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「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その3)

東国・西国已に静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦まつらの者ども、大船たいせん七百余艘よさうにて参洛す。新田左馬の助・舎弟兵庫ひやうごの助七千余騎にて被上洛しやうらく。この外国々の武士ども、一人も不残上り集まりける間、京白河に充満して、王城の富貴ふうき日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先づ大功のともがら抽賞ちうしやうを可被行とて、足利治部の大輔高氏たかうぢに、武蔵・常陸ひたち下総しもふさ三箇国、舎弟左馬のかみ直義ただよし遠江とほたふみの国、新田左馬の助義貞に上野かうづけ・播磨両国、子息義顕よしあき越後ゑちごの国、舎弟兵部ひやうぶ少輔せう義助よしすけに駿河の国、楠木判官正成に摂津の国・河内、名和伯耆はうきかみ長年ながとしに因幡・伯耆両国をぞ被行ける。その外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を賜わり給はりけるに、さしもの軍忠ありし赤松入道円心ゑんしんに、佐用さよの庄一所許りを被行。播磨の国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄かに心替はりして、朝敵てうてきと成りしも、この恨みとぞ聞こへし。その外五十ごじふ余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄けつしよたいしやうをば悉く公家被官ひくわんの人々拝領はいりやうしける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。




東国・西国はすでに鎮まり、筑紫の小弐・大友・菊池・松浦の者どもが、大船七百余艘で参洛しました。新田左馬助(新田義貞)・舎弟兵庫助(脇屋義助よしすけ)は七千余騎で上洛しました。このほか国々の武士どもが、一人残らず上り集まったので、京白川に充満して、王城の富貴は日頃の百倍にも達しました。諸軍勢の恩賞はしばらく延引するとも、まず大功の者どもの抽賞を行うべきと、足利治部大輔高氏(足利高氏)に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義(足利直義)に遠江国、新田左馬助義貞(新田義貞)には上野・播磨両国、子息義顕(新田義顕。新田義貞の長男)に越後国、舎弟兵部少輔義助(脇屋義助)に駿河国、楠木判官正成(楠木正成)に摂津国・河内、名和伯耆守長年(名和長年)に因幡・伯耆両国を与えられました。そのほか公家・武家の輩が、二箇国・三箇国を賜わりましたが、あれほど軍忠のあった赤松入道円心(赤松則村のりむら)には、佐用庄(現兵庫県佐用郡佐用町)一所を与えただけでした。播磨国の守護職は程なく召し返されました。こうして建武の乱(延元の乱)に円心はにわかに心変わりして、朝敵となったのもこの恨みによるものだといわれました。そのほか五十余箇国の守護・国司・国々の闕所([財産没収刑またはその刑罰により所有者がいなくなった所領])大庄を残らず公家被官の人々に拝領したので、まさに陶朱(范蠡はんれい。中国春秋時代の越の政治家、軍人)の富貴([陶朱猗頓たうしゆいとんの富]=[陶朱は 金満家として知られ、猗頓は魯国の富豪であったところから、莫大な富])に誇り飽白(中国戦国時代の韓の鄭国と漢代の趙の大夫白公のこと)が衣食に飽きる([飽白の衣食に飽く]=[中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ])に同じでした。


続く


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by santalab | 2017-04-13 07:22 | 太平記 | Comments(0)

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