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「太平記」茨宮御位事(その1)

今度吉野殿と将軍と御合体ごがつていの儀破れて合戦に及びし刻み、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮・梶井かぢゐ二品にほん親王しんわうまで、皆南方の敵にとらはれさせ給ひて、あるひは賀名生あなふの奥、あるひは金剛山こんがうせんの麓に御座あれば、都には御在位ございゐの君もおはしまさず、山門には時の貫首くわんじゆも渡らせ給はず。この平安城へいあんじやう比叡山ひえいさんと同時に始まりて、すでに六百余歳、一日もいまだ斯かる事をば承り及ばず、これぞ末法の世になりぬるしるしよと、浅ましかりし事どもなり。されどもかくてはいかがあるべきとて、 天台の座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤じよういん親王をなし奉る。この宮は前門主の御振る舞ひに様替やうかはつて、遊宴奇物をも愛でせさせ給はず、行業ぎやうごふ不退ふたいにしてただ我が山の興隆をのみ御心に懸けられたりければ、靡き奉らぬ衆徒もなかりけり。さて御位には誰をか就け参らすべきとたづね求め奉るところに、本院ほんゐん第二の御子、三条さんでうの内大臣公秀きんひでの御娘三位殿さんみどのの御局、後には陽禄やうろく門院と申しし御腹に生まれさせ給ひたりしが今年十五にならせ給ふを、日野の春宮とうぐう権大進ごんのたいしん保光やすみつおほせて、南方へ取り奉らんとせられけるが、とかく料理れうりとどこほつて、保光京都に捨て置き奉りけるを尋ね出だし参らせて、御位には就け参らせけるなり。




今度吉野殿(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)と将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)と合体の儀は破れて合戦に及んだ時、持明院の本院(北朝初代光厳天皇)・新院(北朝第二代光明天皇)・主上(北朝第三代崇光天皇)・春宮(崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁ふしみのみやよしひと親王)・梶井二品親王(第九十三代後伏見院の第六皇子、承胤しよういん法親王)まで、皆南方の敵に捕らわれて、あるいは賀名生(現奈良県五條市)の奥、あるいは金剛山(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の麓におられたので、都には在位の君もおられず、山門(比叡山)には時の貫首([天台座主])も渡られることはありませんでした。平安城(平安京)と比叡山が同時に始まって、すでに六百余歳、一日もいまだこのようなことを聞くことはなく、これぞ末法([仏法が行われなくなる時代])の世になる験よと、嘆かわしいことでした。けれどもこのままではどうかと、天台座主には、梶井二品親王の弟子、承胤親王(第九十三代後伏見天皇の皇子)を就けられました。この宮は前門主の振る舞いとはまるで異なり、遊宴奇物を愛でることなく、行業不退にしてただ我が山の興隆をのみ心に懸けておられたので、靡かぬ衆徒([僧])はいませんでした。さても帝位には誰を即け参らせるべきと尋ね求めるところに、本院(光厳天皇)の第二皇子、三条内大臣公秀(正親町三条公秀)の娘三位殿局(正親町三条秀子)、後には陽禄門院と申された腹にお生まれになられた皇子が今年十五になっておられました、日野春宮権大進保光(日野保光)に命じて、南方(南朝)に移そうとしましたが、処置に手間取って、保光が京都に捨て置いたのを尋ね出して、位に即けられました(北朝第四代後光厳天皇)。



by santalab | 2017-06-11 08:42 | 太平記

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