Santa Lab's Blog


「太平記」鎌倉合戦の事(その1)

新田左兵衛さひやうゑすけ・脇屋左衛門さゑもんの佐二人ににんは、わづかに二百余騎に被打成、武蔵のかみに離れぬ、御方の勢どもはいづちへか引きぬらん。浪にも不著礒にも離れたる心地して、皆馬より下りて休まれけるが、「この勢にては上野かうづけへも帰り得まじ。落つて可行方もなし。可打死命なれば、鎌倉へ打ち入つて、足利左馬のかみに逢うて、命を失はばや」とのたまへば、諸人皆この義に同じて、ひたすら討ち死にせんと心ざし、思ひ思ひの母衣ほろ懸けて、鎌倉へとぞおもむかれける。夜半過ぐるほどに関戸せきとを過ぎ給ひけるに、勢のほど五六千騎もあるらんと思えて、西を指して下る勢に行き合ひ給ひて、これは搦め手に廻る勢にてぞあるらん。おさては鎌倉までも不行著して、関戸にてぞ、かばねをば可曝にてありけりと、面々に思ひ定めて一処に馬を懸け寄せ、「これは誰殿たれどのの勢にて御渡り候ふぞ」と問はれければ、「これは石堂入道・三浦の介、新田殿へ御まゐり候ふなり」とぞ答へける。義興よしおき義治よしはる手を拍つて、こはいかにと悦び給ふ事無限。ただ魯陽ろやう朽骨きうこつたび連なつて韓搆かんこうと戦を致せし時、日を三舎に返しし悦びも、これには過ぎじとぞ思えける。




新田左兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)・脇屋左衛門佐(新田義貞の弟、脇屋義助の子、脇屋義治よしはる)二人は、わずか二百余騎に打ち成され、武蔵守(新田義宗よしむね。新田義貞の三男)とも離れてしまいました。味方の勢どもはどちらに引き退いたのか。浪にも付かず礒にも離れ漂う心地がして、皆馬より下りて休んでいましたが、「この勢では上野(ほぼ現群馬県)には戻れまい。落ちて行く所もない。討ち死にを覚悟した命ならば、鎌倉へ打ち入って、足利左馬頭(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)と討ち合って、命を失うべき」と申せば、諸人は皆この義に同じて、ひたすら討ち死にせんと心ざし、思い思いの母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具。兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの])を懸けて、鎌倉へと赴きました。夜半を過ぎるほどに関戸(現東京都多摩市)を過ぎる時、勢のほど五六千騎もあると思えて、西を指して下る勢に行き合いました、これは搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])に廻る勢に違いない。こうなっては鎌倉までも行き着かずして、関戸で、屍を晒すことになるであろうと、面々に覚悟を決めて一所に馬を駆け寄せ、「これは誰殿の勢であられるか」と訊ねると、「これは石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介が、新田殿(新田義興)の許に参るところでございます」と答えました。義興・(脇屋)義治は手を拍って、これはなんということかと限りなくよろこびました。これはただ魯陽(中国戦国時代の楚の人)が朽骨([朽ちた骨])を再び繋げて韓搆で戦を致した時、日を三舎([古代中国の天文学で、三星宿の距離])戻した(『魯陽のほこ』)よろこびも、これには過ぎないと思われました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-05-09 08:13 | 太平記 | Comments(0)

<< 「太平記」鎌倉合戦の事(その2)      「太平記」北山殿謀反の事(その12) >>

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
こんにちは。今日はSan..
by 佐藤綾乃 at 18:44
返歌 草枕…に因んで短歌..
by 井上勇 at 23:54
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧