Santa Lab's Blog


2017年 03月 05日 ( 4 )



「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その36)

かくて精勤修習しやうごんしゆしふせしかばやがて阿羅漢のくわをぞ得たりける。さてもなほ貧窮びんぐうなる事は不替。長時ちやうじに鉢を空しくしければ仏弟子たちこれをあはれみて、梨軍支りぐんし比丘びくにのたまひけるは、『宝塔の中に入つて坐せよ。参詣の人の奉らんずる仏供ぶつくを請けて食はんに不足あらじ』とぞをしへられける。梨軍支悦びて塔の中に入つてねぶり居たるその間に、参詣の人仏供を奉りたれども更にこれを不知。時に舎利弗五百人の弟子を引きて、他邦たはうより来て仏塔の中を見給ふに、参詣の人の奉る仏供あり。これを払ひ集めて、乞丐人こつがいにんに与へ給ふ。その後梨軍支ねぶり醒めて、食せんとするに物なし。足摺りをしてぞ悲しみける。舎利弗これを見給ひて、『なんぢあながちに勿愁事、我今日汝を具して城に入り、旦那のしやうを可受』とて伽耶城がやじやうに入つて、檀那だんなの請を受け給ふ。二人ににん沙門しやもん已に鉢を挙げていひけんとし給ひける処に、檀那の夫婦にはかにいさかひをし出だして、共に打ち合ひける間、心ならず飯を打ちこぼして、舎利弗・梨軍支共に餓ゑてぞかへり給ひける。




こうして(梨軍支は)精勤([仕事や学業などにまじめに励むこと])修習([学問・技能などを習って身につけること])したのでたちまち阿羅漢([仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと])の果([仏道修行によって得た悟りの境地])を得たのじゃ。それでもなお貧窮([貧しくて生活に苦しむこと])のままじゃった。いつも鉢は空じゃったので仏弟子たちは梨軍支を憐れんで、梨軍支比丘に申すには、『宝塔の中に入って座っておれ。参詣の人が奉る仏供([仏前に供える物、特に米飯])をもらって食えば腹が減ことはない』と教えた。梨軍支はよろこんで塔の中に入ると眠ってしもうた。参詣の人が仏供を奉りましたがまったく梨軍支には気付かんじゃった。この時舎利弗(釈迦の十大弟子の一人。智慧第一)が五百人の弟子を連れて、他邦([他国])からやって来て仏塔の中を見ると、参詣の人が奉る仏供があった。これを集めて、乞丐人([乞食])に与えたんじゃ。その後梨軍支は眠りから醒めて、食おうとしたが何もなかったんじゃ。足摺り([とりかえしのつかないことを悔やむときの動作])をして悲しんだ。舎利弗はこれを見て、『お主よそんなに悲しむな、わたしが今日お主を連れて城に入り、旦那([布施をする人])の請に応じてやろう』と申して伽耶城([古代マガダ国の都城])に入ると、檀那の請を受けたんじゃ。二人の沙門([バラモン階級以外の出身の男性修行者])が鉢を掲げて飯を請けようとした時、檀那の夫婦が急に喧嘩を始めて、叩き合ったので、思わず飯を叩きこぼされて、舎利弗・梨軍支ともに餓えて帰ったんじゃ。


続く


[PR]
by santalab | 2017-03-05 09:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その35)

また舎衛国しやゑこくに一人の婆羅門あり。その妻一人の男を産めり。名をば梨軍支りぐんしとぞがうしける。かたちみにくく舌強くして、母の乳を呑まする事を不得。わづかに酥蜜そみつと云ふ物を指に塗り、ねぶらせてぞ命をけたりける。梨軍支年ちやうじて家まどしく食に飢ゑたり。ここに諸々の仏弟子たち城に入つて食をひ給ふが、悉く鉢に満ちてかへり給ふを見て、さらば我も沙門と成つて食に飽かばやと思ひければ、仏の御前おんまへまうでて、出家の心ざしある由をまうすに、仏その心ざしを随喜ずゐきし給ひて、『善来比丘於我ぜんらいびくおが法中快修梵行得尽苦際けしゆぼんぎやうとくじんくさい』とのたまへば、鬢髪びんはつみづから落として沙門の形に成りにけり。




また舎衛国([コーサラ国の首都])に一人の婆羅門([古代インド社会の四階級中の最高位である僧侶階級])がおった。その妻が一人の男を産んだ。名を梨軍支と言った。顔は醜く舌の力が強かったので、母は乳を呑ませんじゃった。わずかに酥蜜([酥=牛の乳を精製したもの。と、蜂蜜])という物を指に塗り、舐らせて育てたんじゃよ。梨軍支が年長けると家は貧しくなって食に飢えるようになった。そこに諸々の仏弟子たちが城に入って食を乞うたが、一人残らず鉢が満たされて帰るのを見て、ならば我も沙門([バラモン階級以外の出身の男性修行者])となって腹一杯飯を食いたいと思い、仏(釈迦)の御前に詣でて、出家したいと申せば、仏はその心ざしをよろこんで、『比丘([仏教に帰依して、具足戒を受けた成人男子])よ、よいところに来た。我が法中([僧侶たち])となり苦際(修行)を尽くし梵行([仏道の修行。特に性欲を断つ行法])を修めよ』と申すと、鬢髪が自然と落ちて沙門の姿になったんじゃよ。


続く


[PR]
by santalab | 2017-03-05 09:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その34)

漁父ども大きに悦びて件の岩を掘り起こして見るに、摩羯魚まかつぎよを始めとして五丈六丈ある大魚どもその数を不知集まり居たり。小水にいきづく魚どもなれば、いづくにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許りを生けたりけり。さればこの漁父と魚と諸共にしやうを替へて後、摩羯魚は瑠璃太子のつはものどもと成り、漁父は釈氏の刹利種せつりしゆとなり、多舌魚は今かへり忠の大臣と成つて摩竭陀国まかだこくを滅ぼしける。




漁父どもはたいそうよろこんでその岩を掘り起こして見れば、摩羯魚をはじめとして五丈六丈もある大魚がその数を知らず集まっておったのじゃ。小水に息吐く魚どもなれば、どこにも逃れることはできず、残らず漁父に殺されて、多舌魚だけが生き残ったのじゃよ。こうしてこの漁父と魚がともに生まれ変わり、摩羯魚は瑠璃太子(コーサラ国太子。ヴィドゥーダバ)の兵となり、漁父は釈氏(釈迦族)の刹利種([刹利]=[古代インド四姓制度の第二階級。婆羅門に つぐもので、王侯・貴族・武士の階級])となり、多舌魚は返り忠([主君に背いて敵方に通じること])の大臣となって摩竭陀国(マガダ国。古代インドにおける十六大国の一)を滅ぼしたのじゃ。


続く


[PR]
by santalab | 2017-03-05 09:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その8)

一足も不引戦ひけるに、宮方の兵三百余騎忽ちにひづめの下に討ち死にして、わづか十七騎にぞ成りたりける。その十七騎とまうすは、先づ大将金谷経氏かなやつねうぢ河野かうの備前のかみ通郷みちさと得能弾正とくのうだんじやう日吉大蔵ひよしおほくら左衛門・杉原与一・富田とんだ六郎ろくらう高市たかいち与三左衛門・土居備中の守・浅海あさみ六郎らなり。彼らは一騎当千のつはものなれば、みづから敵に当たる事じふ余箇度、陣を破る事六箇度なりといへども、未だ痛手をも負はずまた疲れけるていもなかりけり。一所に馬を打ち寄せて、馬も物の具も見知らねば、大将いづれとも知り難し。差せる事もなき国勢どもに逢うて、討ち死にせんよりは、いざや打ち破つて落ちんとて、十七騎の人々は、また馬の鼻を引つかへし、七千余騎が真ん中を懸け破つて、備後を差して引いて行く。厳しかりし振る舞ひなり。




一足も引かず戦ううちに、宮方の兵三百余騎はたちまちに蹄の下に討ち死にして、わずか十七騎になりました。その十七騎と申すは、まず大将金谷経氏・河野備前守通郷・得能弾正(得能通時?)・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守(土居義満?)・浅海六郎でした。彼らは一騎当千の兵でしたので、自ら敵に当たること十余箇度、陣を破ること六箇度に及びましたが、いまだ痛手も負わずまた疲れた様子もありませんでした。一所に馬を打ち寄せて、馬も物の具([武具])も知りませんでしたので、いずれを大将とも見分けることもできませんでした。名もない国勢どもと戦って、討ち死にするよりは、陣を打ち破っつて落ちようと、十七騎の人々は、また馬の鼻を引き返し、七千余騎の真ん中を駆け破って、備後を指して引いて行きました。誉めるべき振る舞いでした。


続く


[PR]
by santalab | 2017-03-05 09:06 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧