上人聞此事給ひて、「これぞ神明の我に道心を勧めさせ給ふ御利生よ」と歓喜の泪を流し、それよりやがて京へは帰り給はで、山城の国笠置と云ふ深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長く発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。かくて三四年を過ごし給ひける処に承久の合戦出で来て、義時執天下権しかば、後鳥羽の院被流させ給ひて、広瀬の宮即天子位給ひける。その時解脱上人在笠置窟聞こし召して、為官僧度々被下勅使被召けれども、これこそ第六天の魔王どもが云ひし事よと被思ければ、遂に不随勅定いよいよ行ひ澄ましてぞおはしましける。智行徳開けしかば、やがて成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観上人の行儀かなと、迷愚蒙眼。遂に無幾程建武の乱出で来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終はり給ひけるとぞ聞こへし。
解脱上人(貞慶)はこれを聞いて、「これこそ神明が我に道心を勧める利生([仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益])である」と歓喜の涙を流し、それよりやがて京には帰らず、山城国の笠置(現京都府相楽郡笠置町)という深山に巌屋を作り、落葉を集めて上衣とし、木の実を拾って食としました、長く厭離穢土([苦悩多い穢れたこの娑婆世界を厭 い離れたいと願うこと])の心を持ちひたすら欣求浄土([この穢れた現実世界を離れて極楽浄土、すなわち仏の世界を、心から喜んで願い求めること])に勤めました。こうして三四年を過ごすところに承久の合戦(承久の乱(1221))が起こり、義時(鎌倉幕府第二代執権、北条義時)が執天下を執権しました、後鳥羽院(第八十二代天皇)は配流されて、広瀬院(第八十代高倉天皇の第二皇子、守貞親王。後高倉院)の宮が天子の位に即かれました(第八十六代後堀河天皇)。その時解脱上人は笠置窟におられてこれを聞き、勅使が下され度々官僧の召しがありましたが、これこそ第六天魔王([第六天魔王波旬]=[仏道修行を妨げている魔])どもが申したことだと思われて、遂に勅定に従わずますます行い澄ましておられました。智行([知識と徳行])の徳が開かれて、やがてこの寺(笠置寺)を開山し、今に仏法弘通([仏教や経典が広まること])の地として紹隆([先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること])しています。これを思うに、文観上人の行儀([振る舞い])は嘆かわしく、愚蒙([愚かなこと])の迷いに他なりませんでした。遂にほどなく建武の乱(延元の乱(1336))が起こると、法流([教えを伝える系譜])相続の門弟は一人もなく孤独衰窮の身となり、吉野の辺に漂泊して、命を終えたということです(文観は後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となり、現大阪府河内長野市の金剛寺で没した)。
(続く)