Santa Lab's Blog


2017年 03月 07日 ( 2 )



「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その40)

その後子は貧窮困苦びんぐうこんくの身と成つて、死して無間地獄むけんぢごくす。多劫たごふの受苦事はつて今人中にんぢゆうに生まる。この梨軍支りぐんし比丘これなり。沙門と成りすなはち得阿羅漢果つ事は、父の長者が三宝をうやまひしゆゑなり。その身食に飢ゑて砂を食らうて死せし事は、母を飢やかし殺したりし依其因果なり』と、釈尊まさに梨軍支過去の所業を説き給ひしかば、阿難・目連・舎利弗しやりほつら作礼而去り給ふ。加様かやうの仏説を以つて思ふにも、臣君をなみし、子父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽き満ちて、公家は餓死に及ぶ事も、皆過去くわこの因果にてこそ候らめ」と典釈の所述明らかに語りければ、三人ともにからからと笑ひけるが、漏箭ろうせんしきりに遷つて、晨朝じんでうにも成りければ、夜も已にあけ瑞籬みづがきを立ち出でて、おのが様々にかへりけり。以是安ずるに、懸かる乱れの世の中も、またしづかなる事もやと、憑みを残す許りにて、頼意らいいは帰り給ひにけり。




その後子は貧窮困苦の身となって、死に無間地獄([八大地獄の第八、阿鼻あび地獄])に堕ちた。多劫の苦を受けて後に人として生まれた。これが梨軍支比丘よ。沙門となって阿羅漢([仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと])になることができたのは、父の長者が三宝([仏・法・僧])を敬ったからである。食に飢えて砂を食らうて死んだのは、母を飢えさせ殺したその因果ゆえよ』と、釈尊(釈迦)が梨軍支の過去の所業を説いたので、阿難(阿難陀。釈迦の十大弟子の一人。 多聞第一)・目連(摩訶目犍連まかもつけんれん。釈迦の十大弟子の一人。神通第一)・舎利弗(釈迦の十大弟子の一人。智慧第一)は礼をして去りました。この仏説をもって思うに、臣君を亡き者にし、子が父を殺すのも、今生一世の悪にあらず。武士が衣食に飽き満ちて、公家が餓死に及ぶのも、皆過去の因果じゃろうて」と典釈の所述を明らかにして語ると、三人ともにからからと笑いました、漏箭([水時計に用いる漏壺ろうこの中に立てる、時刻を示す矢。時刻])はまたたく間に移って、晨朝([午前六時頃])になりました、夜もすでに明けたので朱の瑞籬([朱色の神社などの玉垣])を出て、各々それぞれに帰りました。これを思うに、この世の中の乱れも、また静かなることもあろうかと、頼みを残すばかりにして、頼意は帰って行きました。



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by santalab | 2017-03-07 07:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事(その2)

加様かやうに人々自害しけるその中に、篠塚伊賀のかみ一人は、大手の一二の木戸無残押し開きて、ただ一人ぞ立ちたりける。降人かうにんに出づるかと見ればさはなくて、紺糸のよろひに、鍬形くはがた打つたる兜のを縮め、四尺ししやく三寸ありける太刀に、八尺余りの金撮棒かなさいぼう脇に挿し挟みて、大音だいおん揚げてまうしけるは、「外にては定めて名をも聞きつらん。今近付いて我を知れ。畠山庄司しやうじ次郎重忠しげただに六代のそん、武蔵の国に育つて、新田殿に一人当千と憑まれたりし篠塚伊賀の守ここにあり。討つて勲功にあづかれ」と呼ばはりて、百騎許り控へたる敵の中へ、ちつとも擬議ぎぎせずわしり懸かる。そのいきほひ事柄勇鋭たるのみならず、兼ねて聞こえし大力だいりきなれば、誰かはこれを可遮止。百余騎の勢東西へさつと引き退いて、中を開いてぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持たず、しかもただ一人なれば、「何程の事か可有。ただ近付く事なくて遠矢に射殺せ。かへし合はせば懸け悩まして討て」とて、とうきつばんの者ども、二百余騎迹に付いて追つ懸くる。




こうして人々が自害するその中に、篠塚伊賀守(篠塚重広しげひろ)ただ一人は、大手([城の正面])の一二の木戸を残りなく押し開いて、ただ一人出て行きました。降人に出るかと見ればそうではなく、紺糸の鎧に、鍬形を打った兜の緒を縮め、四尺三寸もある太刀に、八尺余りの金撮棒(赤鬼が一般的に持っている金砕棒)を脇に挿し挟み、大声上げて申すには、「きっと名を聞いておろう。近付いて顔を見よ。畠山庄司次郎重忠(畠山重忠)には六代孫、武蔵国に育って、新田殿(新田義貞)に一人当千と頼みにされた篠塚伊賀守はここだ。討って勲功に預かれ」と叫んで、百騎ばかり控えたる敵の中へ、ちっとも擬議([危ぶみためらうこと])もせず走り懸かりました。その勢い戦い様は勇鋭であるばかりでなく、かねて聞こえる通り大力でしたので、誰もこれを止めることができませんでした。百余騎の勢は東西へさっと引き退いて、中を開いて通しました。篠塚は馬にも乗らず弓矢も持たず、しかもただ一人でしたので、「何ほどのことがあろうや。ただ近付かず遠矢に射殺せ。向かって来れば駆け疲れさせて討て」と、藤(藤原氏)・橘(橘氏)・伴(伴氏)の者ども、二百余騎が後を追いかけました。


続く


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by santalab | 2017-03-07 07:28 | 太平記 | Comments(0)

    

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