Santa Lab's Blog


2017年 03月 04日 ( 4 )



「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その33)

摩竭陀国まかだこくの軍果て瑠璃王るりわうつはものども皆本国にかへりければ、今は子細非じとて目連神力の御手をのべて、忉利天たうりてんに置かれたる鉢をあふのけて御覧ずるに、以神通被隠五百人の刹利種せつりしゆ、一人も不残死にけり。目連悲しみてその故を仏に問ひ奉る。仏答へてのたまはく、「皆これ過去の因果いんぐわなり。いかでか助かる事を得ん。その故は、往昔わうせきに天下三年ひでりして無熱池むねつちの水かはけり。この池に摩羯魚まかつぎよとて尾首をかしら五十丈ごじふぢやうの魚あり。また多舌魚たぜつぎよとて如人ものいふ魚あり。ここに数万人すまんにんすなとりども集つて水を換へ尽くし、池をして魚を捕らんとするに、魚更になし。漁父ども求むるに無力空しく帰らんとしける処に、多舌魚岩穴いはあなの中より這ひ出でて、漁父どもに向かつて申しけるは、『摩羯魚はこの池のうしとらの角に大きなる岩穴を掘つて水をたたへ、無量の小魚どもを伴ひて隠れ居たり。早くその岩を引きけて隠れ居たる摩羯魚を可殺。加様かやうに告げ知らせたる報謝はうしやに、なんぢら我が命を助けよ』とくはしくこれを語つて、多舌魚は岩穴の中へぞ入りにける。




摩竭陀国(マガダ国。古代インドにおける十六大国の一)の軍は果てて瑠璃王(毘瑠璃王。コーサラ国王。ヴィドゥーダバ)の兵どもは皆本国に帰ったので、今は何の心配もないと目連(摩訶目犍連まかもつけんれん。釈迦の十大弟子の一人。神通第一)は神通力の手を伸べて、忉利天([欲界における六欲天の第二天])に置いた鉢を取り除けて見れば、神通力をもって隠しておいた五百人の刹利種([刹利]=[古代インド四姓制度の第二階級。婆羅門に つぐもので、王侯・貴族・武士の階級])は、一人も残らず死んでしもうた。目連は悲しんでその訳を仏(釈迦)に訊ねたんじゃ。仏は答えて、「これは皆過去の因果である。助けることはできなかったのだ。その故は、その昔天下は三年日照りして無熱池([阿耨達池あのくだつち]=[ヒマラヤ山脈の北にあるとする想像上の池。金銀や宝石が岸を形成し、アナバタプタという竜王が住む])の水が干上がった。この池に摩羯魚という尾首五十丈(約150m)の魚が住んでおった。また多舌魚といって人のように物言う魚も住んでいた。数万人の漁師が集まって水を汲み出し、池を干して魚を捕ろうとしたが、まったく魚はおらんじゃった。漁父どもは求める魚がいなくて仕方なく帰ろうとするところに、多舌魚が岩穴の中から這い出て、漁父どもに向かって申すには、『摩羯魚はこの池の艮([北東])の角に大きな岩穴を掘って水を湛え、無数の小魚どもとともに隠れています。早くその岩を引き除けて隠れている摩羯魚を殺しなさい。こうして告げ知らせた報謝に、我が命を助けて欲しい』と詳しく話して、多舌魚は岩穴の中に入って行ったんじゃ。


続く


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by santalab | 2017-03-04 07:57 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その32)

斯かる処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へかへり忠をして申しけるは、『釈氏の刹利種せつりしゆは五戒を持たるゆゑにかつて人を殺す事をせず。たとひ弓強くして遠矢を射るとも人に射当つる事は不可有。ただ寄せよ』とぞ教へける。寄せ手大きに悦びて今は楯をも不突鎧をも不著、鬨の声を作りかけて寄せけるに、げにも釈氏どもの射る矢更に人に不中、ほこを仕ひ剣を抜いても人を斬る事なかりければ、摩竭陀国まかだこくの王宮忽ちに被責落、釈氏の刹利種悉く一日が中に滅びんとす。この時仏弟子目連もくれん尊者、釈氏の無残所討たれなんとするを悲しみて、釈尊の御所みもとに参つて、『釈氏已に瑠璃王るりわうの為に被亡て、わづかに五百人残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人の刹利種を不助給や』と被申ければ、釈尊、『止みなん止みなん、因果の所感仏力にも難転』とぞのたまひける。目連尊者なほも不堪悲に、『たとひ定業ぢやうごふなりとも、以通力これを隠弊いんへいせんになどか不助や』と思し召して、くろがねの鉢の中にこの五百人を隠し入れて、忉利天たうりてんにぞ被置ける。




そうこうするところに釈氏(釈迦族)の中より、時の大臣であった人が、寄せ手の方へ返り忠([主君に背いて敵方に通じること])をして申すには、『釈氏の刹利種([刹利]=[古代インド四姓制度の第二階級。婆羅門に つぐもので、王侯・貴族・武士の階級])は五戒([在家の信者が守らなければならない基本的な五つの戒め。不殺生・不偸盗ふちゆうとう不邪淫ふじやいん・不妄語・不飲酒ふおんじゆの五つ])を保つ故に今まで人を殺したことがありません。たとえ弓強くして遠矢を射るとも人に当てることはありません。ただ寄せなさい』と教えたんじゃ。寄せ手はたいそうよろこんで楯も突かず鎧も着ず、鬨の声を作りかけて寄せると、まこと釈氏どもの射る矢はまったく人に当たらず、鉾を突き剣を抜いても人を斬ることはなかった、摩竭陀国(マガダ国。古代インドにおける十六大国の一)の王宮はたちまち攻め落とされて、釈氏の刹利種は残らず一日が内に滅びようとしておった。この時仏弟子目連尊者(摩訶目犍連まかもつけんれん。釈迦の十大弟子の一人。神通第一)は、釈氏が残りなく討たれることを悲しんで、釈尊(釈迦)の御所に参ると、『釈氏はすでに瑠璃王(毘瑠璃王。コーサラ国王。ヴィドゥーダバ)に亡ぼされて、わずかに五百人が残るばかりです。世尊よどうして大神通力をもって五百人の刹利種を助けないのですか』と申せば、釈尊は、『止めておかれよ、因果の所感([過去の行為が結果を生ずること])は仏力でも変えられぬ』と申したんじゃ。目連尊者なおも悲しみに堪えず、『たとえ定業([その報いとして起こる結果が定まっている行為])なりとも、通力をもってこれを隠弊すれば助けられぬことがあろうか』と思い、鉄の鉢の中にこの五百人を入れて、忉利天([[欲界における六欲天の第二天]])に隠し置いたんじゃ。


続く


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by santalab | 2017-03-04 07:52 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その31)

さて二十にじふ余年をて後、瑠璃太子ひととなり浄飯王じやうぼんわうは崩御成りしかば、瑠璃太子三百万騎の勢を率して摩竭陀国まかだこくじやうへ寄せ給ふ。摩竭陀国は大国たりといへども、にはかの事なれば未だ国々より馳せ参らで、王宮已に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種せつりしゆ強弓つよゆみども数百人すひやくにんあつて、十町じつちよう二十町にじつちようを射越しける間、寄せ手かつて不近付得、山に上り河を隔てていたづらに日をぞ送りける。




二十余年を経て後、瑠璃太子(コーサラ国太子。ヴィドゥーダバ)は大人になり浄飯王(迦毘羅衛カビラエ国の王。釈迦の父)は崩御されたので、瑠璃太子は三百万騎の勢を率して摩竭陀国(マガダ国。古代インドにおける十六大国の一)の城へ寄せたんじゃ。摩竭陀国は大国じゃったが、急なことだったんで国々から兵は馳せ参らず、王宮はすでに攻め落とされると思えるところに、釈氏(釈迦族)の刹利種([刹利]=[古代インド四姓制度の第二階級。婆羅門に つぐもので、王侯・貴族・武士の階級])どもが数百人おったので、十町(当時の100m?)二十町を射たので、寄せ手は近付くことができずに、山に上り川を隔てていたずらに日を送ったんじゃよ。


続く


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by santalab | 2017-03-04 07:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その7)

金谷かなや修理しゆりの大夫これを見て、「すはや敵は懸かると見へたるは」とて、ちつとも見繕ふ処もなく、相懸かりにむずと攻めて、矢一つ射違ふるほどこそありけれ、皆弓矢をばはづし棄て、打ち物に成つて、をめき叫んで真つくろにぞ懸けたりける。細川刑部ぎやうぶの大輔馬廻むままはりに、とうの一族五百余騎にてひかへたるが、兼ねてのはかりことなりければ、左右へさつと分かれて控へたり。この中に大将ありと思ひも不寄、三百騎の者どもこれをば目にも懸けず、裏へつと懸け抜け、二陣の敵に打つて懸かる。この陣には三木・坂西ばんせい坂東ばんとうつはものども相集あひあつまつて、七百余騎兜のしころかたぶけて、馬を立てをさめ、しづまりかへつてひかへたりけるが、勇猛強力かうりきの兵どもに懸け散らされて、南なる山の峯へ颯と引いて上りけるが、これもはかばかしき敵はなかりけりとて、三陣の敵に打つて懸かる。これには詫間・香西かうさい橘家きつけ・小笠原の一族ども、二千余騎にて控へたり。これにぞ大将はおはすらんと見澄して、中を颯と懸け破つて、取つてかへし、引つ組んでは差し違へ、落ち重なつては首を取らる。




金谷修理大夫(金谷経氏つねうぢ)はこれを見て、「敵が懸かって来るぞ」と言うと、少しも見計ることもなく、相懸かりに攻めて、矢一つ射違えるほどこそあれ、皆弓矢を捨てて、打ち物([太刀])になって、喚き叫んでまっしぐらに駆け出しました。細川刑部大輔(細川頼春よりはる)は馬を返すと、藤一族が五百余騎で控えていましたが、予ねてよりの謀でしたので、左右へさっと分かれました。この中に大将がいるとは思いも寄らず、三百騎の者どもこれには目も懸けず、裏へ駆け抜けると、二陣の敵に打って懸かりました。この陣には三木・坂西・坂東の兵が、七百余騎兜の錣([兜・頭巾の左右・後方に下げて首筋をおおう部分])を傾けて、馬の足を止めて、静まり返って控えていましたが、勇猛強力の兵どもに駆け散らされて、南の山の峯へさっと引き上りました、ここにもはかばかしき敵はいないと、三陣の敵に打って懸かりました。ここには詫間・香西・橘家・小笠原の一族どもが、二千余騎で控えていました。ここに大将がいると見て、中をさっと駆け破ると、取って返し、引っ組んでは刺し違え、懸け破つて、落ち重なって首を取り合いました。


続く


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by santalab | 2017-03-04 07:40 | 太平記 | Comments(0)

    

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