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「太平記」身子声聞一角仙人志賀寺上人事(その7)

ある時上人草庵の中を立ち出でて、手に一尋いちじんの杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつつ、湖水波しづかなるに向かつて、水想観すゐさうくわんを成して、心を澄ましてただ一人立ち給ひたるところに、京極きやうごく御息所みやすどころ、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御かへりありけるが、御車の物見を開けられたるに、この上人御目を見合はせまゐらせて、不覚心迷うてたましひ浮かれにけり。遥かに御車の跡を見送りて立たれども、我が思ひは遣る方もなかりければ、柴のいほりに立ち帰つて、本尊に向かひ奉りたれども、観念の床の上には、妄想まうさうのみ立ちひて、称名しやうみやうの声の中には、堪へ兼ねたる大息おほいきのみぞ突かれける。さてももし慰むやと暮山ぼさんの雲をながむればいとど心も浮き迷ひ、閑窓かんさうの月にうそぶけば、忘れぬ思ひなほ深し。今生の妄念まうねんつひに不離は、後生のさはりと成りぬべければ、我が思ひの深き色を御息所に一端まうして、心安く臨終をもせばやと思ひて、上人狐裘こきうに鳩の杖を突き、泣く泣く京極の御息所の御所へ参つて、鞠の壺の懸かりの下に、一日一夜ぞ立つたりける。




ある時上人は草庵を出て、手に一尋(約75cm)の杖を突き、眉には八字の霜を垂れつつ、湖水の波静かなるに向かって、水想観([水や氷の清らかなさまを想うことによって極楽浄土のさまを観想する方法])をして、心を澄ましてただ一人佇むところに、京極の御息所が、志賀の花園の春の景色を見て、帰るところでしたが、車の物見([牛車の左右の立て板に設けた窓])を開けると、この上人と目が合いました、上人は不覚にも心迷い心が浮かれました。遥かに車の後を見送って立っていましたが、思いは遣る方もなく、柴の庵に帰ると、本尊に向かいましたが、観念の床の上には、妄想ばかり浮かんで、称名の声の中に、堪え兼ねた溜め息をつきました。もしや心慰むかと暮山の雲を眺めればますます心は浮き惑い、
閑窓([閑静な部屋の窓])の月に歌を口ずさめば、忘れられぬ思いはなお深くなりました。今生の妄念が遂に離れずば、後生の障りとなるに違いなく、我が思いの深き色を御息所にわずかも申して、心安く臨終しようと思い、上人は狐裘([キツネのわきの下の白毛皮で作った皮衣])に鳩の杖([握りにハトの飾りのある老人用の杖])を突き、泣く泣く京極の御息所の御所に参って、鞠の壺の懸かり([鞠の懸かり]=[蹴鞠をする庭の四方に植えて、範囲を示す樹木])の下に、一日一夜立っていました。


続く


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by santalab | 2017-01-09 08:17 | 太平記 | Comments(0)

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