Santa Lab's Blog


2017年 03月 13日 ( 2 )



「太平記」先帝崩御の事(その5)

ここに吉野の執行しゆぎやう吉水よしみづの法印宗信そうしん、潜かにこの形勢ありさまを伝へ聞きて、急ぎ参内してまうしけるは、「先帝崩御の刻み被遺々勅、第七の宮を御位に即けまゐらせ、朝敵てうてき追伐つゐばつの御本意を可被遂と、諸卿まのあたり綸言を含ませ給ひし事なり。未だ日を経ざるに退散隠遁の御くはたてありとうけたまはり及び候ふこそ、心得難ゑがたく存じ候へ。異国の例を以つて吾がてうの今を計り候ふに、文王草昧さうまいあるじとして、武王しうげふを起こし、高祖かうそ崩じ給ひて後、孝景かうけい漢の世を保ち候はずや。今一人いちじん万歳ばんぜいを早うし給ふとも、旧労きうらうともがらその功を捨てて敵に降らんと思ふ者はあるべからず。就中なかんづく世の危ふきを見ていよいよめいかろんぜん官軍くわんぐんを数ふるに、先づ上野かうづけの国に新田左中将さちゆうじやう義貞の次男左兵衛さひやうゑすけ義興よしおき、武蔵の国にその家嫡左少将義宗よしむね越前ゑちぜんの国に脇屋刑部卿義助よしすけ、同じき子息左衛門さゑもんすけ義治よしはる、この外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河はねかは・山名・桃井もものゐ額田ぬかだ一井いちのゐ金谷かなや・堤・青竜寺しやうりゆうじ青襲あをそひ小守沢こもりさはの一族都合つがふ四百しひやく余人、国々に隠謀し所々に立て篭もる。造次ざうじにも忠戦を不計と云ふ事なし。




吉野の執行吉水法印宗信は、密かにこれを伝え聞いて、急ぎ参内して申すには、「先帝(第九十六代後醍醐天皇)が崩御の刻み遺勅されて、第七の宮(義良のりよし親王)を位に即け参らせて、朝敵追伐の本意を遂げよと、諸卿を前にして綸言を下されたと聞きました。いまだ日を経ておらぬうちに退散隠遁の企てありと聞いておりますが、どういうことでございましょう。異国の例をもって我が朝の今を考えまするに、文王(周朝の始祖)を草昧([まだ世が開けきらず、秩序が整っていないこと])の主として、武王(周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子)が周朝を立て、高祖(前漢の初代皇帝、劉邦)が崩じた後、孝景(恵帝?前漢の第二代皇帝。劉邦の子)が漢の世を保ったのではございませんか。今一人(後醍醐天皇)が早くも万歳([貴人の死])なされたからといって、旧労の輩がその功を捨てて敵に降ろうと思う者があってよいものか。申すまでもなく世の危機を見てますます命を軽んずえう官軍を数えれば、まず上野国に新田左中将義貞(新田義貞)の次男左兵衛佐義興(新田義興)、武蔵国にその家嫡左少将義宗(新田義宗。新田義貞の三男)、越前国に脇屋刑部卿義助(脇屋義助。新田義貞の弟)、同じく子息左衛門佐義治(脇屋義治。脇屋義助の子)、このほか江田・大舘・里見・鳥山・田中・羽川・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人が、国々に隠謀し所々に立て籠もっております。造次([とっさの場合。ごく短い時間])に忠戦を致すことでしょう。


続く


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by santalab | 2017-03-13 07:52 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」公家一統政道の事(その7)

文観もんくわん上人は硫黄いわうが嶋より上洛しやうらくし、忠円ちゆうゑん僧正は越後ゑちごの国より被帰洛。総じてこの君笠置かさぎへ落ちさせ給ひし刻み、解官停任げくわんちやうにんせられし人々、死罪流刑に逢ひしその子孫、ここかしこより被召出、一時に蟄懐ちつくわいを開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家かうけの武士ども、いつしか成諸庭奉公人、あるひは走軽軒香車後、あるひは跪青侍恪勤前。世の盛衰せいすゐ時の転変てんぺん、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢ぬび雑人ざふにんの如くにてあるべし。あはれいかなる不思議も出で来て、武家執四海しかい権世の中にまた成れかしと思ふ人のみ多かりけり。




文観上人は硫黄島(現鹿児島県鹿児島郡三島村)より上洛し、忠円僧正は越後国より帰洛しました。総じてこの君(第九十六代後醍醐天皇)が笠置(現京都府相楽郡笠置町)に落ちられた時に、解官停任となった人々、死罪流刑となったその子孫が、ここかしこより召し出され、一時に蟄懐([心中の不満])を散じました。こうして日頃武威に誇った本所([荘園の実効支配権を有した者])を止めて、権門高家の武士どもは、いつしか諸庭の奉公人となり、あるいは軽軒([軽快な上等の車])香車([立派な車])の後ろに従い、あるいは跪青侍恪勤([忠実に職務に励むこと])の青侍となって御前にひざまずきました。世の盛衰時の転変を、嘆いたところでどうにもならないとは知っていても、今の如く公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人のようなものでした。ああいかなる不思議も起こり、武家が四海([国内])を治める世の中になればよいのにと思う人が多くいました。


続く


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by santalab | 2017-03-13 07:08 | 太平記 | Comments(0)

    

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