Santa Lab's Blog


2017年 04月 10日 ( 2 )



「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その25)

去るほどに、治暦ちりやく四年八月十四日、内裏造営ざうえいの事始めあつて、後三条院ごさんでうのゐんの御宇、延久えんきう四年四月十五日遷幸せんかうあり。文人献詩伶倫れいりん奏楽。目出たかりしに、無幾程、また安元あんげん二年に日吉山王の依御祟、大内だいだい諸寮しよれう一宇も不残焼けにし後は、国の力おとろへて代々の聖主も今に至るまで造営の御沙汰もなかりつるに、今兵革ひやうかくの後、世未だ安からず、国つひへ民苦しみて、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我がてうには未だ用ひざる作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領しよりやうに被懸課役条、神慮にもたが驕誇けうくうはしとも成りぬと、顰眉智臣も多かりけり。




やがて、治暦四年(1068)八月十四日、内裏造営の事始めあって、後三条院(第七十一代天皇)の御宇、延久四年(1072)四月十五日に遷幸されました。文人は詩を献上し伶倫([楽人])は楽を奏しました。めでたいことでしたが、ほどなく、また安元二年(1176)に日吉山王(現滋賀県大津市にある日吉大社の祭神)の祟りにより、大内の諸寮が一宇も残らず焼けた後は(安元の大火は安元三年(1177))、国の力は衰えて代々の聖主も今にいたるまで造営の沙汰はありませんでした、兵革([戦])の後、世はまだ安穏でなく、国の費えに民は苦しんで、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、馬を崋山(西安の東にある山)の陽(南)に帰さず馬を桃林の野に放たず([馬を崋山の陽に帰し牛を桃林の野に放つ]=[戦争が終わり平和になるたとえ。周の武王=周の創始者。は殷を滅ぼしたときに、戦争に使用した馬を崋山の南側に帰し、武器などを運搬させた牛を桃林に放って、二度と戦争はしないことを人民に示したという])大内裏を造営すべきと今に至るまで、我が朝では用いられなかった紙銭を作り、諸国の地頭・御家人の所領には課役([租税と夫役])を懸けました、神慮にも違い驕誇([おごり高ぶって大言を吐くこと])の発端ともなると、眉を顰める智臣も多くいました。


続く


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by santalab | 2017-04-10 08:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その3)

また三浦の介・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだう下野しもつけの二郎・小俣をまた宮内少輔せうも高倉殿方にて、薩埵山の合戦に打ち負けしかば、降人になつて命をば継ぎたれども、人の見るところ、世の聞くところ、口惜くちをしきものかな、あはれ謀反を起こさばやと思ひけるところに、新田武蔵のかみ・同じき左衛門さゑもんすけの方より、頼み思ふ由を申したりければ、願ふところのさいはひかなと悦びて、すなはち与力して、この人々密かに扇谷あふぎのやつに寄り合つて評定ひやうぢやうしけるは、「新田の人々旗を上げて上野かうづけの国に起こり、武蔵国へ打ち越ゆると聞こへば、将軍は定めて鎌倉にてはよも待ち給はじ、関戸せきと入間河いるまがはの辺に出で合つてぞ防ぎ給はんずらん。我ら五六人が勢なにとなくとも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打ち出で給はんずる時、わざ馬廻うままはりに控へて、合戦すでに半ばならんずる最中、将軍を真ん中に取り籠め奉り、一人も残らず討ち捕つて後に御陣へはまゐり候ふべし」と、新田の人々の方へ合図あひづを堅く定めて、石堂入道・三浦介・小俣をまた・葦名は、働かで鎌倉にこそ居たりけれ。




また三浦介・葦名判官(蘆名直盛なほもり。ただし、遠江守。葦名判官盛員もりかずは兄)・二階堂下野次郎・小俣宮内少輔も高倉殿(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)方として、薩埵山(薩埵峠。現静岡県静岡市清水区)の合戦に打ち負けたので、降人になって命をつないでいましたが、人の目、世の評判に、何とも悔しいことよ、何とかして謀反を起こそうと思っているところに、新田武蔵守(新田義興よしおき。新田義貞の次男)・同じく左衛門佐(脇屋義治よしはる。新田義貞の弟、脇屋義助の子)の方より、頼りにしたいと申してきたので、願うところの幸いとよろこんで、たちまち与力して、この人々が密かに扇ヶ谷(現神奈川県鎌倉市)に寄り合って、評定するには、「新田の人々が旗を上げて上野国に起こり、武蔵国に打ち越えると聞こえれば、将軍(足利尊氏)はきっと鎌倉で待ち受けることはないでしょう、関戸(現東京都多摩市)・入間川(現埼玉県を流れる荒川水系の一級河川)の辺に出で合って防ぐに違いありません。我ら五六人の勢は少ないが、三千騎はありましょう。将軍が戦場に打ち出た時、わざと馬廻([大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制の一])に控えて、合戦の最中に、将軍を真ん中に取り籠め、一人も残らず討ち捕った後に陣に参りましょう」と、新田の人々の方へ合図を固く定めて、石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介(三浦高通?)・小俣・葦名(葦名直盛なほもり)は、鎌倉に残りました。


続く


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by santalab | 2017-04-10 07:43 | 太平記 | Comments(0)

    

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