伝奏洞院の右大将頻りに被執申ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即ち綸旨をぞ被成ける。これを聞きて遊和軒朴翁難じ申しけるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云ふ事なし。されば直冬朝臣を以つて大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。その故は昔天竺に師子国と云ふ国あり。この国の帝他国より后を迎へ給ひけるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支へ道をぞ送り進らせける。日暮れてある深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子ども二三百疋走り出で、追つ譴め追つ譴め人を食ひける間、軽軒軸折れて馳すれども不遁、官軍矢射尽くして防げども不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰い殺されにけり。
伝奏の洞院右大将(洞院実守)がしきりに執申([仲介する、 取次ぐ])したので、再往の沙汰もなく直冬(足利直冬。足利尊氏の子で足利直義の猶子)の申請通り、たちまち綸旨を下されました。これを聞いて遊和軒朴翁は非難して申すには、「天下の治乱興滅は皆大理に依らずということなし。なれば直冬朝臣を大将として京都を攻めたところで、一旦の謀となるとも成就することはあいであろう。その故は昔天竺に師子国という国があった。この国の帝が他国から后を迎えるために、軽軒([軽快な上等の車])香車([立派な車])数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に連なって道中を送った。日が暮れてある深山を通っておると、勇猛奮迅([勢い激しくふるいたつこと])の獅子どもが二三百匹現れて、追い詰め追い詰め人を喰った、軽軒の軸は折れて急ごうとも逃れることはできず、官軍が矢を射尽くして防ぐとも叶わず、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人が、一人も残らず喰い殺されたのじゃ。
(続く)