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「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その4)

都を被立ける日はその勢わづかに五百余騎ありしかども、近江あふみ・美濃・尾張をはり・三河・遠江とほたふみの勢馳せくははつて、駿河の国に着き給ひける時は三万余騎に成りにけり。左馬のかみ直義ただよし尊氏たかうぢきやうの勢を合はせて五万余騎、矢矯やはぎの宿より取つて返してまた鎌倉へ発向はつかうす。相摸次郎時行ときゆきこれを聞いて、「源氏は若干そくばくの大勢と聞こゆれば、待ち軍して敵に気を呑まれては不叶。先んずる時は人を制するに利あり」とて、我が身は鎌倉に在りながら、名越なごや式部の大輔を大将として、東海・東山とうせん両道を押して責め上る。その勢三万余騎、八月三日鎌倉を立たんとしける夜、にはかに大風吹いて、家々を吹き破りける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃げ入り、各々身をちぢめてたりけるに、大仏殿の棟梁とうりやう微塵みぢんれてたふれける間、その内に集まりたる軍兵ども五百余人、一人も不残しに打てて死にけり。戦場せんぢやうに趣く門出に懸かる天災に逢ふ。この軍はかばかしからじと、ささやきけれども、さてあるべき事ならねば、重ねて日を取り、名越式部の大輔鎌倉を立つて、夜を日に継いで路を急ぎける間、八月七日前陣ぜんぢんすでに遠江とほたふみ佐夜さよの中山を越えけり。




都を立った日にはその勢はわずか五百余騎でしたが、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢が馳せ加わり、駿河国に着いた時には三万余騎になっていました。左馬頭直義(足利直義。足利尊氏の弟)は、尊氏卿の勢を合わせて五万余騎で、矢作宿(現愛知県岡崎市)より取って返してまた鎌倉へ発向しました。相摸次郎時行(北条時行)はこれを聞いて、「源氏はたいそう大勢と聞いておる、待ち軍して敵に気を呑まれては敵うまい。先んずれば人を制するに利あり」と申して、我が身は鎌倉にいながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を攻め上りました。その勢三万余騎が、八月三日に鎌倉を立とうとする夜に、急に大風が吹いて、家々を吹き壊したので、天災を遁れようと大仏殿の中へ逃げ入り、各々身を縮めているところに、大仏殿の棟梁([むねはり])が、微塵に折れて倒れました、その中に集まっていた軍兵ども五百余人は、一人も残らず圧死しました。戦場に赴く門出にこのような天災に遭いました。この軍は望み通りとはなるまいと、ささやき合いましたが、止める訳にもいきませんでしたので、重ねて日を決めて、名越式部大輔は鎌倉を立って、夜を日に継いで路を急ぎました、八月七日には前陣はすでに遠江の佐夜の中山(現静岡県掛川市)を越えました。


続く


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by santalab | 2017-05-28 09:10 | 太平記 | Comments(0)

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