Santa Lab's Blog


2017年 03月 15日 ( 2 )



「太平記」南帝受禅の事

同じき十月三日に、太神宮へ奉幣使を下され、第七の宮天子の位に即かせ給ふ。それ継体の君登極の御時、様々の大礼あるべし。先づ新帝受禅の日、三種さんじゆの神器を被伝て、御即位そくゐの儀式あり。その明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士うらべのしゆくねおんやうのはかせ軒廊こんらうにして国郡を卜定ぼくぢやうす。すなはち行事所始ぎやうじところはじめありて、百司はくし千官次第の神事じんじを執りる。同じき年の十月に、東の河原かはらに成つて御はらひあり。また神泉苑しんぜんゑんの北に斎庁所さいちやうしよを作つて、旧主一日抜穂ぬきぼを御覧ぜらる。竜尾堂りようびだうを立てられ、壇上にして御行水ぎやうずゐありて、回立殿くわいりふでんを建て、新帝大甞宮だいじやうきゆう行幸ぎやうがうあり。その日殊に堂上だうじやう伶倫れいりん正始せいしの曲を調べて一度雅音がいんを奏すれば、堂下だうかの舞ひ人、小忌をみの衣ころもかたぬいて、五度袖を翻へす。これを五節ごせち宴酔えんすゐと云ふ。その後大甞宮に行幸成つて御にへの祭を行はるほどに、悠紀ゆうき主基しゆき、風俗の歌を唱へて帝徳を称じ、童女いんご八乙女やをとめ稲舂いなつきの歌を歌うて神饌しんせんを献る。これ皆代々の儲君ちよくん、御くらゐを天に継がせ給ふ時の例なれば、三載さんさい数度すどの大礼、一つも欠けてはあるべからずといへども、洛外らくぐわい山中の皇居くわうきよの事、可周備にあらざれば、如形三種さんじゆの神器を拝せられたる計りにて、新帝くらゐかせ給ふ。




同じ延元四年(1339)十月三日に、伊勢大神宮へ奉幣使を下され、第七の宮(義良のりよし親王)が天子の位に即かれました(第九十七代後村上天皇)。継体の君が登極の際には、様々の大礼があります。まず新帝受禅の日に、三種の神器を伝えて、即位の儀式があります。その明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士が、軒廊([紫宸殿の南庭を囲む回廊])で国郡を卜定([国郡卜定]=[大嘗祭の時、新穀を奉る悠紀ゆき主基すきの国郡を亀卜きぼくにより占って決定すること])します。すぐに行事所始めがあり、百司千官が次第の神事を執り行います。同じ年の十月に、東の河原に出向かれて禊があります。また神泉苑(現京都市中京区にある寺院)の北に斎庁所を作って、旧主が一日抜穂([大嘗祭の時、悠紀・主基の斎田の稲の穂を神饌用に抜き取る神事])をご覧になられます。龍尾堂が建てられ、壇上で行水されて、回立殿([大嘗宮の一部])を建て、新帝が大甞宮に行幸なされます。その日は特別に堂上の伶倫([楽人])が、正始の曲を調べて一度雅音を奏すれば、堂下の舞人は、小忌衣([古代から伝わる、神事などに使用される上衣])を肩脱いで、五度袖を翻えします([五節の舞]=[大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、四五人の舞姫によって舞われる舞。大嘗祭では五人])。これを五節の宴酔と申します。その後大甞宮に行幸されてにへの祭(大嘗祭)が行われます、悠紀([大嘗祭の時、新穀・酒料を献上すべき第 一の国郡、また、その時の祭場])・主基([大嘗祭の時、悠紀とともに神饌の新穀を献上すべき国郡、また、その時の祭場])では、風俗の歌を歌い帝徳を称賛し、童女・八乙女が、稲舂([稲のもみうすに入れて、きねで搗き精白すること])の歌を歌って神饌([日本の神社や神棚に供える供物])を捧げます。これらは皆代々の儲君([春宮])が、位を継がれる時の恒例でしたので、三年間に渡り数度の大礼を行い、一つも欠けてはならないものでしたが、洛外山中の皇居なれば、周備([必要な条件がすべてにわたり備わっていること])すべくもなく、型の如く三種の神器を拝すばかりにして、新帝が位に即かれました。


続く


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by santalab | 2017-03-15 08:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」公家一統政道の事(その9)

この外相州さうしうの一族、関東くわんとう家風のともがらが所領をば、無指事郢曲妓女えいきよくぎぢよの輩、蹴鞠伎芸しうきくぎげいの者ども、乃至ないし衛府諸司ゑふしよし・官女・官僧まで、一跡・二跡を合はせて、内奏よりまうし賜はりければ、今は六十六ろくじふろく箇国の内には、立錐りつすゐの地も軍勢に可行闕所はなかりけり。かりければ光経みつつねきやうも、心許りは無偏の恩化を申し沙汰せんと欲つし給ひけれども、叶はで年月をぞ被送ける。また雑訴ざつその沙汰の為にとて、郁芳門いうはうもんの左右の脇に決断所を被造。その議定の人数にんずには、才学優長いうちやう卿相けいしやう雲客うんかく紀伝きてん明法みやうはふ外記げき官人くわんにんを三番に分かつて、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。およそ事のてい厳重げんぢゆうに見へて堂々だうだうたり。去れどもこれなほ理世安国りせあんこくまつりごとに非ざりけり。あるひは自内奏訴人そにん蒙勅許を、決断所にて論人ろんにんに理を被付、また決断所にて本主給安堵、内奏よりその地を別人の恩賞に被行。如此互ひに錯乱せし間、所領一所しよりやういつしよに四五人の給主きふしゆ付いて、国々の動乱更に無休時。




このほか相州(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)の一族、関東家風([家祖、家長の出身地など])の者どもの所領を、理由もなく郢曲([歌いもの]=[催馬楽や朗詠など声楽の範疇に属する音楽の総称])妓女([遊女、芸妓])の輩、蹴鞠伎芸([芸能])の者ども、または衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合わせて、内奏より申し賜わったので、今は六十六箇国の内には、立錐の地([きりを突き立てるほどの、きわめて狭い土地])も軍勢に与える闕所はありませんでした。こうして光経卿(九条光経)も、心許りは偏りなく恩化を申し沙汰せん欲していましたが、叶わず年月を送りましたまた雑訴の沙汰のためにと、郁芳門([大内裏の東面、待賢門の南の門])の左右の脇に決断所([雑訴決断所]=[南北朝時代、建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関])を造りました。その議定の人数には、才学優長の卿相([公卿])・雲客([殿上人])・紀伝([紀伝博士]=[大学寮で紀伝道=中国の史書・詩文を学ぶ学科。を教えた博士])・明法([明法博士]=[明法道=律令を専攻する。の教官])・外記([太政官の少納言の下にあって詔勅・上奏文の起草や朝儀の記録などを司り、除目・叙位などの儀式を執行した職名])・官人を三つに分けて、一月に六箇度の沙汰の日を定めました。事の体は厳重に見えて威厳がありました。けれども理世安国(治世安国)の政には似ぬものでした。あるいは内奏の訴人([原告])に勅許を蒙り、決断所では論人([被告])に理を付け、また決断所にて本主に安堵([将軍が自分に忠誠を誓った武士に対して父祖伝来の所領の所有権を認め、保証したこと])せしめ、内奏によりその地を別人の恩賞に与えました。このように互いに錯綜したので、所領一所に四五人の給主([中世、領主から給田を与えられ、年貢課役の納入責任者となった者])が付いて、国々の動乱はさらに休む時はありませんでした。


続く


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by santalab | 2017-03-15 07:29 | 太平記 | Comments(0)

    

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