同じき十一月五日、南朝の群臣相義して、先帝に尊号を献る。御在位の間、風教多くは延喜の聖代を被追しかば、尤もその寄せありとて、後醍醐の天皇と諡し奉る。新帝幼主にて御座ある上、君崩じ給ひたる後、百官冢宰に総て、三年政を聞こし召されぬ事なれば、万機悉く北畠の大納言の計らひとして、洞院の左衛門の督実世・四条の中納言隆資の卿、二人専ら諸事を被執奏。
同じ延元四年(1339)十一月五日に、南朝の群臣は協議して、先帝に尊号を贈りました。在位の間、風教([徳をもって人々を教え導くこと])多くは延喜の聖代(第六十代醍醐天皇の御宇)を追われて、ひたすらに心を寄せられておられたので、後醍醐天皇と諡号されました。新帝(第九十七代後村上天皇)は幼主であられたので、君が崩じられた後は、百官冢宰([周の六卿の一。天官の長で、天子を補佐して百官を統率した])にすべて任され、三年の間政をなされませんでしたので、万事残さず北畠大納言(北畠親房)の計らいで、洞院左衛門督実世(洞院実世)・四条中納言隆資卿(四条隆資)の、二人が諸事を執り行いました。
(続く)