同じき十二月先づ北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計つて、可経奏聞の由被宣下。その外筑紫の西征将軍の宮、遠江の井城に御座ある妙法院、奥州の新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦の由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討たれし後勢ひ微なりといへども、所々の城郭に軍勢を篭め置き、さまでは敵に挟められざりければ、いつまでかくてもあるべきぞ。城々の勢を一つに合はせて、黒丸の城に立て篭もられたる尾張の守高経を責め落とさばやと評定ありける処に、先帝崩御の御事を承つて、惘然たる事闇夜に灯を失へるが如し。さはありながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義いよいよ心肝に銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも扶けばやと、御国忌の御中陰の過ぐるを遅しとぞ相待ちける。
同じ延元四年(1339)十二月にまず北国にいる脇屋刑部卿義助朝臣(脇屋義助)の方へ綸旨を下しました。先帝(第九十六代後醍醐天皇)の遺勅格別である上は、故義貞(新田義貞)の例に変わらず、官軍への恩賞をはじめ相談の上、奏聞を経るべしとの宣下でした。このほか筑紫の西征将軍宮(懐良親王)、遠江の井城(現静岡県牧之原市?)におられた妙法院(宗良親王)、奥州の新国司顕信卿(北畠顕信)の方へも、任旧主(後醍醐天皇)の遺勅に任せて忠戦を致すよう、綸旨を下されました。義助(脇屋義助。新田義貞の弟)は義貞(新田義貞)が討たれた後は勢いを失っていましたが、所々の城郭に軍勢を籠め置き、さほど敵に攻め込まれていませんでしたので、いつまでも籠もったままでは仕方ない。城々の勢を一つに合わせて、黒丸城(現福井県福井市)に立て籠もっていた尾張守高経(斯波高経)を攻め落とさなくてはと評定があるところに、先帝崩御のことを聞いて、ただただ茫然としてまるで闇夜に灯火を失ったようでした。とはいえ、格別の遺勅他に異なる宣旨の忝さに、ますます忠義を心肝に銘じて、何としても一戦に勝ち、南方祠候の人々を元気付けようと、国忌([皇帝や天皇の祖先や先帝、母等の命日のうち、特に定めて政務を止めて仏事を行うこととした日])の中陰([四十九日])が過ぎるのを遅しと待ちました。