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「太平記」大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事(その1)

斯かりしかば、大将細川頼春よりはるは、今戦ひ事散じて、御方の手負ひ死人を記さるるに、七百人に余れりといへども、宗との敵二百余人討たれにければ、人皆気を挙げ勇みをなせり。「さらばやがて大館おほたち左馬の助が籠もつたる世田の城へ寄せよ」とて、八月二十四日早旦さうたんに、世田の後ろなる山へ打ち上がりて、城を遥かに見下ろし、一万余騎を七手に分けて、城の四辺に打ち寄り、先づ己が陣々をぞ構へたる。向かひぢんすでに取り巻かせければ、四方しはうより攻め寄せて、持楯もつだてかづき寄せ、乱杭らんぐひ逆茂木さかもぎを引き退けて、夜昼三十日までぞ攻めたりける。城の内には宗との軍をもしつべきつはものと憑まれし岡部をかべ出羽ではかみが一族四十しじふ余人、皆日来のみにて自害しぬ。その外の勇士どもは、千町が原の戦ひに討ち死にしぬ。力尽きじきとぼしうして可防やうもなかりければ、九月三日の暁、大館左馬の助主従十七騎、一の木戸口へ打ち出でて、屏に付きたる敵五百余人を、遥かなる麓へ追ひ下ろし、一度に腹を切つて、枕を並べてぞ臥したりける。防ぎ矢射けるつはものどもこれを見て、今は何をか可期とて、あるひは敵に引つ組んで刺し違ふるもあり、あるひは己が役所に火を懸けて、猛火みやうくわの底に死するもあり。目も当てられぬ有様なり。




こうして、大将細川頼春は、戦い散じて、味方の手負い死人を記すと、七百人に余るほどでしたが、主な敵二百余人を討ったので、人は皆気は高ぶり勇みをなしました。「ならばすぐに大館左馬助(大舘氏明うぢあき)が立て籠もっている世田城(現愛媛県新居浜市)へ寄せよ」と、八月二十四日の早旦に、世田城の後ろの山へ打ち上がり、城を遥かに見下ろし、一万余騎を七手に分けて、城の四辺に打ち寄り、先づ己の陣を構えました。向かい陣で取り巻くと、四方より攻め寄せて、持楯を引き抜き、乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだくい])・逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を引き退けて、夜昼三十日間攻めました。城の内では軍兵として頼りにされていた岡部出羽守の一族四十余人が、皆自害しました。そのほかの勇士どもは、千町が原の戦い(現愛媛県西条市)で討ち死にしました。力尽き食料も乏しくなり防ぐことも適わず、九月三日の暁、大館左馬助(氏明)主従十七騎は、一の木戸口へ打ち出て、屏を囲んだ敵五百余人を、遥か麓へ追い下ろし、一度に腹を切って、枕を並べて臥しました。防ぎ矢を射ていた兵どもはこれを見て、今は何を期すべきと、ある者は敵と引っ組んで刺し違えるもあり、ある者は己の役所([戦陣で、将士が本拠としている所])に火を懸けて、猛火の底に死ぬ者もありました。目も当てられぬ有様でした。


続く


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by santalab | 2017-03-06 07:25 | 太平記 | Comments(0)

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