三条右大臣殿の、かの一条殿の対どもに居給へりし御方々、宮迎へられ給ひて、「今は、限りなめり」とて、思ひ思ひに渡り給ひし中に、西の一の対に、源宰相の、
故郷に 多くの年は 住みわびぬ 渡り川には 訪はじとやする
と書き付け給へりしを、殿、おはして、見付け給ひて、「心深く、をかしう、かたちなどもことなむなかりしを、いかで、こればかりを、あり所を聞かましかば、尋ねてしかな」とのたまへば、
尚侍、「いとよきことなり。宮のおはしける所に、
数多、さても物し給ひけるを、
女子もなく、さうざうしき。所は、広う面白うめでたきに、もとのやうにて物し給はば、聞こえ交はしてあらむ」とて、右大将の参り給へるに、「ここにのたまふめること、なほ、御心留めて尋ね給へ」と聞こえ給へば、「げに、長く」と思す。
三条右大臣殿【藤原兼雅】の、かの一条殿の対屋に住んでいた女房たちは、女三の宮が兼雅に迎え入れられたので、「こことも、お別れね」と言って、各々一条殿から去って行きました、西の一の対屋に、源宰相が住んでいましたが、
この一条殿を故郷だと思って長年住んできましたのに、ここを出て行かなくてはなりません。渡り川([三途の川])を訪ねよということでしょうか。
と書き付けてあったのを、殿【藤原兼雅】が、訪ね来て、見付け、「情け深く、趣きがあり、顔かたちも非の打ち所ない女であった、どうにかして、この女ばかりは、もしも居所を聞くことがあったなら、訪ねてみたいものだが」と申すと、尚侍【藤原兼雅の妻。清原俊蔭の娘で藤原仲忠の母】は、「それはとてもよいことですわ。宮【女三の宮。嵯峨院の皇女】のおられる所には、数多くの女房たちが、いらっしゃいましたのに、わたしには一人の娘もなく、さみしい思いをしておりました。所は、広く風情があって立派なのですから、もとのように女房として仕えてくれれば、話し相手にもなってくれましょう」と言って、右大将【藤原仲忠】が訪ねた折に、「そなたの父が申したことです、よくよく、心に留めて居場所を探しなさい」と申すと、「そういうことならば、忘れず心に留めておこう」と思うのでした。
(続く)