Santa Lab's Blog


2014年 06月 16日 ( 10 )



明日に向かって走れ(記憶)

いつだっけ「暑い夏」でした。「のぶくん」連れて「夏休み」。「ペット可」のその部屋は「値段」はより高く、そのなりは決して「褒められた」ものじゃなかったけど、さすがに「カーゴ」に閉じ込めているわけにもいかず。「家族」ですから。


「あんまり暑くて」、川辺で遊んだんですけど、「水嫌い」の「のぶくん」もさすがに川に浸かって腹ばいになって「ハアハア」してましたっけ。幼い我が子より目が離せませんでしたかね(同じ兄弟と思ってましたし)。けど昼時になって、ちと目を離した隙に「あらら、いない」。


川はずっと見てたから、流されてはいないけど。ならば、周りの「バーベキュー」の匂いに釣られて。いやいやお腹の弱い「のぶくん」だから「トイレ」か、そんな余裕もなく、あちらこちらと捜し歩くのでした。


でも中々見つかりません。半ば「半泣き」になって、あちらこちらと「テント」の中まで、お楽しみのところをお邪魔して、いくつめでしたか「涼しい日陰テント」の中で寝そべっている「のぶくん」を見つけたのは。「泣きそうでしたよ」。いい人たちで、一番「いい場所」を占領しても、何も言わない人たちの輪(?)の中で昼寝をしている「のぶくん」は幸せそうでした。できればそのまま寝かせてあげたかったけど。


果たして「幸せ」だったのかしらん。出来る限りはしてあげたつもりだけど。


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by santalab | 2014-06-16 21:51 | 独り言 | Comments(0)


明日に向かって走れ(奇跡?)

まるで「風呂場」か「室内動物園」。意味のない「セリフ」(本当は吠えるとでも言いたいんですけど)が頭に「ガンガン」響きます。何も顔しかめて「難しい話」を静かにしろと言うつもりはありませんけど、「頭が痒い」からと言ってもがくのなら、「風呂屋」にでも「病院」にでもすみやかにと思うのです。まさか「頭の中」に何か飼ってるわけでもないでしょ?


「賢く」生きるなんてもうとっくに諦めました。「嘘」付いても「普通」に生きていたいと思っていたけれどもそれももう止めました。残るところは「不具者」の類かも知れません。けど「動物」とも思いません。ならば「何」って聞かれると困るんですけど。


「理想」を理想と思えず、ただ「もしかして」なんて何十年も願い続ける「おかしな人」そんなのかな。でも思うんですよ、「そんな日がきっと来るって」。その時に「理想」はきっとあたいの近くにはないのでしょうが、せめてあたいの「記憶の中」に。


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by santalab | 2014-06-16 20:34 | 独り言 | Comments(0)


「曽我物語」九月名月に出でて、一萬・筥王、父の事歎く事(その3)

兄聞きて、「さにはあらず。いづれも同じ鳥ならば、かもをもさぎをも連れよかし。空飛べども、己が友ばかりなる事ぞとよ。五つあるは、一つは父、一つは母、三つは子どもにてぞあるらん。和殿はおとと、我は兄、母はまことの母なれども、曽我殿、まことの父ならで、こひしと思ふその人の、行方ゆくへも仇の業ぞかし。あはれや」「親の仇とやらんが首の骨は、石よりも硬き物かや」と問へば、兄が聞きて、袖にて弟が口を抑へ、「かしかまし、人や聞くらん、こゑ高し、隠す事ぞ」と言へば、筥王はこわう聞きて、「射殺すとも、首を斬るとも、かくして叶ふべきか」「さはなきぞとよ、それまでも忍ぶ習ひ、心にのみ思ひて、うへは物を習へとよ。のうは稽古によるなるぞ。我らが父は、弓の上手じやうずにて、鹿ししをも鳥をも射給ひけるなるぞ。あはれ、父だにましまさば、むまをも鞍をも用意してびなまし。さあらば、追犬をいぬ笠懸かさかけをも射習ひなん。我らよりをさなき者も、世にあれば、馬に乗り、物射る、見るも羨まし」とくどきければ、




兄(一萬)はこれを聞いて、「そういうことを申したのではない。鳥を連れて行くというのなら、鴨でも鷺でも連れて行けばよい。空を飛ぶ鳥といえど、己の友を連れて行くのだ。五ついるのは、一つは父、一つは母、三つは子どもかもしれん。お前は弟、我は兄、母は本当の母だが、曽我殿(曽我祐信すけのぶ)は、実の父ではなく、恋しく思うその人(河津祐泰すけやす)が、いないのは仇のせいなのだ。なんと悲しいことか」「親の仇という者の首の骨は、石よりも硬いのですか」と訊ねると、兄が聞いて、袖で弟(筥王)の口を抑え、「静かにしろ、人に聞こえるぞ、声が大きい、これは隠し事ぞ」と言うと、筥王はこれを聞いて、「射殺すにしろ、首を斬るにしろ、このままでは叶えることなどできません」「そうではない、その時まで誰にも言うでない、心にのみ思え、継父(曽我祐信すけのぶ)は勉強せよと言っておられる。能力は稽古によるものぞ。我らの父は、弓の上手で、鹿も鳥も射たという。ああ、父さえおられたら、馬でも鞍でも用意してくれたのに。そうすれば、追犬([犬追物いぬおふもの]=[円形の馬場の中に放した犬を追いながら、馬上から蟇目ひきめの矢=鏑矢。で射る競技])・笠懸([馬に乗って走りながら弓を射る競技])も習うことができたのに。我らより幼い者でも、世にある者ならば、馬に乗って、弓を射ることができるのだ、見るのさえうらやましい」と愚痴をこぼしました、


続く
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by santalab | 2014-06-16 19:21 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」九月名月に出でて、一萬・筥王、父の事歎く事(その2)

数ならぬ身にも、日数ひかずの積もれば、早や憂き事どもに永らへて、九つ・七つにぞなりにける。折節をりふし、九月十三夜の、まことに名ある月ながら、隈なき影に、兄弟きやうだいにはに出でて遊びけるが、五つ連れたる雁が音の、西に飛びけるを、一萬が見て、「あれ御覧ぜよ、筥王はこわう殿。雲居くもゐの雁の、いづくを指してか飛び行くらん。一つらも離れぬ仲の羨ましさよ」。おとと聞きて、「何かはさほど羨むべき。我らが伴ふ者どもも、遊べば、ともに打ち連れ、かへれば、連れて帰るなり」。




数にも入らない身でしたが、日数が積もれば、早くも悲しみの中に永らえて、九つ(一萬)・七つ(筥王)になりました。ちょうど、九月十三夜の、名月の夜、曇りない月影に、兄弟は、庭に出て遊んでいましたが、五つ連れた雁が、西に飛んで行くのを、一萬が見て、「あれを見よ、筥王殿。雲居の雁が、いったいどこに飛んで行くのだろう。一つとして離れぬ仲がうらやましいなぁ」と言いました。弟(筥王)はこれを聞いて、「何をそれほどうらやましく思うのです。我らが連れる者たちも、遊べば、一緒に連れて行くし、帰る時も、一緒です」と答えました。


続く
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by santalab | 2014-06-16 19:10 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」九月名月に出でて、一萬・筥王、父の事歎く事(その1)

そもそも、伊豆いづの国赤沢山あかざはやまの麓にて、工藤左衛門さゑもんじよう祐経すけつねに討たれし、河津かはづ三郎さぶらうが子二人あり。兄をば、一萬と言ひて、五つに成り、おととは、筥王はこわうと言ひて、三つにぞ成りにける。父に後れて後、いづれも母に付き、継父ままちち曽我の太郎が許に育ちける。やうやう成人するほどに、父が事を忘れずして、歎きけるこそ、無慙なれ。人の語れば、兄も知り、弟も知り、こひしさのみに明け暮れて、積もるは涙計りなり。心の付くに従ひて、いよいよ忘るるひまもなし。我ら二十に成り、父を討ちけん左衛門さゑもんじようとやらんを討ち捕りて、母の御心をも慰め、父の孝養けうやうにも報ぜんと、忙はしきは月日なり。




そもそも、伊豆国赤沢山(現静岡県伊東市南部の山)の麓で、工藤左衛門尉祐経(工藤祐経)に討たれた、河津三郎(河津祐泰すけやす)には子が二人ありました。兄は、一萬と呼ばれて、五つになり、弟は、筥王と呼ばれて、三つになっていました。父(祐泰)に先立たれて、二人とも母に付いて、継父である曽我太郎(曽我祐信すけのぶ)の許で育ちました。成長するにつれ、父のことを忘れず、悲しみは、募りました。人が父(河津祐泰)の話をするので、兄(一萬)も知り、弟(筥王)も知り、恋しさばかりに明け暮れて、積もるのは涙ばかりでした。心が付くに従って、ますます忘れることはありませんでした。我らが二十になったら、父を討った左衛門尉(工藤祐経)という者を討ち捕って、母の心も慰め、父の孝養に報いようと、早く月日が過ぎないものかと毎日思うのでした。


続く
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by santalab | 2014-06-16 19:03 | 曽我物語 | Comments(0)


「承久記」中の院阿波の国へ移り給ふ事(その1)

うるふ十月十日、土御門の中の院、土佐の国へ移されさせ給ふ。この院は今度御みなし。その上賢王にて渡らせ給ひければ、鎌倉よりもなだめ奉りけるを、「我ことごとくも法皇を配所へ遣り奉りて、その子として華洛からくにあらん事、冥の照覧憚りあり。また何の益かあらんや。承元しようげん四年の恨みは深しといへども、人界に生を受くる事は、父母ぶもの恩報じても報じ難し。一旦の恨みに依つて、永く不孝の身とならんこと罪深し。されば同じき遠島へ流れん」と、度々関東へ申させ給ひければ、惜しみ奉りながら、力なく流し奉りけり。




閏十月十日に、土御門中院(第八十三代天皇)が、土佐国に配流になりました。
土御門院は今度の謀反に関与していませんでした。その上賢王でしたので、鎌倉より減刑されていましたが、「わたし以外に法皇(後鳥羽院)までもが配所へ流され、その子でありながら華洛([京])に留まることは、冥土の照覧([神仏が御覧になること])にも差し障りがあろう。また都に留まったところで何かよいことがあるものでもなし。承元四年(1210)の恨み(土御門院が帝位を下された年)は深いが、人界に生を受けたことは、父母の恩に報いようとも報いきれないものだ。一旦([一時])の恨みによって、永く不孝の身になることは罪深いことである。ならば同じように遠島に流されよう」と、何度も関東(鎌倉幕府)に申されたので、惜しみながらも、仕方なく配流したのでした。


続く
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by santalab | 2014-06-16 08:24 | 承久記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その19)

宮この事を御思案あるに、直事ただことにあらずと思し召し合はせて、年来御身を放されざりしはだの御まぼりを御覧ずるに、その口少し開きたりける間、いよいよ怪しく思し召して、すなはち開き被御覧ければ、北野の天神の御神体を金銅こんどうにて被鋳進たるそ御眷属けんぞく老松おいまつ明神みやうじんの御神体、遍身へんしんより汗かいて、御足に土の付きたるぞ不思議なる。「さては佳運かうん神慮に叶へり、逆徒げきと退治たいぢ何の疑ひか可有」とて、それより宮は、槙野まきのの上野房かうづけばう聖賢しやうげんこしらへたる、槙野の城へ御入りありけるが、これもなほ分内ぶんないせばくて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆だいしゆを語らはせ給ひて、安善宝塔あいぜんはうだふ城郭じやうくわくに構へ、岩切通きりとほす吉野川を前に当てて、三千余騎を随へて立て籠もらせ給ひけるとぞ聞こへし。




大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)はこの事を思うに、ただ事ではないと思われて、年来身から離さなかった肌のお守りを見れば、お守りの口が少し開いていたので、ますます不思議に思われて、すぐにお守りを開けて見ると、北野天神のご神体を金銅で鋳た眷属([神の使者])である、老松明神のご神体が、遍身([全身])より汗をかいて、足には土がついていましたが不思議なことでした。「さては佳運([幸運])なことに神慮([神のおぼしめし])により、逆徒を退治することができたに違いない」と思って、その後大塔の宮は、槙野上野房聖賢が造った、槙野城に入りましたが、ここもなお手狭でよくないと思われて、吉野の大衆([僧])を味方に付けて、安善宝塔(高野山にあった安禅寺蔵王堂)を城郭として、岩切通す吉野川を前にして、三千余騎を従えて立て籠もられたということです。


続く


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by santalab | 2014-06-16 08:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その18)

その後野長瀬のながせ兄弟、兜を脱ぎ弓を脇に差し挟みて遥かにかしこまる。宮の御前おんまへ近く被召て、「山中の為体ていたらく、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内かはちの方へ打ち出でて勢を付けん為に、令進発之処に、玉置庄司しやうじただ今の振る舞ひ、当手たうての兵万死の内に一生いつしやうをも得難しと思えつるに、不慮の助けに逢ふ事天運なほ頼みあるに似たり。そもそもこの事何として存知ぞんぢたりければ、この戦場に馳せ合つて、逆徒げきとの大軍をばなびかしぬるぞ」と御たづねありければ、野長瀬畏つてまうしけるは、「昨日さくじつの昼ほどに、年十四五ばかりにさふらひしわらはの、名をば老松おいまつといへりと名乗りて、『大塔おほたふの宮明日みやうじつ十津川とつがはを御出であつて、小原をばらへ御とほりあらんずるが、一定いちぢやう道にて難に逢はせ給ひぬと思ゆるぞ、心ざしをそんぜん人は急ぎ御迎ひに参れ』と触れまはさふらひつる間、御使ひぞと心得てまゐつて候ふ」とぞまうしける。




その後野長瀬兄弟は、兜を脱ぎ弓を脇に差し挟み遥かに畏りました。大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)は御前近くに呼んで、「山中のこの有様では、大儀の計略も計り難く、大和・河内の方へ出て勢を付けようと思うて、向かうところに、玉置庄司([鎌倉時代中期ころから台頭した紀伊国の武士団で十津川郷士])のただ今の振る舞い、当手の兵は万死して一生も得難く思えたが、思いのほかの助け天運なおも頼みあるように思える。そもそも我らがここにいることをどのように知り、この戦場に急ぎ来て、逆徒の大軍を追い払うことができたのじゃ」と訊ねると、野長瀬が畏まり申すには、「昨日の昼ごろに、年十四五ばかりの童が、名を老松と名乗って、『大塔の宮が明日十津川に向かわれて、小原(現奈良県吉野郡十津川村小原)を通られるが、必ずや道中で災難に遭われることでしょう、心を寄せる人は急ぎお迎えに参りなさい』と触れ回ったので、宮のお使いと思って参ったのでございます」と申しました。


続く
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by santalab | 2014-06-16 07:50 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その17)

寄せ手は楯を雌鳥羽めんどりばに突きしとうてかづあがり、防ぐつはものは打ち物のさやはづして相懸あひかかりに近付くところに、北の峯より赤旗三流れ、松の嵐にひるがへして、その勢六七百騎がほど懸け出でたり。その勢次第に近付くままに、三手に分かつて鬨の声を上げて、玉置たまぎ庄司しやうじに相向かふ。真つ先に進んだる武者大音声だいおんじやうを上げて、「紀伊の国の住人ぢゆうにん野長瀬のながせの六郎・同じき七郎、その勢三千余騎にて大塔おほたふの宮の御迎ひに参るところに、かたじけなくもこの君に向かひ参らせて、弓を引き楯をつらぬる人はたれぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、ただ今可滅武家の逆命に随つて、即時に運を開かせ可給親王しんわうに敵対まうしては、一天下いちてんがあひだいづれの処にか身を置かんと思ふ。天罰不遠から、これをしづめん事我らが一戦の内にあり。余すな漏らすな」と、をめき叫んでぞ懸かりける。これを見て玉置が勢五百余騎、敵はじとや思ひけん、楯を捨て旗を巻いて、たちまちに四角八方へ逃げ散ず。




寄せ手(玉置庄司)は楯を雌鳥羽([左を上に右を下にすること])に並べて突き出し、防ぐ兵(大塔の宮方)は打ち物([太刀])の鞘を外して、次第に近付くところに、北の峯より赤旗三本、松の嵐にはためいて、その勢六七百騎ばかりが駆けて来ました。その勢が次第に近付くと、三手に分かれて鬨の声を上げて、玉置庄司([鎌倉時代中期ころから台頭した紀伊国の武士団で十津川郷士])の前に立ちました。真っ先に進んだ武者が大声を上げて、「紀伊国の住人野長瀬の六郎(野長瀬盛忠もりただ)・同じく七郎(野長瀬盛衡もりひら)、その勢三千余騎で大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)のお迎えに参ったところ、畏れ多くもこの君に向かい、弓を引き楯を並べる者は誰ぞ。玉置庄司殿と見るが間違うておるや、ただ今にも滅びる武家に逆命([命令に逆らうこと])し、即時に運を開かせるであろう親王に敵対申しては、一天下いずれの所に身を置くべき。天罰はたちまちぞ、これを鎮めるためのこの一戦、余すな漏らすな」と、喚き叫んで懸かりました。これを見て玉置の勢五百余騎は、敵わないと思ったのか、楯を捨て旗を巻いて、たちまちに四方八方へ逃げてしまいました。


続く
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by santalab | 2014-06-16 07:46 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大塔宮熊野落の事(その16)

宮これを御覧じて、玉顔ぎよくがん殊におごそかに打ち笑ませ給ひて、御手の者どもに向かつて、「矢種のあらんずるほどは防ぎ矢を射よ、心しづかに自害して名を万代に可貽。ただし各々相構あひかまへて、我より先に腹切る事不可有。我すでに自害せば、おもての皮を剥ぎ耳鼻を切つて、たれが首とも見へぬやうにし成して捨つべし。その故は我が首をもし獄門に懸けて被曝なば、天下に御方の心ざしをそんぜん者は力を失ひ、武家はいよいよ所恐なかるべし。『死せる孔明生ける仲達ちゆうたつを走らしむ』と云ふ事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以つて良将りやうしやうとせり。今はとても遁れぬところぞ、相構へて人々きたなびれて、敵に笑はるな」と被仰ければ、御供のつはものども、「何故なにゆゑか、きたなびれ候ふべき」とまうして、御前おんまへに立つて、敵の大勢にて攻め上りける坂中の辺まで下り向かふ。その勢わづか三十二人さんじふににん、これ皆一騎当千いつきたうせんの兵とはいへども、敵五百余騎に打ち合うて、可戦やうはなかりけり。




大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)はこれを見て、玉顔([玉のように美しい顔])をとりわけ厳しく微笑んで、手の者どもに向かって、「矢種のある限り防ぎ矢を射よ、心静かに自害して名を万代に残そうと思う。ただし各々決して、我より先に腹を切ってはならぬ。我が自害したら、顔の皮を剥ぎ耳鼻を切って、誰の首とも分からぬようにして捨てよ。その訳は我が首がもし獄門に懸けられて晒されば、天下に味方しようと思っている者は力を失い、武家はますます恐れをなさぬであろう。『死せる孔明生ける仲達を走らしむ』というではないか。ならば死んだ後までも、威を天下に残すのが良将というものぞ。今はとても遁れられぬ、者どもよ無様な死に様をして、敵に笑われるな」と申されたので、供の兵どもは、「どうして、無様な姿を見せましょうぞ」と言って、前に立って、敵が大勢で攻め上って来る坂の途中まで下り向かいました。その勢わずか三十二人でした、この者たちは皆一騎当千の兵でしたが、敵五百余騎に打ち合って、敵うはずもありませんでした。


続く
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by santalab | 2014-06-16 07:40 | 太平記 | Comments(0)

    

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