主上苦しげなる御息を吐かせ給ひて、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、これ如来の金言にして、平生朕が心に有ありし事なれば、秦の穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一つも朕が心に取らず。ただ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を令泰平と思ふ計りなり。朕則ち早世の後は、第七の宮を天子の位に即け奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行ひなくば、股肱の臣として天下を鎮むべし。思之故に、玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命めいを背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五の巻を持たせ給ひ、右の御手には御剣を按じて、八月十六日の丑の剋に、遂に崩御成りにけり。
主上は苦しげな息を吐かれて、「妻子・珍宝・王位は、冥土に持っていくことはできぬ、これは釈迦如来の金言(『大方等大集経』)であるが、平生朕の心にあるものぞ、秦の穆公(秦の第九代公)が三良詩を埋め、始皇帝は宝玉を埋葬したというが、朕にはまったくそのような思いはない。ただ生々世々([永遠])に妄念となるであろうことは、朝敵を一人残らず亡ぼして、四海([国内])を泰平せしめんと思う心のみ。朕早世の後は、第七の宮(義良親王)を天子の位に即け、賢士忠臣が相謀り、義貞(新田義貞)義助(脇屋義助。新田義貞の弟)の忠功を賞し、子孫に不義の行いのないようにせよ、必ずや股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の臣として天下を鎮めることであろう。それを思えば、玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天(北にある宮城の門の方角)を望もうと思うておる。もし命に背き義を軽んずれば、君も継体の君ではなく、臣も忠烈の臣とならぬであろう」と、委細に綸言を残されて、左の手に法華経の五の巻を持たれ、右の手を御剣に懸けて、八月十六日の丑の刻([午前十二時頃])に、遂に崩御されました。
(続く)