翌年正月十二日、諸卿議奏して曰はく、「帝王の業、万機事繁うして、百司設位。今の鳳闕僅かに方四町の内なれば、分内狭うして調礼儀無所。四方へ一町づつ被広、建殿造宮」。これなほ古の皇居に及ばねばとて、「大内裏可被造」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分の一を被懸召。
翌年(建武元年(1334))正月十二日に、諸卿は議奏して申し上げて、「帝王がなすべきこと万機([政治上の多くの重要な事柄])は多事に渡り、百司の位を設けてこれを行わなくてはなりません。今の鳳闕([皇居の周り])はわずかに四方四町なれば、分内([範囲])は狭く礼儀を調える所もありません。四方を一町ずつ広げて、殿を建て皇居とするべきです」。(第九十六代後醍醐天皇は)皇居を造営するからには昔の皇居に匹敵するものをと思われて、「大内裏を造れ」と申して安芸・周防を料国([内裏・寺社の造営など特定の必要資金に充てるための租税を課する国])に寄せて、日本国の地頭・御家人の所領の得分の二十分の一を徴収し費用に充てました。
(続く)