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「太平記」光厳院禅定法皇行脚事(その7)

御下向は大和路やまとぢに懸からせ給ひしかば、道の便りもよろしとて、南方の主上しゆしやうの御座ある吉野殿へ入らせ給ふ。この三四年の先までは、両統りやうとう南北に分かれてここに戦ひかしこにあたせしかば、呉越の会稽くわいけいはかりしが如く、漢楚の覇上はじやう軍立いくさだてせしにも過ぎたりしに、今は散聖さんじやう道人だうにんとならせ給ひて、玉体を麻衣草鞋まえさうあいに窶し、鸞輿らんよ跣行せんかう徒渉とせうに代へて、遥々とこの山中まで分け入らせ給ひたれば、伝奏いまだ事の由を奏さず先に直衣の袖を濡らし、主上いまだ御相看しやうかんなき先に御涙をぞ流させ給ひける。ここに一日一夜御逗留とうりうあつて、様々の御物語ありしに、主上、「さても只今の光儀くわうぎ、覚めての後の夢、夢の中の迷ひかとこそ思へて候へ。たとひ仙院の故宮を棄てて釈氏しやくしの真門に入らせ給ふとも、寛平くわんへいの昔にもなぞらへ、花山の旧き跡をこそ追はれ候ふべきに、尊体を浮萍ふへいの水上に寄せて、叡心を枯木こぼくの禅余に付かせ候ひぬる事、いかなる御発心にて候ひけるぞや。御羨ましくこそ候へ」と、たづね申させ給ひければ、法皇御涙に咽びて、しばしは御詞をも出だされず。




下向は大和路にかかられて、道の便りもよいと、南方の主上(第九十七代後村上天皇)のおられる吉野殿(現奈良県吉野郡吉野町にあった南朝の行宮)にお入りになられました。この三四年前までは、両統(南朝=大覚寺統。と北朝=持明院統)は南北に分かれてここに戦いかしこに攻め寄せたので、呉越(呉王夫差と越王勾践 こうせん)が会稽山(現浙江省紹興市南部に位置する山)で謀略を廻らせ、漢楚(漢の劉邦と楚の項羽)が覇上(覇水のほとり。現陝西省西安市)で軍をしたにも過ぎていましたが、今は散聖([世俗を捨て仏門に入った人を敬っていう語])の道人となられて、玉体を麻衣草鞋にやつし、鸞輿([天子の乗る輿])を跣行([素足で歩くこと])の徒渉([徒歩で陸を行ったり水を渡ったりすること])に代えて、遥々とこの山中まで分け入られました、(後村上天皇は)伝奏がいまだ事の由を奏す前に直衣の袖を濡らし、(光厳院は)主上にいまだ相看([面会])される前に涙を流されました。ここに一日一夜逗留されて、様々話される中に、主上(後村上天皇)が、「さても只今の光儀([他人を敬って、その来訪をいう語])は、覚めて後に見ております夢は、まるで夢の中の迷いかと思われます。たとえ仙院([院御所])の故宮を棄てて釈氏の真門に入られるとも、寛平の昔に准えて、花山(第六十五代天皇)の旧跡を追われるべきでございますのに(花山院は、現京都市山科区にある元慶寺で出家後、三十三観音霊場=今の西国三十三所。を巡礼し修行したそうな)、尊体を浮萍([浮萍草]=[浮き草])のように水上に寄せて、叡心([天子の心])を枯木の禅余に付かせられるのは、どのようなご発心をされたのでしょうか。羨ましいことです」と、お訊ねになられると、法皇(光厳院)は涙に咽ばれて、しばしはお言葉もありませんでした。


続く


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by santalab | 2016-12-11 09:10 | 太平記 | Comments(0)

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