Santa Lab's Blog


2017年 03月 01日 ( 4 )



「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その24)

ひんの地の人民、『懸かる難有賢人を失ひて、あに礼義をも不知仁義もなき戎に随ふべしや』とて、子弟老じやく引き連れて、同じく岐山きさんの麓に来たつて大王に付き順ひしかば、戎は己と皆亡び果てて、大王の子孫つひに天下の主と成り給ふ。しうの文王・武王これなり。また忠臣の君を諌め、世をたすけんとする振る舞ひを聞くに、皆今の朝廷てうていの臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人ににんおはしけり。兄の宮をば寧王ねいわうと申し、御弟をば玄宗とぞ申しける。玄宗位に即かせ給ひて、好色かうしよくの御心深かりければ、天下に勅を下して容色ようしよく如華なる美人を求め給ひしに、後宮三千人の顔色我も我もと金翠きんすゐかざりしかども、天子再びと御まなじりを不被廻。




豳の地の人民は、『これほどありがたい賢人を失って、どうして礼義も知らず仁義もない戎に従わなくてはならぬのか』と、子弟老弱を引き連れて、同じく岐山(現陝西省宝鶏市)の麓に来て太王(古公亶父ここうたんぽ。周初代武王の曾祖父)に付き従ったので、戎は自ずと皆亡び果てて、太王の子孫は遂に天下の主となったのだ。周の文王(周の始祖)・武王(周の創始者。文王の次子)である。また忠臣が君を諌め、世を助けようとする振る舞いを聞くに、皆今の朝廷の臣とはまったく違っておった。唐の玄宗(唐の第九代皇帝)は二人兄弟であった。兄宮を寧王と申し、弟を玄宗と申した。玄宗が位に即くと、好色の心深くして、天下に勅を下して容色(顔立ち)華のような美人を求めたので、後宮三千人が我も我もと金翠を飾ったが、天子が再び目を向けることはなかった。


続く


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by santalab | 2017-03-01 08:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その23)

先づ以古思ひ候ふに昔しうの大王とまうしける人、ひんと云ふ所におはしけるを、隣国の戎ども起こつて討たんとしける間、大王牛馬珠玉とうの宝を送つて、礼を成しけれどもなほ不止。早く国を去つて不出、以大勢可責由をぞ申しける。万民百姓これを忿いかりて、『その儀ならば、よしや我ら身命を捨てて防ぎ戦はんずる上は、大王戎に向かつて和をふ事おはすべからず』と申しけるを、大王、『いやいや我国をしく思ふは、人民を養はんが為許りなり。我もしかれと戦はば、若干そくばくの人民を殺すべし。それを為養地を惜しみて、可養民を失はん事何のえきかあるべき。また不知隣国の戎ども、もし我より政道よくは、これ民の悦びたるべし。何ぞあながちに以我主とせんや』とて、大王ひんの地を戎に与へ、岐山きさんの麓へ逃げ去つて、悠然として居給ひける。




古を思い起こせば昔周太王(古公亶父ここうたんぽ。周初代武王の曾祖父)と申す人が、豳という所にいたが、隣国の戎どもが蜂起して討とうとしたので、太王は牛馬珠玉などの宝物を送って、礼をなしたがなおも鎮まらなかった。周太王は一早く国を去ると打って出ず、大勢が攻めて来ると知らせた。万民百姓はこれに怒りをなして、『そういうことならば、我らが身命を捨てて防ぎ戦おう、太王よ戎に向かって和平を請うのはやめよ』と申しました、太王は、『そうではないわしが国を惜しく思うのは、人民のためを思ってのことなのだ。もしわしが戎どもと戦えば、若干の人民を殺すことになろう。地を惜しんで、民を失うことに何の益があろうや。また知らぬ隣国の戎どもが、もしわしよりよい政をすれば、民のよろこびとなろう。どうして主であることに固執しなければならぬ』と申して、太王は豳の地を戎に与え、岐山(現陝西省宝鶏市)の麓へ逃げ去って、悠然([物事に動ぜず、 ゆったりと落ち着いている様])としておった。


続く


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by santalab | 2017-03-01 07:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その22)

これしかしながら上方らうへかた御存知なしといへども、責め一人に帰するいはれもあるか。かくては抑世のをさまると云ふ事の候ふべきか。せめては宮方にこそ君も久しく艱苦かんくめて、民の愁へを知ろし召し候へ。臣下もさすが知慧ある人おほく候ふなれば、世を可被治器用も御渡り候ふらんと、心憎く存じ候へ」と申せば、鬢帽子びんばうししたる雲客打ち微笑みて、「何をか心憎く思し召し候ふらん。宮方の政道も、ただこれと重二ぢゆうに重一ぢゆういちにて候ふものを。某も今年の春まで南方に伺候してさうらひしが、天下をくつがへさん事も守文しゆぶんの道も叶ふまじきほどを至極見透かして、さらば道広く成つて、遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷り出て候ふあひだ、宮方の心憎き所は露許りも候はず。




これは上の知らぬことであろうが、その責め一人(天皇)に帰する道理もあるか。どうして世が治まることがあろうや。せめて宮方には君(第九十七代後村上天皇)も久しく艱苦([悩み苦しむこと。つらく苦しいこと])を嘗めて、民の悲しみをお知りになられますよう。臣下にもさすが知慧のある人が多くおられますれば、世を治めるべき器用もおられるであろうと、頼もしく思っておるのだが」と申せば、鬢帽子をかぶった雲客([殿上人])は嘲笑して、「何が頼もしいものか。宮方の政道も、ただこれと瓜二つ、いやまったく同じよ。わしは今年の春まで南方(南朝)に伺候しておったが、天下を覆えすことも守文([君主が、始祖の残した法律・制度を守って国を治めること])の道も叶うことはあるまいと見透かして、ならば願うままに、遁世しようと思うて、京にやって来たのだ、宮方が頼りになるとは露ほども思ってはおらぬ。


続く


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by santalab | 2017-03-01 07:48 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その4)

城中じやうちゆう時節をりふし無勢ぶせいなりければ、三十さんじふ余人ありける者ども、且く戦ひて皆討ち死にしければ、宮方の士卒これに機を挙げて、大可島おほかしまめのじやうこしらへ、鞆の浦に充満して、武島むしま小豆島せうどしまの御方を待つ処に、備後・備中・安芸・周防四箇国しかこくの将軍の勢、三千余騎にて押し寄せたり。宮方は大可島を後ろに当てて、東西の宿へ舟を漕ぎ寄せて、打つては上がり打つては上がり、荒手を入れ替へて戦ひたり。将軍方しやうぐんがたは小松寺を陣に取りて、浜面はまおもてへ騎馬のつはものを出だし、懸け合ひ懸け合ひ揉み合はせたり。互ひに戦ひ屈して、じふ余日を経ける処に、伊予の土肥とひが城被責落。細河ほそかは刑部ぎやうぶの大輔頼春よりはるは、大館左馬の助氏明うぢあきの被篭たる世田の城へ懸かると聞こへければ、土居・得能以下いげの者ども、同じく死なば、我が国にてこそかばねを曝さめとて、大可島を打ち棄てて、伊予の国に引つかへす。




城中はこの時無勢でしたので、三十余人の者どもは、しばらく戦って皆討ち死にしました、宮方の士卒はこれに気を上げて、大可島(大可島城。現広島県福山市)を攻め城になして、鞆の浦現広島県福山市)に充満して、武島(沼島?現兵庫県南あわじ市)や小豆島(現香川県小豆郡)の味方を待つところに、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢が、三千余騎で押し寄せました。宮方は大可島を後ろに当てて、東西の宿へ舟を漕ぎ寄せて、打っては上がり打っては上がり、新手を入れ替えて戦いました。将軍(足利尊氏)方は小松寺(現広島県福山市)を陣に取って、浜面に騎馬の兵を出し、駆け合い駆け合い揉み合わせました。互いに戦い疲れて、十余日を経るところに、伊予の土肥(土肥義昌よしまさ)の城(川之江城。現愛媛県四国中央市)が攻め落とされました。細川刑部大輔頼春(細川頼春)は、大館左馬助氏明(大舘氏明)が籠もる世田城(現愛媛県西条市にある栴檀寺)を攻めると聞こえたので、土居・得能以下の者どもは、同じく死ぬのならば、我が国で屍を晒そうと、大可島を棄てて、伊予国に引き返しました。


続く


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by santalab | 2017-03-01 07:14 | 太平記 | Comments(0)

    

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