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「太平記」南帝八幡御退失の事(その5)

去るほどに新田武蔵の守義宗よしむねは、四月二十七日にじふしちにち越後の津張つばりより立つて、七千余騎越中ゑつちゆう放正津はうじやうづに着けば、桃井播磨の守直常ただつね、三千余騎にて馳せ参る。都合その勢一万余騎、九月十一日前陣せんぢんすでに能登の国へ発向はつかうす。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河の国を立つて、路次ろしの軍勢を駈りもよほし、六千余騎を率して、五月十一日に先陣すでに美濃の垂井たるゐ・赤坂に着きしかば、八幡に力をはせんと遠篝とほかがりをぞ焚きたりける。これのみならず信濃のしもの宮も、神家じんけ・滋野・友野・上杉・仁科・禰津ねづ以下の軍勢を召し具して、同じき日に信濃を立たせ給ふ。伊予には土居とゐ得能とくのう、兵船七百余艘よさうに取り乗つて、海上より責め上る。東山とうさん北陸ほくろく・四国・九州の官軍くわんぐんども、皆我が国々を立ちしかば、路次の遠近に依つて、たとひ五日三日の遅速はあるとも、後攻ごづめの勢こそ近付きたれと、云ひ立つほどならば、八幡の寄せ手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上しゆしやうは八幡を落ちさせ給ひしかば、国々の官軍くわんぐんも力を落とし果て、皆己が本国へぞ引つ返しける。これもただ天運の時不至、神慮より事起こる故とは云ひながら、とすれば違ふ宮方の運のほどこそはかられたれ。




やがて新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)は、四月二十七日に越後の津張(現新潟県中魚沼郡津南町)より立って、七千余騎で越中の放正津(現富山県射水市)に着くと、桃井播磨守直常(桃井直常)も、三千余騎で馳せ参りました。都合その勢一万余騎が、九月十一日に前陣はすでに能登国に発向しました。吉良三郎(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔頼房よりふさ)も、四月二十七日に駿河国を立って、路次の軍勢を駆り集め、六千余騎を率して、五月十一日に先陣が美濃の垂井(現岐阜県不破郡垂井町)・赤坂(現岐阜県大垣市)に着くと、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に力を合わせようと遠篝を焚きました。これのみならず信濃の下宮(現長野県諏訪郡下諏訪町にある諏訪大社)も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召し具して、同じ日に信濃を立ちました。伊予では土居・得能が、兵船七百余艘に取り乗って、海上より攻め上りました。東山道・北陸道・四国・九州の官軍どもも、皆己の国々を立ったので、路次の遠近により、五日三日の遅速はあるとも、後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢])の勢が近付くと、広まれば、八幡の寄せ手は皆退散するはずでしたが、今四五日を待たずして、主上(第九十七代後村上天皇)は八幡を落ちられました、国々の官軍も力を落とし果て、皆己が本国に引き返しました。これもただ天運の時至らず、神慮より事起こる故とは言いながら、ともすれば神慮に違う宮方の運のほどが推し量られました。


続く


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by santalab | 2017-06-10 08:32 | 太平記 | Comments(0)

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