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「太平記」新田起義兵事(その1)

吉野殿武家に御合体ごがつていありつるほどこそ、都鄙とひしばらくしづかなりつれ。御合体たちまちに破れて、合戦に及びし後、畿内・洛中はわずかに王化に随ふといへども、四夷八蛮しいはちばんはなほ武威にしよくする者多かりけり。これによつて諸国七道の兵かれを討ちこれを従へんと互ひに威を立つる間、合戦の止む時もなし。すでに闘諍堅固とうじやうけんごになりぬれば、これならずとも静かなるまじきことわりなり。元弘建武の後より、天下久しく乱れて、一日もいまだ治まらず。心あるも心なきも、如何なる山の奥もがなと、身の穏れ家を求めぬ方もなけれど、いづくも同じ憂き世なれば、厳子陵げんしりよう釣台てうだいも脚を伸ぶるにすさまじく、鄭大尉ていたいゐ幽栖いうせいたきぎになふに山けはし。如何なる一業所感いちごふしよかんにか、斯かる乱世に生まれ逢うて、あるひは餓鬼道がきだうの苦を生まれながら受け、あるひは脩羅道しゆらだうやつこと死なぬ先になりぬらんと、歎かぬ人はなかりけり。




吉野殿(南朝。第九十七代後村上天皇)が武家と和平の間は、都鄙([都と田舎])はしばらく静かでした。合体はたちまちに破れて、合戦に及んだ後は、畿内・洛中はわずかに王化に従いましたが、四夷八蛮([中国の周辺地域に存在する異民族])はなおも武威に属する者が多くいました。このように諸国七道の兵はかれを討ちこれを従えようと互いに争ったので、合戦は止む時はありませんでした。すでに闘諍堅固([修行僧らが互いに自説を主張して譲らず、争いが盛んな状態])になったので、いずれにせよ平穏ならぬことは道理でした。元弘建武の後より、天下は久しく乱れて、一日も治まることはありませんでした。心ある者も心ない者も、如何なる山の奥もと、身の穏れ家を求めぬ者はいませんでしたが、いずれも同じ憂き世なれば、厳子陵(厳光。中国・後漢時代初期の隠者・逸民。子陵は字)が釣り台に脚を伸ばすも寒く(厳光は隠遁の後、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを光武帝=後漢の初代皇帝。に見出だされて、長安に召し出されたらしい)、鄭大尉(鄭弘。前漢の人。経書や法律に通じ南陽太守となったが、後に罷免された)が薪を担ぐに山険しと思えば憚られました。如何なる一業所感([人はいずれも、同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ])にか、このような乱世にたまたま生まれて、あるいは餓鬼道の苦を生まれながら受け、あるいは死ぬ前に修羅道の奴([奴婢])になってしまったかと、嘆かぬ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2017-03-17 15:30 | 太平記 | Comments(0)

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