また報光寺・最勝園寺二代の相州に仕へて、引付けの人数に列なりける青砥左衛門と云ふ者あり。数十箇所の所領を知行して、財宝豊かなりけれども、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼きたる塩、干したる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀を持たせけるが、叙爵後は、この太刀に弦袋をぞ付けたりける。加様に我が身の為には、聊かも過差なる事をせずして、公方の事には千金万玉をも不惜。また飢ゑたる乞食、疲れたる訴詔人などを見ては、分に随ひ品に依つて、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に均しき慈悲にてぞありける。
また宝光寺(鎌倉幕府第八代執権、北条時宗)・最勝園寺(鎌倉幕府第九代執権、北条貞時。北条時宗の嫡男)二代の相州(相模守)に仕えて、引付([引付衆]=[鎌倉幕府第五代執権、北条時頼の時、評定衆の下に御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された職])の人数に連なった青砥左衛門(青砥藤綱。鎌倉時代後期の武士)という人がいた。数十箇所の所領を知行して、財宝は豊かであったが、衣裳は細布([綿織物の低級品])の直垂、布の大口([袴の一])、飯の菜には焼いた塩、干した魚一つよりほかは何もしなかった。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀([木刀])を持っていたが、叙爵後は、この太刀に弦袋([掛け替えの弓弦を巻いて持ち歩く道具])を付けていた。このように我が身のためには、多少なりとも過差([分に過ぎたこと])なることをせず、公方のことには千金万玉をも惜しまなかった。また飢えた乞食、疲弊した訴詔人を見ては、身分に従い階位に応じて、米銭絹布などを与えた、仏菩薩の悲願にも匹敵する慈悲の持ち主であった。
(続く)