天下久しく乱に向かふ事は、末法の風俗なれば暫く言ふに不足。延喜天暦よりこの方、先帝ほどの聖主神武の君は未だをはしまさざりしかば、何となくとも、聖徳一度開けて、拝趨忠功の望みを達せぬ事は非じと、人皆憑みをなしけるが、君の崩御なりぬるを見進らせて、今は御裳濯河の流れの末も絶え果て、筑波山の陰に寄る人もなくて、天下皆魔魅の掌握に落つる世に成らんずらんと、あぢきなく思へければ、多年著き纏ひ進らせし卿相雲客、あるひは東海の波を蹈んで仲連が跡を尋ね、あるひは南山の歌を唱へて寗戚が行ひを学ばんと、思ひ思ひに身の隠れ家をぞ求め給ひける。
天下が久しく乱に向かうことは、末法([仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期])の習いでしたので申すまでもありませんでした。延喜天暦(第六十代醍醐天皇と、その皇子で第六十二代村上天皇)よりこの方、先帝(第九十六代後醍醐天皇)ほどの聖主神武の君はおられませんでしたので、どうにかして、聖徳が再び開けて、拝趨([出向くことをへりくだっていう語])忠功の望みを達すべきと、人は皆頼みにしていましたのに、君が崩御されたのを見知って、今は御裳濯川(伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川の異称)の流れの末も絶え果て、筑波山(現茨城県つくば市)の陰に寄る人もなくて、天下はすべて魔魅([人をたぶらかす魔物])の掌握に落ちる世になるのではないかと、甲斐なく思われて、多年近習していた卿相雲客([公卿と殿上人])は、あるいは東海の波を越えて仲連(魯仲連。中国戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴したらしい)の跡を尋ね、あるいは南山の歌を唱えて寗戚(春秋時代の東周の軍人らしい)の業績を学ぼうかと、思い思いに身の隠れ家を探し求めました。
(続く)