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「太平記」大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事(その3)

篠塚ちつとも不騒、小歌にて閑々しづしづと落ち行きけるを、敵、「余すな」とて追つ懸くれば立ち止まつて、「嗚呼御辺たち、痛く近付いて首に中違なかちがひすな」とあざ笑うて、くだんの金棒を打ち振れば、蜘の子を散らすが如くさつとは逃げ、また群立むらだつて迹に集り、やじりを揃へて射れば、「某がよろひにはかたがたのへろへろ矢はよも立ち候はじ。すはここを射よ」とて、後ろを差し向けてぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なりとももしや打ち止むると、追つ懸けたる敵二百余騎に、六里の道を被送て、その夜の夜半許りに、今張いまばりの浦にぞ着きたりける。自らこの舟に乗りて、陰の島へ落ちばやと心ざし、「舟やある」と見るに、敵の乗り棄てて水主許かこばかり残れる舟数多あまたあり。これこそ我が物よと悦んで、鎧着ながら浪の上五町ごちやう許りを泳ぎて、ある舟にがはと飛び乗る。水主かこ梶取かんどり驚いて、「これはそもそも何者ぞ」と咎めければ、「さな云ひそ。これは宮方の落人おちうと篠塚と云ふ者ぞ。急ぎこの舟を出だして、我を陰の島へ送れ」と云ひて、二十にじふ余人して繰り立てけるいかりを安々と引き挙げ、四十五尋しじふごひろありけるほばしらを軽々と推し立てて、屋形の内に高枕して、いびき掻きてぞ臥したりける。水主・梶取りどもこれを見て、「あなおびたたし、凡夫ぼんぶわざにはあらじ」と恐怖して、すなはち順風に帆を懸けて、陰の島へ送りて後、いとまを請うてぞかへりにける。昔も今も勇士多しといへども、懸かる事をば不聞とて、篠塚を誉めぬ者こそなかりけれ。




篠塚(篠塚重広しげひろ)はこれを物ともせず、小歌を口ずさみながらゆっくりと落ち行きました、敵が、「逃がすな」と追っ駆ければ立ち止まって、「御辺たちよ、へたに近付いて首と仲違いするな」とあざ笑って、手に持った金棒を打ち振れば、蜘の子を散らしたようにさっと逃げ、また集まっては後に付き、鏃を揃えて矢を射れば、「わしの鎧にはお前達のへろへろ矢は立たぬ。さあここを射よ」と、背中を向けて休みました。けれども名誉の者でしたので、一人なりとももしや討たれるやもと、追っ駆けた敵二百余騎に、六里の道を送られて、その夜の夜半ばかりに、今張の浦(現愛媛県今治市)に着きました。自らこの舟に乗って、陰の島(因島?現広島県尾道市。篠塚重広は隠岐島へ落ち延びたらしいが)へ落ち延びようと思い、「舟はあるかな」と見れば、敵が乗り棄てて水主ばかり残る舟が多くありました。これぞ我が舟よとよろこんで、鎧を着たまま浪の上を五町(約500m)ばかり泳いで、ある舟に飛び乗りました。水主・梶取りは驚いて、「そもそも何者ぞ」と責め立てると、「つめたいことは言うな。わしは宮方の落人で篠塚と言う者よ。急ぎこの舟を出して、わしを陰の島へ送れ」と言って、二十余人して上げるほどの碇を安々と引き上げ、四十五尋(おそらく十五尋=約25m)もある帆柱を軽々と立てると、屋形の内に高枕で、鼾をかいて寝てしまいました。水主・梶取りどもこれを見て、「なんという馬鹿力ぞ、とても凡夫の態ではない」と恐怖して、たちまち順風に帆を懸けて、陰の島へ送った後、暇を請うて帰りました。昔も今も勇士多しといえども、このような者は聞いたことはないと、篠塚(重広)を誉めぬ者はいませんでした。


続く


by santalab | 2017-03-08 07:18 | 太平記

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