Santa Lab's Blog


2017年 03月 17日 ( 3 )



「太平記」新田起義兵事(その1)

吉野殿武家に御合体ごがつていありつるほどこそ、都鄙とひしばらくしづかなりつれ。御合体たちまちに破れて、合戦に及びし後、畿内・洛中はわずかに王化に随ふといへども、四夷八蛮しいはちばんはなほ武威にしよくする者多かりけり。これによつて諸国七道の兵かれを討ちこれを従へんと互ひに威を立つる間、合戦の止む時もなし。すでに闘諍堅固とうじやうけんごになりぬれば、これならずとも静かなるまじきことわりなり。元弘建武の後より、天下久しく乱れて、一日もいまだ治まらず。心あるも心なきも、如何なる山の奥もがなと、身の穏れ家を求めぬ方もなけれど、いづくも同じ憂き世なれば、厳子陵げんしりよう釣台てうだいも脚を伸ぶるにすさまじく、鄭大尉ていたいゐ幽栖いうせいたきぎになふに山けはし。如何なる一業所感いちごふしよかんにか、斯かる乱世に生まれ逢うて、あるひは餓鬼道がきだうの苦を生まれながら受け、あるひは脩羅道しゆらだうやつこと死なぬ先になりぬらんと、歎かぬ人はなかりけり。




吉野殿(南朝。第九十七代後村上天皇)が武家と和平の間は、都鄙([都と田舎])はしばらく静かでした。合体はたちまちに破れて、合戦に及んだ後は、畿内・洛中はわずかに王化に従いましたが、四夷八蛮([中国の周辺地域に存在する異民族])はなおも武威に属する者が多くいました。このように諸国七道の兵はかれを討ちこれを従えようと互いに争ったので、合戦は止む時はありませんでした。すでに闘諍堅固([修行僧らが互いに自説を主張して譲らず、争いが盛んな状態])になったので、いずれにせよ平穏ならぬことは道理でした。元弘建武の後より、天下は久しく乱れて、一日も治まることはありませんでした。心ある者も心ない者も、如何なる山の奥もと、身の穏れ家を求めぬ者はいませんでしたが、いずれも同じ憂き世なれば、厳子陵(厳光。中国・後漢時代初期の隠者・逸民。子陵は字)が釣り台に脚を伸ばすも寒く(厳光は隠遁の後、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを光武帝=後漢の初代皇帝。に見出だされて、長安に召し出されたらしい)、鄭大尉(鄭弘。前漢の人。経書や法律に通じ南陽太守となったが、後に罷免された)が薪を担ぐに山険しと思えば憚られました。如何なる一業所感([人はいずれも、同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ])にか、このような乱世にたまたま生まれて、あるいは餓鬼道の苦を生まれながら受け、あるいは死ぬ前に修羅道の奴([奴婢])になってしまったかと、嘆かぬ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2017-03-17 15:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」任遺勅被成綸旨事義助攻落黒丸城事(その2)

同じき十二月先づ北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅ゆゐちよく異于他上は、不替故義貞之例、官軍くわんぐん恩賞以下いげの事相計あひはかつて、可経奏聞の由被宣下。その外筑紫の西征将軍しやうぐんの宮、遠江とほたふみ井城ゐのしろに御座ある妙法院めうほふゐん奥州あうしうの新国司顕信あきのぶきやうの方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦の由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討たれし後いきほなりといへども、所々の城郭じやうくわくに軍勢を篭め置き、さまでは敵にせばめられざりければ、いつまでかくてもあるべきぞ。城々の勢を一つに合はせて、黒丸の城に立て篭もられたる尾張をはりかみ高経たかつねを責め落とさばやと評定ありける処に、先帝崩御の御事をうけたまはつて、惘然ばうぜんたる事闇夜あんやともしびを失へるが如し。さはありながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義いよいよ心肝しんかんに銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をもたすけばやと、御国忌みこつきの御中陰の過ぐるを遅しとぞ相待あひまちける。




同じ延元四年(1339)十二月にまず北国にいる脇屋刑部卿義助朝臣(脇屋義助)の方へ綸旨を下しました。先帝(第九十六代後醍醐天皇)の遺勅格別である上は、故義貞(新田義貞)の例に変わらず、官軍への恩賞をはじめ相談の上、奏聞を経るべしとの宣下でした。このほか筑紫の西征将軍宮(懐良かねよし親王)、遠江の井城(現静岡県牧之原市?)におられた妙法院(宗良むねよし親王)、奥州の新国司顕信卿(北畠顕信)の方へも、任旧主(後醍醐天皇)の遺勅に任せて忠戦を致すよう、綸旨を下されました。義助(脇屋義助。新田義貞の弟)は義貞(新田義貞)が討たれた後は勢いを失っていましたが、所々の城郭に軍勢を籠め置き、さほど敵に攻め込まれていませんでしたので、いつまでも籠もったままでは仕方ない。城々の勢を一つに合わせて、黒丸城(現福井県福井市)に立て籠もっていた尾張守高経(斯波高経)を攻め落とさなくてはと評定があるところに、先帝崩御のことを聞いて、ただただ茫然としてまるで闇夜に灯火を失ったようでした。とはいえ、格別の遺勅他に異なる宣旨の忝さに、ますます忠義を心肝に銘じて、何としても一戦に勝ち、南方祠候の人々を元気付けようと、国忌([皇帝や天皇の祖先や先帝、母等の命日のうち、特に定めて政務を止めて仏事を行うこととした日])の中陰([四十九日])が過ぎるのを遅しと待ちました。



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by santalab | 2017-03-17 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その1)

翌年よくねん正月十二日、諸卿しよきやう議奏して曰はく、「帝王のげふ、万機事繁うして、百司はくし設位。今の鳳闕ほうけつわづかにはう四町しちやうの内なれば、分内せばうして調礼儀無所。四方しはう一町いつちやうづつ被広、建殿造宮」。これなほいにしへ皇居くわうきよに及ばねばとて、「大内裏可被造」とて安芸・周防すはう料国れうごくに被寄、日本国の地頭ぢとう・御家人の所領しよりやう得分とくぶん二十分にじふぶんの一を被懸召。




翌年(建武元年(1334))正月十二日に、諸卿は議奏して申し上げて、「帝王がなすべきこと万機([政治上の多くの重要な事柄])は多事に渡り、百司の位を設けてこれを行わなくてはなりません。今の鳳闕([皇居の周り])はわずかに四方四町なれば、分内([範囲])は狭く礼儀を調える所もありません。四方を一町ずつ広げて、殿を建て皇居とするべきです」。(第九十六代後醍醐天皇は)皇居を造営するからには昔の皇居に匹敵するものをと思われて、「大内裏を造れ」と申して安芸・周防を料国([内裏・寺社の造営など特定の必要資金に充てるための租税を課する国])に寄せて、日本国の地頭・御家人の所領の得分の二十分の一を徴収し費用に充てました。


続く


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by santalab | 2017-03-17 07:11 | 太平記 | Comments(0)

    

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