さらばやがて京へ攻め上れとて越前の修理の大夫入道道朝の子息左衛門の佐以下、三千余騎にて近江の武佐寺へ馳せ参る。佐々木の治部の少輔高秀・小原備中の守は白昼に京を打ち通つて、道誉に馳せ加はる。道誉その勢を合はせて七百余騎、野路・篠原にて待ち奉る。土岐桔梗一揆は、伊勢の仁木が向かひ城より引き分けて五百余騎、鈴鹿山を打ち越えて篠原の宿にて追ひ付き奉る。この外佐々木の六角判官入道崇永・今川伊予の守・宇都宮三河の入道が勢、都合一万余騎、十二月二十四日に武佐寺を立つて、同じき二十六日先陣勢多に着きにけり。丹波路より仁木三郎、山陰道の兵七百余騎を卒して攻め上る。播磨路よりは、赤松筑前の入道世貞・帥の律師則祐一千余騎にて兵庫に着く。残る五百余騎をば、弾正少弼氏範に付けて船に乗せ、堺・天王寺へ押し寄せて、南方の主上を取り奉り、楠木が跡を遮らんと二手になつてぞ上りける。
ならばすぐに京へ攻め上れと越前修理大夫入道道朝(斯波高経。道朝は法名)の子息左衛門佐(斯波氏頼。高経の三男)以下、三千余騎で近江の武佐寺(現滋賀県近江八幡市にある広済寺)に馳せ参りました。佐々木治部少輔高秀(佐々木高秀。道誉の三男)・小原備中守(大原仲親=佐々木仲親?)は白昼に京を打ち通って、道誉(佐々木道誉)に馳せ加わりました。道誉はその勢を合わせて七百余騎で、野路(現滋賀県草津市)・篠原(現滋賀県野洲市)で加勢を待ちました。土岐桔梗一揆(土岐氏一族による武士団。桔梗は土岐氏の家紋)は、伊勢の仁木(仁木義長)の向かい城([敵の城を攻めるため、それに対して構える城])を引き退いて五百余騎で、鈴鹿山を打ち越えて篠原宿で追い付きました。このほか佐々木六角判官入道崇永(六角氏頼=佐々木氏頼)・今川伊予守(今川貞世)・宇都宮三河入道(宇都宮冬綱?)の勢と合わせて、都合一万余騎で、十二月二十四日に武佐寺を立って、同じ十二月二十六日に先陣は勢多(現滋賀県大津市)に着きました。丹波路からは仁木三郎が、山陰道の兵七百余騎を率して攻め上りました。播磨路からは、赤松筑前入道世貞(赤松貞範)・帥の律師則祐(赤松則祐。貞範の弟)が一千余騎で兵庫に着きました。残る五百余騎を、弾正少弼氏範(赤松氏範。貞範・則祐の弟)に付けて船に乗せ、堺(現大阪府堺市)・天王寺(現大阪市天王寺区)に押し寄せて、南方の主上(第九十七代後村上天皇)を捕らえ、楠木(楠木正儀。楠木正成の三男)の軍を遮ろうと二手になって京に上りました。
(続く)