Santa Lab's Blog


2014年 06月 04日 ( 7 )



「太平記」俊基被誅事並助光事(その6)

北の方は助光を待ち付けて、弁殿の行末ゆくへを聞かん事の喜しさに、人目も憚らず、御簾みすより外に出で迎ひ、「いかにや弁殿は、いつ頃に御上り可有との御返事ぞ」と問ひ給へば、助光はらはらとなみだをこぼして、「早や斬られさせ給ひて候ふ。これこそ今際いまはきはの御返事にて候へ」とて、びんの髪と消息せうそくとを差し上げて声もしまず泣きければ、北の方は形見の文と白骨を見給ひて、内へも入り給はず、縁にたふれ伏し、消え入り給ひぬと驚くほどに見へ給ふ。ことわりなるかな、一樹の陰に宿り一河いちがの流れを汲むほども、知られず知らぬ人にだに、別れとなれば名残りをしむ習ひなるに、いはんや連理の契り不浅して、十年余ととせあまりに成りぬるに夢より外はまたもあひ見ぬ、この世の外の別れと聞いて、絶え入り悲しみ給ふぞことわりなる。四十九日とまうすに型の如くの仏事営みて、北の方様を変へ、濃き墨染めに身をやつし、柴のとぼその明け暮れは、亡夫ばうふの菩提をぞとぶらひ給ひける。助光ももとどり切りて、永く高野山かうやさんに閉じ籠もつて、ひとへに亡君ばうくん後生菩提ごしやうぼだいをぞ弔ひ奉りける。夫婦の契り、君臣の儀、亡き跡までも留まりてあはれなりし事どもなり。




北の方は助光を待ち付けて、弁殿(日野俊基としもと)の行末を聞くうれしさに、人目も憚らず、御簾から外に出て迎えて、「どうでしたか弁殿は、いつ頃に上られると申されておられましたか」と訊ねました、助光ははらはらと泪をこぼして「すでに斬られてしまわれました。これが今際の返事でございます」と言って、鬢([耳ぎわの髪])の髪と消息([文])を差し上げて声も惜しまず泣きました、北の方は形見の文と白骨を見て、内へも入ることができずに、縁に倒れ伏し、消え入ったかと驚くほどでした。条理というものでしょうか、一樹の陰に宿り同じ流れを汲む者でも、名も知らぬ人でさえ、別れとなれば名残りを惜しむものですが、言うまでもなくいはんや連理([夫婦・男女の間の深い契り])の契り浅からずして、十年余りでしたが今は夢より外に再び逢うことも叶わぬ、この世の外の別れと聞いて、絶え入るまでに悲しむのも道理でした。四十九日には形式通り仏事を営んで、北の方は様を変え、濃き墨染め([法衣])に身をやつし、柴の扉([草庵])の明け暮れに、亡夫の菩提([死後の冥福])を弔いました。助光も髻([髪])を切って、生涯高野山に閉じ籠もって、ひたすら亡君後生菩提を弔いました。夫婦の契り、君臣の儀、亡き後までも留まって哀れなものでした。


続く


[PR]
by santalab | 2014-06-04 08:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基被誅事並助光事(その5)

工藤左衛門幕の内に入つて、「余りに時の移り候ふ」と勧むれば、俊基としもと畳紙たたうがみを取り出だし、首のまはり押しのごひ、その紙を押し開いて、辞世のじゆを書き給ふ。

古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。

筆を差し置いて、びんの髪をなで給ふほどこそあれ、太刀陰後ろに光れば、首はまへに落ちけるを、みづから抱へて伏し給ふ。これを見奉る助光が心の内、たとへて云はん方もなし。さて泣く泣く死骸をさうし奉り、空しき遺骨ゆゐこつを首に懸け、形見の御文身にへて、泣く泣くきやうへぞ上りける。




工藤左衛門(工藤高景たかかげ)は大幕の内に入って、「そろそろ時間だ」と促したので、俊基(日野俊基)は畳紙([折り畳んで懐中に入れ、鼻紙や詩歌の詠草などに用いる紙])を取り出し、首の回りを押し拭って、その紙を押し開いて、辞世の頌([詩])を書きました。

昔から言うではないか、この世には死もなく生もない、万里の果てまで雲は続き、長江の水があくまで清いように。

筆を差し置いて、鬢([耳ぎわの髪])の髪をなでるほどに、太刀の陰が後ろに光れば、首は前に落ちるのを、自ら抱えて倒れ伏しました。これを見る助光の心の内は、たとえようもないものでした。その後泣く泣く死骸を火葬し、空しくなった遺骨を首に懸け、形見の文を携えて、泣く泣く京に上りました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 08:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基被誅事並助光事(その4)

助光幕の内に入つて御前おんまへひざまづく。俊基としもとは助光を打ち見て、「いかにや」とばかりのたまひて、やがて泪に咽せび給ふ。助光も、「北の方の御文にて候ふ」とて、御前おんまへに差し置きたるばかりにて、これも涙に暮れて、顔をも持ち上げず泣き居たり。ややしばらくあつて、俊基涙を押しのごひ、文を見給へば、「消え懸かる露の身の置き所なきに付けても、いかなる暮れにか、なき世の別れとうけたまはり候はんずらんと、心を砕く涙のほど、御推し量りもなほ浅くなん」と、ことばに余りて思ひの色深く、黒み過ぐるまで書かれたり。俊基いとど涙に暮れて、読みかね給へる気色、見る人袖を濡らさぬはなかりけり。「すずりやある」とのたまへば、矢立てを御前おんまへに差し置けば、硯の中なる小刀にてびんの髪を少し押し切つて、北の方の文に巻き添へ、引きかへし一筆書いて助光が手に渡し給へば、助光ふところに入れて泣きしづみたる有様、ことわりにも過ぎてあはれなり。




助光は大幕の内に入ると俊基(日野俊基)の御前に跪きました。俊基は助光をわずかに見て、「どうしてここに」とばかり申して、たちまち泪に咽せびました。助光も、「北の方の文でございます」と言って、御前に差し置くのがやっとで、同じく涙に暮れて、顔も持ち上げることができないほどに泣いていました。ややしばらくあって、俊基は涙を押し拭い、文を見れば、「消え懸かる露の身ながらにして身の置き所もございません、いつの暮れか、一生会えないこともあるかと、心を砕くほどの悲しみに涙が溢れ出て止まることがございません、思われるほどよりも悲しみは深くて」と、言葉に余るほど悲しみの色は深いことが、とめどなく書かれていました。俊基はいっそう涙に暮れて、読みかねる気色を、見る人は袖を濡らさない者はいませんでした。「硯はあるか」と申すと、矢立ての硯([えびらなどの中に入れて陣中に携帯した小さい硯箱])を御前に差し置けば、硯の中にあった小刀で鬢([耳ぎわの髪])の髪を少し押し切って、北の方の文に巻き添えると、裏に一筆書いて助光に手渡しました、助光は懐に入れて泣き沈みましたが、道理にも余り哀れでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 08:05 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基被誅事並助光事(その3)

ここにて工藤二郎左衛門じらうざゑもんじよう請け取りて、葛原岡くずはらがをか大幕おほまく引いて、敷皮しきかはの上に坐し給へり。これを見ける助光が心の内たとへて云はん方もなし。目暮れ足も萎へて、絶え入るばかりにありけれども、泣く泣く工藤殿がまへに進み出でて、「これは右少弁殿の伺候しこうの者にて候ふが、最後のやう見奉り候はん為に遥々とまゐり候ふ。可然は御免をかうぶつて御前おんまへに参り、北の方の御文をも見参に入れ候はん」とまうしも敢へず、なみだをはらはらと流しければ、工藤も見るにあはれをもよほされて、不覚の泪堰き敢へず。「子細候まじ、早や幕の内へ御まゐり候へ」とぞ許しける。




ここで工藤二郎左衛門尉(工藤高景たかかげ)が日野俊基としもとを請け取り、葛原岡(現神奈川県鎌倉市)に大幕を引き、敷皮([毛皮の敷物])の上に据えました。これを見た助光の心の内はたとえようのないものでした。目は暮れ足もふるえて、今にも絶え入るばかりでしたが、泣く泣く工藤殿(高景)の前に進み出て、「わたしは右少弁殿(日野俊基)に仕える者でございますが、最期を見届け参らせようと遥々と参りました。できれば御免を賜って御前に参り、北の方の御文をお見せしたいのですが」と申しも敢えず、泪をはらはらと流したので、工藤(高景)も見るに哀れを催して、思わず泪を流し止めることができませんでした。「かまわぬ、早く幕の内へ参られよ」と許しました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 08:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基被誅事並助光事(その2)

この朝臣の多年召し使ひける青侍あをさぶらひに後藤左衛門さゑもんじよう助光すけみつと云ふ者あり。しゆう俊基としもと召し取られ給ひし後、北の方に付きまゐせ嵯峨の奥に忍びてさふらひけるが、俊基としもと関東へ被召下給ふ由を聞き給ひて、北の方は堪へぬ思ひに伏ししづみて歎き悲しみ給ひけるを見奉るに、不堪悲して、北の方の御文を賜はつて、助光忍びて鎌倉へぞ下りける。今日明日けふあすのほどと聞こへしかば、今は早や斬られもやし給ひつらんと、行き逢ふ人に事の由を問ひ、ほどなく鎌倉にこそ着きにけれ。右少弁うせうべん俊基のをはするあたりに宿を借りて、いかなる便りもがな、事の子細をまうし入れんとうかがひけれども、不叶して日を過ごしけるところに、今日けふこそ京都よりの召人めしうどは斬られ給ふべきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こはいかがせんと肝を消し、ここかしこに立ちて見聞けんもんしければ、俊基すでに張輿はりごしに乗せられて化粧坂けはひざかへ出で給ふ。




この朝臣(日野俊基としもと)が多年召し使っていた青侍([貴族・公家の家政機関に勤仕する侍])に後藤左衛門尉助光(後藤助光)という者がいました。
主人である俊基が捕らわれた後、北の方に付いて嵯峨(現京都市右京区)の奥に忍んでいましたが、俊基が関東に下されたことを聞いて、北の方は悲しみに堪えず伏し沈み嘆き悲しむのを見て、悲しくて、北の方の文を賜わって、助光は忍んで鎌倉へぞ下りました。今日明日にも斬られると聞いて、もう斬られたのではないかと、行き逢う人に訊ねながら、ほどなく鎌倉に着きました。右少弁俊基のおられる近くに宿を借りて、なんとか北の方の文、暮らしぶりを伝えようと隙を窺っていましたが、叶わないまま日を過ごしていました、今日京都からの召人が斬られることになった、かわいそうなことよ、などと話すのを聞いて、助光はいったいどうすればよいのかと肝を潰し、あちらこちらに出て見聞きすると、俊基はすでに張輿([屋形と左右の両側を畳表で張り、押縁おしぶち=板などを押さえるため、その上から打ち付ける細い材 。を打った略式の輿])に乗せられて化粧坂(鎌倉七口の一)に向かったということでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 07:57 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基被誅事並助光事(その1)

俊基としもと朝臣は殊更謀反の張本ちやうほんなれば、遠国をんごくに流すまでもあるべからず、近日に鎌倉中かまくらぢゆうにて斬り奉るべしとぞ被定たる。この人多年の所願しよぐわんあつて、法華経ほけきやうを六百部みづから読誦し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満つるほどの命を被相待候ひて、その後ともかくも被成候へと、しきりに所望しよまうありければ、げにもそれほどの大願だいぐわんを果たさせ奉らざらんも罪なりとて、今二百部のふるほどわづかの日数ひかずを待ち暮らす、命のほどこそあはれなれ。




俊基朝臣(日野俊基)はとりわけ謀反の張本でしたので、遠国に流すまでもない、近日に鎌倉で斬るようにと決まりました。俊基には多年の所願があり、法華経を六百部を自ら読誦していましたが、あと二百部残っていたので、六百部になるまでの命を待って、その後斬られよと、しきりに所望したので、確かにそれほどの大願を果たさせないのも罪だと、あと二百部が終わるほどのわずかの日数を待つ、命のほどこそ哀れなものでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 07:43 | 太平記 | Comments(0)


「承久記」新院宮々流され給ふ事(その5)

同じき二十五日、冷泉の宮、備前の国豊岡の庄、児島へ遷されさせ給ふ。鳥羽より御船に召し、この外刑部卿の僧正、阿波の宰相中将信成のぶなり、右大弁光俊みつとしなども流されけり。




同じ七月二十五日、冷泉宮(頼仁よりひと親王。後鳥羽院の皇子)が、備前国豊岡庄、児島(現岡山県倉敷市)に流されました。鳥羽(現京都市南区・伏見区)より船に乗り、冷泉宮のほか刑部卿僧正(長厳ちようげん。鎌倉初期の天台宗園城寺の僧で後鳥羽院の護持僧)、阿波宰相中将信成(藤原信成)、右大弁光俊(葉室はむろ光俊みつとし)らも配流となりました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-04 07:05 | 承久記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
さらに付け加えますと、こ..
by 八島 守 at 09:03
おそらく「国民文庫」だと..
by santalab at 21:09
こんにちは。今日はSan..
by 佐藤綾乃 at 18:44
返歌 草枕…に因んで短歌..
by 井上勇 at 23:54
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧