Santa Lab's Blog


2017年 03月 09日 ( 2 )



「太平記」先帝崩御の事(その1)

南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上しゆしやう不予ふよの御事ありけるが、次第に重らせ給ふ。医王善逝ぜんぜいの誓約も、祈るにそのしるしなく、耆婆扁鵲ぎばへんじやくが霊薬も、施すにその験をはしまさず。玉体日々に消えて、晏駕あんかの期遠からじと見へ給ひければ、大塔おほたふ忠雲ちゆううん僧正そうじやう、御枕に近付き奉て、なみだを抑へて申されけるは、「神路山かみぢやまの花二たび開くる春を待ち、石清水いはしみずの流れつひに澄むべき時あらば、さりとも仏神三宝も捨てまゐらせらるる事はよも候はじとこそ存じさふらひつるに、御脈すでに替はらせ給ひて候ふ由、典薬の頭かみ驚きまうし候へば、今はひとへに十善の天位を捨てて、三明さんみやう覚路がくろに赴かせ給ふべき御事をのみ、思し召し被定候ふべし。さても最期の一念に依つて三界にしやうを引くと、経文きやうもんに説かれて候へば、万歳ばんぜいの後の御事、よろづ叡慮に懸かり候はん事をば、悉くおほせ置かれさふらひて、後生善所ごしやうぜんしよの望みをのみ、叡心に懸けられ候ふべし」と申されたりければ、




南朝の年号延元三年(1338)の八月九日より、吉野の主上(第九十六代後醍醐天皇)は病いを患われて、次第に重くなられました。医王善逝(薬師如来)の誓約も、祈るにその験なく、耆婆扁鵲([世にもまれな名医。耆婆は古代インドの名医、扁鵲は中国の戦国時代の名医 ])の霊薬も、施すにその験はありませんでした。玉体の姿は日々に消えて、晏駕([天子の死ぬこと。崩御])の期遠からじと見えたので、大塔(現京都市左京区にあった法勝寺)の忠雲僧正が、枕元に近付いて、涙を抑えて申すには、「神路山(現三重県伊勢市宇治にある山域)の花が再び咲く春を待ち、石清水(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の流れが遂つひに澄むべき時あらば、よもや仏神三宝([仏・法・僧])もお捨てになられることはないと思っておりましたが、脈すでに弱くなっておられると、典薬頭が驚き申しますれば、今はひとえに十善の天位を捨てて、三明の覚路([三明は仏となるべき智慧であることから〕、仏となるべき道])に赴かれることのみ、願われますよう。それにいたしましても最期の一念によって三界([一切衆生が、生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界])に生を引くと、経文に説かれておりますれば、万歳([貴人の死])の後の御事、万事叡慮に懸かられる事は、残らず仰せ置かれ、後生善所([来世には極楽浄土に生まれるということ ])の望みをのみ、叡心に懸けられますよう」と申しました、


続く


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by santalab | 2017-03-09 08:05 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」公家一統政道の事(その3)

清忠きよただきやう帰参して、この由を奏聞しければ、主上しゆしやうつぶさに被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼の不忠何事ぞや。太平の後天下の士卒なほ抱恐懼きようく心。もし無罪行罰、諸卒あに成安堵思や。然らば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企」有聖断、被成征夷将軍宣旨。これによつて宮の御いきどほりも散じけるにや、六月十七日じふしちにち志貴しぎを御立ちあつて、八幡やはたに七日御逗留とうりうあつて、同じき二十三日御入洛じゆらくあり。その行列・行装かうさう尽天下壮観。先づ一番には赤松入道円心ゑんしん、千余騎にて前陣ぜんぢんを仕る。二番に殿法印良忠りやうちゆう、七百余騎にて打つ。三番には四条しでうの少将隆資たかすけ、五百余騎。四番には中院なかのゐん中将ちゆうじやう定平さだひら、八百余騎にて打たる。




清忠卿(坊門清忠)が帰参して、この旨を奏聞すると、主上(第九十六代後醍醐天皇)は始終聞かれて、「大樹([征夷大将軍の唐名])の位に即いて、武備の守りを全うすることが、朝家として人の嘲りを受けぬためだと申したか。高氏(足利高氏)の誅罰のためというが、高氏が何の不忠を働いたというのだ。とは申せ太平の後天下の士卒はなおも恐懼心を抱いておる。もし罪なく罰すれば、諸卒は安堵せぬであろう。ならば大樹に任ずることに異存はない。ただし高氏誅罰の件については堅くこれを止められよ」と聖断を下され、(護良もりよし親王に)征夷将軍の宣旨をなされました。これによって宮(護良親王)の憤りも散じたのか、六月十七日に志貴(現奈良県生駒郡平群町にある朝護孫子寺)を立ち、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に七日間逗留し、同じ二十三日に入洛しました。その行列・行装([外出の際の服装。旅のいでたち])は天下の壮観([規模が大きくてすばらしい眺め])を尽くしたものでした。まず一番には赤松入道円心(赤松則村のりむら)が、千余騎で前陣を務めました。二番に殿法印良忠が、七百余騎で続きました。三番には四条少将隆資(四条隆資)が、五百余騎で続きました。四番には中院中将定平(中院定平)が、八百余騎で続きました。


続く


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by santalab | 2017-03-09 07:32 | 太平記 | Comments(0)

    

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