畠山入道道誓・舎弟尾張の守義深・同じき式部の大輔兄弟三人は、その勢五百余騎にて伊豆の国に逃げ下り、三津・金山・修禅寺の三つの
城を構へて立て籠もりたりと聞こへければ、鎌倉の左馬の頭基氏先づ平一揆の勢三百余騎を差し向けらる。その勢すでに伊豆の国府に付きて、近辺の庄園に兵粮を懸け、人夫を駈り立てけるほどに、葛山備中の守と、平一揆と所領の事に就いて闘諍を引き出だし、たちまちに軍をせんとぞひしめきける。畠山が手の者に、遊佐・神保・杉原これを聞いて、あはれ費えに乗るところやと思ひければ、五百余騎を三手に分けて、三月二十七日の夜半に、伊豆の国府へ逆寄せにぞ寄せたりける。葛山は、平一揆の者ども畠山となり合つて、夜討ちに寄せたりと騒ぎ、平一揆は、葛山と引き合つて、畠山御方を討たんとするものなりと心得て、ともに心を置き合ひければ、矢の一つをもはかばかしく射出ださず、寄せ手三万騎徒らに鎌倉を指して引き退く。児女の嘲り理なり。
畠山入道道誓(畠山国清)・舎弟尾張守義深(畠山義深)・同じく式部大輔兄弟三人は、その勢五百余騎で伊豆国に逃げ下り、三津(現静岡県沼津市と伊豆の国市の境界にある発端丈山)・金山(現静岡県伊豆の国市)・修禅寺(現静岡県伊豆市)の三つの城を構えて立て籠もったと聞こえたので、鎌倉(室町幕府初代鎌倉公方)の左馬頭基氏(足利基氏)はまず平一揆の勢三百余騎を差し向けました。その勢はすでに伊豆国府(現静岡県三島市)に着いて、近辺の庄園に兵粮をかけ、人夫をかり集めて、葛山備中守と、平一揆との所領についての闘諍([争い])を起こして、たちまちに軍をせんと騒ぎ立てました。畠山(国清)の手の者に、遊佐・神保・杉原はこれを聞いて、このいさかいに便乗しょうと思い、五百余騎を三手に分けて、三月二十七日の夜半に、伊豆国府へ逆寄せ([逆襲すること])に寄せました。葛山は、平一揆の者どもが畠山と一緒になって、夜討ちに寄せて来たと騒ぎ、平一揆は、葛山と引き合って、畠山が我が方を討とうとするものと心得て、ともに心を置いたので、矢の一つをもはかばかしく射出さず、寄せ手三万騎はただ鎌倉を指して引き退きました。児女([女子ども])の嘲りももっともなことでした。