八百余騎で、出雲よりすぐに備後国に打ち出ると、江田・広沢・三吉の一族が馳せ着いたので、たちまち二千余騎になりました。富田(直貞)がその勢を合わせて、宮下野入道(宮兼信)の城を攻めようとするところに、石見国より足利左兵衛佐直冬(足利直冬。足利尊氏の庶子で足利直義の猶子)が、五百騎ばかりで富田に力を合わせ戦おうと、備後の宮内(現広島県福山市)に出ましたが、禅僧を一人、宮下野入道の許へ使いに立てて申すには、「天下は時刻到来して、諸国の武士は大方味方に付きましたが、その方より承る旨がありませんでしたので、先立ち使者をもって申します。天下に人多しといえども、頼みにする思いは格別に深いものです。今もし味方に参じて忠を致されたなら、闕所([財産没収刑又はその刑罰により所有者がいなくなった所領])分以下のことにおいては事に付けて所望に従いましょう」と伝えました。
(続く)