塔の辻の合戦難義なりと見へければ、脇屋左衛門の佐と、小俣小輔二郎と一手に成つて、二百余騎喚ひて懸られけるに、南遠江の守被懸立て、旗を巻いて引き退くを見て、谷々に戦ひける兵ども、十方へ落ち散りける間、一所に打ち寄る事不叶して、百騎二百騎思ひ思ひに落ちて行く。されども三浦・石堂が兵ども、余りに戦ひくたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江の守は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜を差して被落けり。新田左兵衛の佐・脇屋左衛門の佐、二月十三日の鎌倉の軍に打ち勝つてこそ、会稽の恥を雪むるのみに非ず、両大将と仰がれて、暫く八箇国の成敗に被居けり。
塔ノ辻の合戦が難義しているように見えたので、脇屋左衛門佐(新田義貞の弟、脇屋義助の子、脇屋義治)は、小俣小輔二郎と一手になって、二百余騎喚いて駆けると、南遠江守は駆け立てられて、旗を巻いて引き退くのを見て、谷々で戦っていた兵どもは、十方へ落ち散ったので、一所に打ち寄ることも叶わず、百騎二百騎と思い思いに落ちて行きました。けれども三浦・石塔(石塔義房)の兵どもは、あまりに戦いくたびれて、さして敵を追いませんでしたので、南遠江守は、今日の合戦に打ち洩れて、左馬頭(足利基氏。足利尊氏の四男)を具足して、石浜を指して落ちて行きました。新田左兵衛佐(新田義興。新田義貞の次男)・脇屋左衛門佐(脇屋義治)は、二月十三日の鎌倉の軍に打ち勝って、会稽の恥を雪ぐのみならず、両大将と仰がれて、しばらく八箇国を支配しました。
(続く)