Santa Lab's Blog


2014年 06月 15日 ( 25 )



「太平記」大塔宮熊野落の事(その15)

跡に続いて追ひける者どもも、これを見て敢へて近付く者一人もなし、ただ遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋ふたすぢ被射付て、今は助かり難しと思ひければ、「や殿、矢田殿やだどの、我はとても手負うたれば、ここにて討ち死にせんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走りまゐりて、この由を申まうして、ひとまども落としまゐせせよ」と、再往さいわう強ひ云ひければ、矢田も一所にて討ち死にせんと思ひけれども、げにも宮に告げ申さざらんは、かへつて不忠なるべければ、無力ただ今討ち死にする傍輩はうばいを見捨てて帰りける心の内、被推量てあはれなり。矢田遥かに行き延びて跡をかへり見れば、片岡八郎早や被討ぬと見へて、首を太刀の切つ先に貫いて持ちたる人あり。矢田急ぎ走り帰つてこの由を宮に申しければ、「さては遁れぬ道に行き迫りぬ。運の窮達きゆうたつ歎くに無詞」とて、御伴の人々に至るまで中々騒ぐ気色ぞなかりける。さればとてここに可留にあらず、行かれんずる所まで行けやとて、上下じやうげ三十さんじふ余人のつはものども、宮をさきに立てまゐらせて問ひ問ひ山路をぞ越え行きける。すでに中津川なかつがはたうげを越えんとし給ひけるところに、向かうの山の両の峯に玉置たまぎが勢と思えて、五六百人がほど直兜ひたかぶとよろうて、楯を前に進め射手を左右へ分けて、鬨の声をぞ上げたりける。




後に続いて追っていた者どもも、これを見てあえて近付く者は一人もいませんでした、ただ遠矢に射すくめられて、片岡八郎は矢二本射られて、今は助かり難く思えば、「や殿、矢田殿(矢田彦七)よ、わたしはひどく手負うて、ここで討ち死にしようと思う。お主は急ぎ大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)の許に走り参って、このことを申し上げて、ひとまず落ちられよ」と、何度も強く言ったので、矢田も一所で討ち死にしようと思いましたが、たしかに大塔の宮に火急を申し上げないのは、不忠になると、仕方なく今にも討ち死にする傍輩([仲間])を見捨てて返る胸の内が、推し量られて哀れでした。矢田は遥か行き延びて後ろを振り返ると、片岡八郎は早くも討たれたように見えて、首を太刀の切っ先に貫いて持つ者がいました。矢田は急ぎ走り帰ってこれを大塔の宮に申し上げると、「遁れられぬ道に入り込んだか。運の窮達([おちぶれることと栄えること])に嘆くことはない」と申して、伴の者たちに至るまで騒ぐことはありませんでした。とはいえここに留まっているわけにもいかなかったので、進めるところまで進めと、上下三十余人の兵は、大塔の宮を前に立てて尋ね尋ね山路を越えて行きました。すでに中津川の峠(現奈良県吉野郡野迫川のせがは村中津川)を越えようとするところに、向こうの山の両峯に玉置(玉置庄司)の勢と思われて、五六百人ほどが直兜([全員が、鎧・兜を着用して身を固めること])に身を纏い、楯を前に並べ射手を左右に分けて、鬨の声を上げました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 22:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その14)

その夜は椎柴垣しひしばがきの隙露はなる山賤やまがついほりに、御枕を傾けさせ給ひて、明くれば小原をばらへと心ざし、たきぎ負うたる山人やまうどの行き逢ひたるに、道のやうを御たづねありけるに、心なき樵夫きこりまでも、さすが見知りまゐらせてやありけん、薪を下ろし地にひざまづいて、「これより小原へ御とほり候はん道には、玉木たまぎ庄司殿しやうじどのとて、無弐の武家方の人をはしまし候ふ。この人を御語らひ候はでは、いくらの大勢おほぜいにてもその前をば御通りさふらひぬと不思候。恐れあるまうし事にて候へども、先づ人を一二人御使ひに被遣候ひて、かの人の所存をも被聞召候へかし」とぞ申しける。宮つくづくと聞こし召して、「『芻蕘すうぜうことばまでも不捨」と云ふはこれなり。げにも樵夫きこりが申すところさもと思ゆるぞ」とて、片岡かたをか八郎・矢田彦七二人ににんを、玉置の庄司が許へ被遣て、「この道を御通りあるべし、道の警固に、木戸きどを開き、逆茂木を引き退けさせよ」とぞ被仰ける。玉置の庄司御使ひに出で合つて、事の由を聞いて、無返事ぶへんじにて内へ入りけるが、やがて若党わかたう中間ちゆうげんどもに物の具させ、馬に鞍置き、事のてい騒がしげに見へければ、二人ににんの御使ひ、「いやいやこの事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走りかへつて、この由を申さん」とて、足早に帰れば、玉置が若党ども五六十人、取太刀ばかりにて追つ懸けたり。二人の者立ち留まり、小松の二三本ありける陰よりをどり出で、真つ先に進んだる武者の馬の諸膝もろひざ薙いで刎ね落とさせ、かへす太刀にて首打ち落として、つたる太刀を押しなほしてぞ立つたりける。




その夜は椎柴垣の隙露わなる山賤([山仕事を生業とする身分の低い者])の庵([粗末な家])に、枕を傾けて、明ければ小原(奈良県吉野郡十津川村小原)を目指していると、薪を負った山人とすれ違いました、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)が道を尋ねられると、心ない樵夫までもが、さすがに見知っていたのか、薪を下ろし地にひざまづいて、「これより小原へ行くには、玉木庄司殿と申す、無二の武家方の人の所を通らなくてはなりません。この人を味方に付けなければ、いくら大勢なりともその前を通ることはできません。畏れ多いことですが、まず一二人をお使いに遣らせて、かの人の意を聞かれてみてはどうでしょうか」と言いました。大塔の宮はじっくり聞かれて、「芻蕘([きこり])の言葉を無視できぬ」と宮つくづくと聞こし召して、「『芻蕘にはかる』([草刈りや木こりのような身分の低い者にも、広く意見を聞いて参考にすること])というのはこのこと。たしかに樵夫が申すところ理のあることよ」と申して、片岡八郎・矢田彦七の二人を、玉置庄司の許へ遣わしました、「この道を大塔の宮がお通りになられる。木戸を開き、逆茂木([敵の侵入を防ぐための柵])を退けよ」と申しました。玉置庄司は使いの前に出て、これを聞くと、返事もせずに内に入りましたが、やがて若党([若い侍])・中間([公家・武家・寺院などで召し使われた男])どもに物の具([武具])を着せて、馬に鞍を置き、なにやら物騒に見えたので、二人の使いは、「ここを通さないつもりのようだ。ならば急ぎ走り帰って、これを申し上げなくては」と、足早に帰りましたが、玉置の若党ども五六十人が、太刀を持って追いかけてきました。二人の使いは立ち止まり、小松が二三本ある陰より躍り出て、真っ先に進んだ武者の馬の諸膝([両膝])を薙いで馬から落とし、返す太刀で首を打ち落として、反った太刀を押し直して立ちはだかりました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 22:19 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その13)

しばらくあつて村上彦四郎義光よしてる、遥かの跡に下がり、宮に追つ着きまゐらせんと急ぎけるに、芋瀬いもがせ庄司しやうじ無端道にて行き合ひぬ。芋瀬が下人持たせたる旗を見れば、宮の御旗なり。村上怪しみて事のやうを問ふに、しかじかの由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。かたじけなくも四海のあるじにておはします天子の御子みこの、朝敵てうてき追罰つゐばつの為に、御門おんかど出である路次ろしに参り合うて、なんぢらほどの大凡下だいぼんげの奴ばらが、左様さやうの事可仕様やある」と云つて、すなはち御旗を引き奪うて取り、あまつさへ旗持ちたる芋瀬が下人の大のをとこを掴んで、四五丈ばかりぞ投げたりける。その怪力くわいりよく無比類にや怖ぢたりけん、芋瀬の庄司一言いちごんの返事もせざりければ、村上みづから御旗を肩に懸けて、無程宮に奉追着。義光御前おんまへひざまづていこの様をまうしければ、宮まことに嬉しげに打ち笑はせ給ひて、「則祐そくいうが忠は孟施舎まうししやが義をまぼり、平賀が智は陳丞相ちんしようじやうはかりごとを得、義光が勇は北宮黝ほくきゆういういきほひを凌げり。この三傑を以つて、我盍治天下や」と被仰けるぞ忝き。




しばらくして村上彦四郎義光(村上義光)は、遥かに遅れて、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)に追いつこうと急いでいましたが、芋瀬庄司と端もない道で出会いました。芋瀬が下人に持たせた旗を見れば、大塔の宮の旗でした。村上(義光)は不思議に思ってどうしたのかと訊ねると、しかじかと答えました。村上は、「なんてことをしたのだ。畏れ多くも四海([国内])の主であられる天子(後醍醐天皇)の皇子が、朝敵(鎌倉幕府)追罰のために、出られた道中で、お前らほどの大凡下([身分の低い者])の奴らが、どうしてそんなことをするのだ」」と言って、すぐに旗を奪い取り、その上に旗を持っていた芋瀬の下人である大の男を掴み上げると、四五丈(約12~15m)ほども投げ飛ばしました。その怪力は比べる者もなく恐れ入って、芋瀬庄司は一言も返事しませんでした、村上(義光)は旗を肩にかけると、ほどなく大塔の宮に追いつきました。義光が御前にひざまついて旗を取り返してきたことを申せば、大塔の宮はとてもうれしそうに笑われて、「則祐(赤松則祐)の忠は孟施舎(勇士)のよう、平賀(平賀国綱くにつな)の智は陳丞相(陳平)の計略、義光の勇は北宮黝をしのぐほどぞ。この三傑がいれば、どうして我が天下を治めないことがあろう」と申されましたがかたじけないことでした。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その12)

宮はこの事いづれも難議なりと思し召して、敢へて御返事もなかりけるを、赤松律師則祐そくいう進み出でて申しけるは、「危ふきを見て命を致すは士卒じそつの守るところに候ふ。されば紀信きしんいつはつて敵に降り、魏豹ぎへうは留まつて城を守る。これ皆主の命に代はりて、名を留めし者にて候はずや。とてもかうてもかれが所存解けて、御所を通し可進にてだに候はば、則祐御大事に代はつて罷り出で候はん事は、子細あるまじきにて候ふ」と申せば、平賀の三郎これを聞いて、「末座ばつざの意見卒爾そつじの議にて候へども、この艱苦かんくの中に付き纏ひ奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目ここうじぼくよりも難捨被思召候べし。なかんづく芋瀬いもがせ庄司しやうじまうすところ、げにも難被黙止候へば、その安きに就けて御旗ばかりを被下候はんに、何のわづらひか候ふべき。戦場せんぢやうに馬・物の具を捨て、太刀・刀を落として敵に被取事さまでの恥ならず。ただかれがまうし請くる旨に任せて、御旗を被下候へかし」と申しければ、宮げにもと思し召して、月日を金銀にて打つて付けたる錦の御旗を、芋瀬の庄司にぞ被下ける。かく宮は遥かに行き過ぎさせ給ひぬ。




大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)はこれを決めかねて、返事をしませんでしたが、赤松律師則祐(赤松則祐)が進み出て申すには、「危ういと見て主の命に替わるのは士卒([武士])の義務です。紀信(劉邦に仕えた武将)は偽って敵(項羽)に降り、魏豹(劉邦・項羽に仕えたあげく、最後は反乱を起こす恐れありと殺害されたが)は留まって城を守ったのです。これらは皆主の命に代えて、名を残した者たちではありませんか。なんとしてでも芋瀬庄司の願いを叶えて、ここを通らなくてはなりません、この則祐が今の大事主に代わって降参しましょう、悩むまでもないことでございます」と言うと、平賀三郎(平賀国綱くにつな)はこれを聞いて、「末座の意見卒爾([軽率なこと])ではございますが、この艱苦([つらく苦しいこと])に従い付く人を、ただ一人たりとも上(大塔の宮)のために、股肱耳目([もも・肘・耳・目])より見捨ててはなりません。とりわけ芋瀬庄司の申すところ、放ってはおけません、一番容易い旗ばかりを下されるのに、何の不都合がありましょう。戦場で馬・物の具([武具])を捨て、太刀・刀を落として敵に取られたところで大した恥でもありません。ただ芋瀬庄司が申す通り、旗を下されますよう」と言うと、大塔の宮ももっともだと思われて、月日を金銀で打ち付けた錦の旗を、芋瀬庄司に下されました。こうして大塔の宮は十津川を遥かに行き過ぎました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その11)

結句竹原入道が子どもさへ、父が命を背いて、宮を討ち奉らんとするくはだてありと聞こえしかば、宮密かに十津川とつがはも出でさせ給ひて、高野かうやの方へぞ赴かせ給ひける。その路、小原をばら芋瀬いもがせ中津川なかつがはと云ふ陣の難所なんじよを経通る路なれば、中々敵を打ち頼みて見ばやと被思召、先づ芋瀬の庄司しやうじが許へ入らせ給ひけり。芋瀬、宮をば我がたちへ入れまゐらせずして、そばなる御堂みだうに置き奉り、使者を以つてまうしけるは、「三山の別当定遍ぢやうべん武命を含んで、陰謀与党おんぼうよたうともがらをば、関東くわんとうへ注進仕る事にて候へば、この道より無左右通し参らせん事、後の罪科陳謝ちんじやするに不可有拠候、乍去宮を留め参らせん事はその恐れ候へば、御伴の人々のうち名字みやうじさりぬべからんずる人を一両人賜はつて、武家へ召し渡し候ふか、不然ば御紋の旗を賜はりて、合戦仕つてさふらひつる支証ししようこれにて候ふと、武家へ可申にて候ふ。この二つのあひだ、いづれも叶ふまじきとの御意にて候はば、無力一矢仕らんずるにて候ふ」と、まことにまた余儀もなげにぞまうし入れたりける。




とうとう竹原入道の子どもまでもが、父の命に背いて、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)を討つ企てをしていると聞こえたので、大塔の宮は密かに十津川(現奈良県吉野郡十津川村)に出て、高野山へ赴きました。その路は、小原(現奈良県吉野郡十津川村小原)・芋瀬(現奈良県吉野郡十津川村五百瀬)・奈良県吉野郡野迫川村中津川(現奈良県吉野郡野迫川のせがは村中津川)という陣の難所を通る路でしたので、敵を味方に付けようと思われて、まず芋瀬庄司の許を訪ねました。芋瀬は、大塔の宮を己の館には入れずに、近くの御堂に置いて、使者をもって申すには、「(熊野)三山の別当定遍は武命により、陰謀の与党の者たちを、関東(鎌倉幕府)に注進([事件を書き記して上申すること])することになっております、この道を難なく通せば、後の罪科を陳謝できるものではありません。とはいえ大塔の宮を留めては恐れあることですれば、伴の人々の中で名のある者を一人下されて、武家へ渡すか、しからずば紋の付いた旗を賜って、合戦をした支証([裏づけとなる証拠])だと、武家に申すことにしましょう。この二つ、いずれも叶えられなければ、仕方なく一矢射るほかありません」と、ほかに手はないと申しました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その10)

さるほどに熊野の別当定遍ぢやうべんこの事を聞いて、十津川とつがはへ寄せんずる事は、たとひ十万騎じふまんぎの勢ありとも不可叶。ただその辺の郷民がうみんどもの欲心を勧めて、宮を他所へおびき出だし奉らんと相計あひはかつて、道路だうろの辻に札を書いて立てけるは、「大塔おほたふの宮を奉討たらん者には、非職凡下ひしよくぼんげを不云、伊勢の車間くるましやうを恩賞に可被充行由を、関東くわんとう御教書みげうしよ有之。その上に定遍先づ三日が内に六万貫ろくまんぐわんを可与。御内伺候みうちしこうの人・御手の人を討ちたらん者には五百貫、降人かうにんに出でたらんともがらには三百貫、いづれもその日の内に必ず沙汰し与ふべし」と定めて、奥に起請文きしやうもんことばを載せて、厳密の法をぞ出だしける。それ移木いぼくの信は為堅約、献芹けんきんまひなひは為奪志なれば、欲心強盛よくしんがうじやう八庄司しやうじどもこの札を見てければ、いつしか心変じ色替はつて、怪しき振る舞ひにぞ聞こへける。宮「かくてはこの所の御住居すまゐ、始終悪しかりなん。吉野の方へも御出であらばや」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候ふべき」と強ひて留めまうしければ、かれが心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼きようくうちに月日を送らせ給ひける。




やがて熊野別当定遍はこれを聞いて、十津川へ寄せては、たとえ十万騎の勢でも敵わない、ただその辺の郷民どもの欲心を勧めて、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)を他所へおびき出そうと考えて、道路の辻に札を書いて立てました、「大塔の宮を討った者には、非職凡下([官職をもたない者・身分の低い者])に関わりなく、伊勢の車間庄を恩賞に与えると、関東(鎌倉幕府)の御教書([三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書])にある。その上に定遍まず三日の内に六万貫を与える。御内伺候の人・手の人を討ち取った者には五百貫、降人に出てきた輩には三百貫、いずれもその日の内に必ず沙汰し与える」と書いて、奥に起請文([神仏への誓いを記した文書])の詞を載せて、厳密の法であることを示しました。移木の信([約束をきちんと守ること])に心引かれ、献芹([君主に忠義を尽くすこと])の賂に心を変えて、欲心強盛の八庄司([熊野八庄司]=[紀伊熊野の八つの庄の庄司])どもはこの札を見て、いつしか心変わり色を替えて、怪しい振る舞いをするようになりました。大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)は「こうなってはここにいては、よろしくなかろう。吉野の方へ移ろう」と申されました、竹原入道が、「何も心配ございません」と強く留め申したので、竹原入道の心にたがえるのも、さすがにできずに、恐懼([おそれかしこまること])の中で月日を送られました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その9)

その時宮、木寺こでらの相模にきと御目くはせありければ、相模この兵衛がそば居寄ゐよりて、「今は何をか隠し可申、あの先達せんだち御房ごばうこそ、大塔おほたふの宮にて御坐あれ」と云ひければ、この兵衛なほも不審気ふしんげにて、かれこれの顔をつくづくとまぼりけるに、片岡八郎・矢田やだ彦七、「あらあつや」とて、頭巾ときんを脱いで側に差し置く。まことの山伏ならねば、月代さかやきの跡隠れなし。兵衛これを見て、「げにも山伏にてはおはせざりけり。賢くぞこの事まうし出でたりける。あな浅まし、このほどの振る舞ひさこそ尾籠びろうに思し召しさふらひ/rt>ひつらん」ともつてのほかに驚いて、かうべを地に着け手をつかね、畳より下に蹲踞そんこせり。にはかに黒木くろぎの御所を造りて宮を守護し奉り、四方しはうの山々に関を据ゑ、路を切り塞いで、用心厳しくぞ見へたりける。これもなほ大儀の計略難叶とて、叔父をぢ竹原八郎入道にこの由を語りければ、入道やがて戸野とのが語らひに随つて、我が館へ宮を入れまゐらせ、無二の気色に見へければ、御心安く思し召して、ここに半年はんねんばかり御座ありけるほどに、人に被見知じと被思し召しける御支度に、御還俗げんぞくていに成らせ給ひければ、竹原八郎入道が息女そくぢよを、夜の大殿をとどへ被召て御覚え異他なり。さてこそ家主いへあるじの入道もいよいよ心ざし傾け、近辺の家主郷民がうみんどもも次第に帰伏まうしたる由にて、かへつて武家をばさみしけり。




その時大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)は、木寺相模にきっと御目くばせしたので、木寺相模は戸野兵衛の側に近寄って、「今は何を隠し申すべき、あの先達([山伏や一般の信者が 修行のために山に入る際の指導者])の御房こそ、大塔の宮でございます」と言えば、戸野兵衛なをも半信半疑で、かれこれの顔をつくづくと見守っていました、片岡八郎・矢田彦七が、「熱いのう」と言って、頭巾([修験道の山伏がかぶる小さな布製のずきん])を脱いでそばに置きました。本当の山伏ではありませんでしたので、月代([男子が冠や烏帽子をかぶったとき、髪の生え際が見えないように額ぎわを半月形にそり上げたもの])の跡がくっきりとありました。戸野兵衛はこれを見て、「確かに山伏ではあられぬ。よくぞ本当のことを申してくださった。情けないことよ。このほどの振る舞い尾籠([愚かなさま])にもまったく思いもしませんでした」と驚いて、首を地に着け手を合わせて、畳の下に蹲踞([貴人が通行するとき、両ひざを折ってうずくまり、頭を垂れて行う礼])しました。急ぎ黒木([皮のついたままの丸太])の御所を造って大塔の宮を守護し、四方の山々に関を据え、路を切り塞いで、用心を厳しくしました。これもなお大儀の計略には不足だと、叔父の竹原八郎入道にこれを話すと、入道はすぐに戸野に従って、己の館に大塔の宮を入れて、二心ないように見えたので、大塔の宮も心安く思われて、ここに半年ばかりおられましたが、人に見知られないようにと、還俗したように装われて、竹原八郎入道の息女([娘])を、夜の大殿に召して寵愛されました。こうして家主の入道もますます心を寄せ、近辺の家主郷民も次第に帰伏([従い付くこと])するようになって、武士を軽んじるようになりました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:35 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その8)

かくて十余日を過ごさせ給ひけるに、ある夜家主いへあるじ兵衛ひやうゑじよう、客殿に出でてたきびなどせさせ、四方山よもやまの物語どもしけるついでにまうしけるは、「方々は定めて聞き及ばせ給ひたる事も候ふらん。まことやらん、大塔おほたふの宮、京都を落ちさせ給ひて、熊野の方へ赴かせ給ひさふらひけんなる。三山の別当定遍僧都ぢやうべんそうづは無二の武家方にて候へば、熊野辺に御忍びあらん事は難成思え候ふ。あはれこの里へ御入り候へかし。所こそ分内ぶんないせばく候へども、四方しはう嶮岨けんそにて十里じふり二十里が内へは鳥も翔けり難き所にて候ふ。そのうへ人の心不偽、弓矢を取る事世に超えたり。されば平家の嫡孫惟盛これもりまうしける人も、我らが先祖を頼みてこの所に隠れ、遂に源氏の世に無恙さふらひけるとこそうけたまはり候へ」と語りければ、宮まことに嬉しげに思し召したる御気色きしよく顕はれて、「もし大塔の宮なんどの、この所へ御頼みあつて入らせ給ひたらば、被憑させ給はんずるか」と問はせ給へば、戸野とのの兵衛、「まうすにや及び候ふ。身不肖ふせうに候へども、それがし一人だに斯かる事ぞと申さば、鹿瀬ししがせ蕪坂かぶらさか・湯浅・阿瀬川あぜがは小原をばら芋瀬いもせ中津川なかつがは・吉野十八郷じふはちがうの者までも、手刺す者候ふまじきにて候ふ」とぞ申しける。




こうして十日余りを過ごされて、ある夜家主の(戸野)兵衛尉が、客殿に出て薪など焚きながら、四方山話などをするついでに申すには、「方々はきっと知っておられることでしょう。本当でしょうか、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)が、京都を落ちられて、熊野の方へ赴いたそうです。。三山の別当定遍僧都は無二の武家方ですれば、熊野辺にお忍びになられるのはむつかしいでしょう。ああこの里に入られたら。分内([領地])は狭いですが、四方は皆嶮岨([地勢のけわしいさま])にして十里二十里の内へは鳥も翔けないような所でございます。その上人の心に偽りなく、弓矢を取っては世に勝れています。平家の嫡孫惟盛(平惟盛。清盛の嫡孫)と申された人も、我らの先祖を頼ってこの場所に隠れ、遂に源氏の世になっても何事なく過ごしたと聞いております」と話したので、大塔の宮はとてもうれしそうな表情で、「もし大塔の宮と申す者が、ここを頼って入れば、頼まれるつもりか」と訊ねると、戸野兵衛は、「申すまでもございません。身は不肖ですが、わたし一人がそうすると申せば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬(五百瀬)・中津川・吉野十八郷の者までも、反対する者はおりません」と申しました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その7)

玄尊走りかへつこの由をまうしければ、宮を始め奉りて、御供の人皆かれがたちへ入らせ給ふ。宮病者の伏したる許へ御入りあつて御加持かぢあり。千手陀羅尼せんじゆだらにを二三反高らかに被遊て、御念珠んねんじゆを押し揉ませ給ひければ、病者みづから口走つて、様々の事を云ひける、まことに明王みやうわうばくに被掛たるていにて、足手をしじめてわななき、五体に汗を流して、物の怪すなはち立ち去りぬれば、病者たちまちに平瘉へいゆうす。あるじをつと不斜喜うで、「我たくはへたる物候はねば、べちの御引出物まではかなひ候ふまじ。曲げてじふ余日これに御逗留とうりうさふらひて、御足みあしを休めさせ給へ。例の山伏粗忽そこつに忍びで御逃げ候ひぬと存じ候へば、恐れながらこれを御質ごしちに給はらん」とて、面々のおひどもを取り合はせて皆内にぞ置きたりける。御供の人々、うへにはその気色きしよくを不顕といへども、下には皆悦び思へる事無限。




玄尊は走り帰ってこのことを申し上げると、大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)をはじめ、供の者たちは戸野兵衛の館に赴きました。大塔の宮は病者が伏した部屋へ入られて加持を行いました。千手陀羅尼([千手観音の徳について説いた梵語の呪文])を二三反高らかに唱えて、念珠を押し揉むと、病者は自然と口走り、様々なことを言いました、まるで明王の縛にかかったように、手足を縮めて震わせ、五体に汗を流して、物の怪はすぐに退散し、病者はたちまち平瘉しました。主の夫はたいそうよろこんで、「わしには蓄えた物もなく、格別の引き出物は用意できない。どうか十日ほどここに逗留されて、足を休めてくだされ。目を離したすきに山伏に逃げられたとあっては恥となります、恐れながらこれは預かっておきます」と言って、各々の笈を受け取って館の中に置きました。供の人々は、面には表わしませんでしたが、心の内ではとてもよろこびました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その6)

宮をばとある辻堂つじだうの内に奉置て、御供の人々は在家に行いて、熊野参詣の山伏ども道に迷うて来たれる由を云ひければ、在家の者どもあはれみを垂れて、あはいひとちかゆなど取り出だしてその飢ゑを相助あひたすく。宮にもこれらをまゐらせて二三日は過ぎけり。かくては始終いかが可在とも思へざりければ、光林房玄尊げんそん、とある在家のこれぞさもある人の家なるらんと思しき所に行いて、童部わらんべの出でたるに家主いへあるじの名を問へば、「これは竹原八郎入道殿にふだうどのの甥に、戸野との兵衛殿ひやうゑどのまうす人の許にて候ふ」と云ひければ、さてはこれこそ、弓矢取つてさる者と聞き及ぶ者なれ、如何にもしてこれを頼まばやと思ひければ、門の内へ入つて事のやうを見聞くところに、内に病者びやうしやありと思えて、「あはたつとからん山伏の出で来たれかし、祈らせ参らせん」と云ふ声しけり。玄尊すはや究竟くきやうの事こそあれと思ひければ、声を高らかに上げて、「これは三重さんぢゆうの滝に七日打たれ、那智なちに千日籠もつて三十三所さんじふさんしよの巡礼の為に、罷り出でたる山伏ども、路に踏み迷うてこの里に出でて候ふ。一夜の宿を借し一日の飢ゑをも休め給へ」と云ひたりければ、内より怪しげなる下女けぢよ一人出で合ひ、「これこそ可然仏神ぶつじんの御計らひと思えて候へ。これのあるじの女房物の怪を病せ給ひ候ふ。祈りてたばせ給ひてんや」と申せば、玄尊、「我らは夫山伏ぶやまぶしにて候ふ間叶ひ候ふまじ。あれに見へ候ふ辻堂つじだうに、足を休めて被居て候ふ先達せんだちこそ、効験かうげん第一の人にて候へ。このやうを申さんに子細候はじ」と云ひければ、女おほきに悦うで、「さらばその先達の御房ごばう、これへ入れ参進らせさせ給へ」と云ひて、喜び合へる事無限。




大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)をとある辻堂([道ばたに建っている仏堂])に残して、供の人々は在家に行って、熊野参詣の山伏が道に迷って来たことを言うと、在家の者たちはかわいそうに思って、粟の飯橡の粥などを出しました。大塔の宮にもこれらを参らせて二三日過ぎました。いつまでもこうしてはいられないと思い、光林房玄尊は、とある在家のそれなりの人の家であろうと思われる所に行って、童部が出てきたところに家主の名を訊ねると、「ここは竹原八郎入道殿の甥で、戸野兵衛殿(戸野良忠よしただ?)と申す人でございます」と言ったので、これこそ、弓矢取りと名に聞く者だ、なんとかして味方にしようと思って、門の内に入って様子を窺うと、内に病者がいるようで、「ああ尊い山伏はいないか、祈ってもらうのだ」と言う声がしました。玄尊は早くも究竟([極めて都合がよいこと])のことが出て来たと思い、声を高く上げて、「わしらは三重の滝(現和歌山県伊都郡かつらぎ町にある滝)に七日打たれ、那智(現和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野那智大社)に千日籠もって三十三所巡礼(西国三十三所?一番札所は那智山青岸渡寺)のために罷り出た山伏だが、道に迷いこの里に来た者だ。一夜の宿を借し一日の飢えを休めてほしい」と言うと、内より身分の低い下女が一人出て来て、「これこそ仏神のお計らいでございましょう。ここの主の女房が物の怪に憑かれましてございます。どうか祈ってくださいませ」と申せば、玄尊は、「我らは夫山伏([笈などの荷を背負って先逹に従う山伏])だから加持はできぬ。あそこに見える辻堂に、足を休めておる先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])こそ、効験第一の人ぞ。すぐにこれを申してみよう」と言うと、女はたいそうよろこんで、「ならばその先達の御房を、ここへ連れて来てください」と言って、よろこび合いました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:10 | 太平記 | Comments(0)

    

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