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「太平記」可立大将事付漢楚立義帝事(その3)

昔秦の始皇の世を奪はんとて陣渉ちんせふと云ひける者、みづから大将の印を帯びて大沢たいたくより出でたりしが、無程秦の右将軍白起はくきが為に被討ぬ。その後また項梁こうりやうと云ふ者、自ら大将の印を帯びて、楚国より出でたりけるも、秦の左将軍さしやうぐん章邯に被打にけり。ここに項羽かうう高祖かうそ色を失なつて、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増はんぞうとて年七十三しちじふさんに成りける老臣、座中に進み出でて申しけるは、「天地の間に興こるも亡ぶるも、その理に不依と云ふ事なし。されば楚は三戸さんこの小国なれども、秦を亡ぼさんずる人は、必ず楚王の子孫にあるべし。その故は秦の始皇六国を亡ぼして天下を並呑へいどんせし時、楚の懐王つひに秦を背く事なし。始皇帝しくわうていゆゑなくこれを殺してその地を奪へり。これ罪は秦にあつて善は楚に残るべし。ゆゑに秦を討たんとならば、如何にもして、楚の懐王の子孫を一人取り立てて、諸卒皆命に随ふべし」とぞ計らひ申しける。項羽かうう高祖かうそ諸共に、この義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありとたづね求めけるに、懐王の孫に孫心と申しける人、久しく民間に降つて、羊を養ひけるを尋ね出でて、義帝とがうし奉りて、項羽も高祖も均しく命を慎しみ随ひける。




昔秦の始皇帝の世を奪おうとして陣渉(陳勝)という者が、自ら大将の印を帯びて大沢(都=咸陽。の北東)より現れましたが、ほどなく秦の右将軍白起(公孫起)に討たれました(陳勝は己の御者=馬車に乗って馬を操る人。の荘賈に殺されたらしい)。その後また項梁という者が、自ら大将の印を帯びて、楚国より出ましたが、秦の左将軍章邯に討たれました。こうして項羽・高祖(劉邦。前漢の初代皇帝)は色を失なって、さては誰を大将として、秦を攻めるべきと案じるところに、范増(楚の軍師)と申して年七十三になる老臣が、座中に進み出て申すには、「天地の間に興こるも亡ぶも、その理によるものです。楚は三戸([わずかな戸数。小国のたとえ])の小国ですが、秦を亡ぼす人は、楚王の子孫の他におりません。その故は秦の始皇帝が六国(韓・趙・魏・楚・燕・斉?)を亡ぼして天下を並呑([統一])した時、楚の懐王は遂に秦に背くことはありませんでした。始皇帝は懐王を殺して(懐王は秦に幽閉されたまま死去したらしい)その地を奪いました。この罪は秦にあって善は楚にあります。ですから秦を討とうとするならば、なんとしても、楚の懐王の子孫を一人取り立てたならば、諸卒は皆命に従うことでしょう」と考えを申しました。項羽・高祖(劉邦)ともに、もっともな意見と思い、どこかに楚の懐王の子孫がいないかと捜し求めると、懐王の孫で孫心と申す人が、久しく民間に降って、羊飼いをしているのを探し出して、義帝と呼んで、項羽も高祖も命を重んじて従いました(後に、義帝は項羽によって殺されてしまうのだが)。


続く


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by santalab | 2016-12-28 08:31 | 太平記 | Comments(0)

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