Santa Lab's Blog


2017年 03月 02日 ( 4 )



「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その27)

ここに魯国ろこくに一人の才人あり。宮闕きゆうけつに参つて大史の官を望みける間、すなはち左大史に成して天子のそばに慎み随ふ。玄宗またこの左大史も楊貴妃の事をや記し置きたるらんと思し召して、密かにまた官庫を開かせ記録を御覧ずるに、『天宝十年じふねん三月弘農楊玄璬やうげんえん女為寧王ねいわう之夫人。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖』とぞ記したりける。玄宗いよいよ逆鱗げきりんあつて、またこの史官を召し出し則ち車裂きにぞせられける。かくては大史の官に成る者非じと思えたる処に、また魯国より儒者一人来て史官を望みける間、やがて左大史に被成。これがしるす処をまた召し出して御覧ずるに、『天宝年末泰階平安而四海無事也。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王ねいわう之夫人。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之』とぞ記したりける。己が命をかろんずるのみに非ず、後の史官に至るまでたとひ万人死するとも不記あるべからずと、三族の刑をも不恐注し留めし左大史が忠心の程こそ難有けれ。




その頃魯国(現山東省南部)に一人の才人がおった。宮闕([内裏])に参って大史官([古代中国で 、文書・記録の任にあたった官])を望んだので、たちまち左大史にして天子(唐の第九代皇帝、玄宗)に祗候させた。玄宗はまたこの左大史も楊貴妃のことを記し置く思い、密かにまた官庫を開かせ記録を見れば、『天宝十年(751)三月(開元二十八年(740)?)に弘農楊玄璬の娘で寧王(正しくは、玄宗の子、寿王=李瑁りぼう)の夫人のこと、天子(玄宗)は容色([容貌と顔色])の媚満々たりと聞いて高将軍(高力士りきし)を遣わし、后宮を奪わせた。時の大史官が史書に記し留めたという。密かにそれを見た日、天子は怒り史官を誅した』と記してあった。玄宗はますます怒って、またこの史官を召し出したちまち車裂きにしたのだ。こうして大史の官になる者はいないと思われるところに、また魯国より儒者(儒学者)が一人来て史官を望んだので、たちまち左大史になした。これが記すところをまた召し出して見れば、『天宝年末は泰階([星の名。異常がないと天下が泰平であるとされる])平安にして四海([国内])は無事であった。政はしばらく停滞し遊びに興ずることはなはだ多し。君王(玄宗)は寧王の夫人の色に溺れ、史官が記すにあるいは誅されあるいは車裂きにされた。臣苟しくとも史職にあるならば死をもってしの非を正すべし。以後の史官はたとえ死を賜わるとも、引き続き万死をもって、史官ならばこれを記さねばならぬ』と記してあったのだ。己の命を軽んずるばかりでなく、後の史官にいたるまでたとえ万人死するとも記さぬことはあるべからずと、三族の刑([罪を犯した者の三族=高祖父・曾祖父・祖父・父・子・孫・曾孫・玄孫など。までを処刑すること])をも恐れず記し留めた左大史の忠心のほどこそあり難いものであった。


続く


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by santalab | 2017-03-02 08:07 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その26)

天子の御かたはらには、大史の官とて、八人の臣下長時ぢやうじに伺候して、君の御振る舞ひを、就善悪しるし留め、官庫にをさむる習ひなり。この記録をば天子も不被御覧、片方かたへの人にも不見、ただ史書に書き置きて、前王の是非を後王のいましめに備ふるものなり。玄宗皇帝くわうてい寧王ねいわうの夫人を奪ひ取り給へる事、いかさま史書に被注留ぬと思し召しければ、密かに官庫を開かせて、大夫の官が注す所を御覧ずるに、果たしてこの事をありの侭に注し付けたり。玄宗大きに逆鱗げきりんあつて、この記録を引き破つて被捨、史官をば召し出して、すなはち首をぞ被刎ける。それより後大史の官けて、この職に居る人なかりければ、天子非ををかさせ給へども、敢へて憚る方も不御坐。




天子のそばには、大史官と申して、八人の臣下が長時伺候して、君の振る舞いを、善悪付けて記し留め、官庫に納める習いがあった。この記録をは天子も見ることができず、近習の人にも見せなかった。ただ史書に書き置き、前王の是非を後王の誡めとするためであった。玄宗皇帝(唐の第九代皇帝)が寧王(正しくは、玄宗の子、寿王=李瑁りぼう。寧王は玄宗の兄、李憲りけん)の夫人(楊貴妃)を奪い取ったことを、きっと史書に記し留めたであろうと思い、密かに官庫を開かせて、大史官が記すところを見れば、この事がありのままに記されておった。玄宗はたいそう怒り、この記録を引き破って捨て、史官を召し出して、たちまち首を刎ねたのだ。それより後は大史官は欠官となり、この職に就く人はなかったので、天子が非を犯しても、憚かることはなかった。


続く


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by santalab | 2017-03-02 07:59 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その25)

ここに弘農こうのう楊玄璬やうげんえんが娘に楊貴妃と云ふ美人あり。養はれて在深窓人未だ知之。天のせる麗質れいしつなれば更に人間のたぐひとは不見けり。ある人これをなかだちして、寧王ねいわうの宮へまゐらせけるを、玄宗聞こし召して高力士かうりきしと云ふ将軍しやうぐんを差し遣はし、道よりこれを奪ひ取つて後宮へぞかしつき入れ奉りける。寧王ねいわう無限無本意事に思し召しけれども、御弟ながら時の天子として振る舞はせ給ふ事なれば、不及力。寧王も同じ内裏の内に御坐ありければ、御遊ぎよいうがある度毎に、玉の几帳きちやうはづ金鶏障きんけいしやうひまより楊貴妃のかたちを御覧ずるに、一度ひとたびめるまなじりには、金谷千樹きんこくせんじゆの花にほひを恥ぢて四方しはうの嵐に誘引さそはれ、ほのかに見たる容貌ようばうは、銀漢ぎんかん万里の月よそほひをねたみて五更ごかうの霧に可沈。雲居遥かにいかつちの中をけずは、何故なにゆゑか外には人を水の泡の哀れとは思ひ消ゆべきと、寧王思ひに堪へ兼ねて、臥し沈み歎かせ給ひける御心の中こそ哀れなれ。




弘農県の楊玄璬の娘に楊貴妃という美人がおった(楊貴妃は、蜀州司戸の楊玄淡の四女。楊玄璬は叔父・養父)。深窓([家の奥深い所])に養われて人は知らなかったが。天成の麗質([髪の毛、皮膚、顔だちなどの美しい生まれつき])なればまったく人間の類とも見えなかった。ある人が楊貴妃を媒酌して、寧王(玄宗の兄。正しくは玄宗の子、寿王=李瑁りぼう)の宮に参らせましたが、玄宗(唐の第九代皇帝)が聞いて高力士という将軍を差し遣わし、道中で楊貴妃を奪い取って後宮に入れ参らせたのだ。寧王は限りなく本意なく思ったが、弟ながら時の天子として振る舞っておったので、どうしようもなかったのだ。寧王も同じ内裏の内におられたので、御遊などある度毎に、玉の几帳([間仕切りや目隠しに使う屏障具の一])の外れ錦鶏障([錦鶏=キジ科の鳥。の絵が描かれている宮中のふすま障子])の隙より楊貴妃の姿を見れば、一度微笑む目元には、金谷千樹の花もその色を恥じて四方の嵐とともに散り、ほのかに見える顔立ちは、銀漢([銀河])万里の月もその美しさを妬んで五更([夜])の霧に沈むようであった。雲居遥かの雷に打たれ身を裂かれるほかは、この悲しみに人は水の泡のように消えることができようかと、寧王は悲しみに堪えかねて、臥し沈み嘆く心の内は哀れなものだった。


続く


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by santalab | 2017-03-02 07:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その5)

敗軍の士卒相集あひあつまつて、二千余騎ありけるその中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎選り出だして、懸け合ひの合戦に勝負を決せんと云ふ。これは細川刑部ぎやうぶの大輔目に余る程の大勢なりと聞き、「中々何ともなき取り集め勢を対揚たいやうして合戦をせば、臆病武者に引き立てられて、御方の負けをする事あるべし。ただ一騎当千の兵を選つて敵の大勢を懸け破り、大将細川刑部の大輔と引つ組んで差し違へんとの謀なり。さらば敵の国中こくぢゆうへ入らぬ先に打つ立て」とて、金谷かなや修理しゆりの大夫経氏つねうぢを大将として、選つたる兵三百騎、皆一様いちやうに曼荼羅を書きて母衣ほろに懸けて、とても生きてはかへるまじき軍なればとて、十死一生じつしいつしやうの日を吉日きちにちに取つて、大勢の敵に向かひける心のうち樊噲はんくわい周勃しうぼつも未だ得ざる振る舞ひなり。あはれただ勇士の義を存する心ざしほど、やさしくもあはれなる事はあらじとて、これを聞きける者は、皆よろひの袖をぞ濡らしける。




敗軍の士卒が集まって、二千余騎の中より、日来手柄を立て名の知られた兵を、三百余騎選び出して、駆け合いの合戦で勝負を決しようと言いました。これは細川刑部大輔(細川頼春よりはる)が目に余るほどの大勢と聞き、「さして役にも立たぬ取り集め勢を対揚([対等])になして合戦すれば、臆病武者に引き立てられて、味方が負けることもあるかも知れぬ。ただ一騎当千の兵を選んで敵の大勢を駆け破り、大将細川刑部大輔(頼春)と引っ組んで刺し違えようとの企てでした。ならば敵が国中へ入らぬ先に立て」と、金谷修理大夫経氏(金谷経氏)を大将として、選鋭の兵三百騎は、皆一様に曼荼羅を書いて母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具])に懸けて、とても生きては帰れぬ軍なればと、十死一生の日([十死日]=[暦注の一。すべてに大凶とする日])を吉日に取って、大勢の敵に向かう心の内は、樊噲(中国の秦末から前漢初期にかけての武将)も周勃(中国秦末から前漢初期にかけての武将、政治家)も敵わぬ振る舞いでした。勇士の義を存する心ざしほど、情け深いことはないと、これを聞く者は、皆鎧の袖を濡らしました。


続く


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by santalab | 2017-03-02 07:04 | 太平記 | Comments(0)

    

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