Santa Lab's Blog


2017年 04月 15日 ( 2 )



「太平記」新田起義兵事(その8)

すでに明日矢合はせと定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦の介すけを呼び退けてのたまひけるは、「合戦すでに明日と定められたり。この間相謀あひはかりつる事を、子息にて候ふ右馬のかみに、かつて知らせ候はぬ間、この者一定いちぢやう一人残り止まつて、将軍に討たれまゐらせつと思え候ふ。一家いつけの中を引き分けて、義卒ぎそつみし、老年のかうべに兜をいただくも、もし望み達せば、後栄こうえいを子孫に残さんと存ずるゆゑなり。さればこの事を告げ知らせて、心得させばやと存ずるはいかが候ふべき」と問ひ給ひければ、三浦、「げにもこれほどの事を告げ参らせられざらんは、後悔あるべしと思え候ふ。急ぎ知らせ参らせ給へ」と申しける間、石堂禅門、子息右馬の頭を呼びて、「我薩埵山の合戦に打ち負けて、今降人かうにんの如くなれば、仁木・細川らに押し据へられて、人数ならぬ有様御辺も定めて遺恨ゐこんにぞ思ふらん。明日の合戦に、三浦の介・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだうの人々と引き合つて、合戦の最中将軍しやうぐんを討ち奉り、家運かうんを一戦の間に開かんと思ふなり。相構あひかまへてその旨を心得て、我が旗の赴くに従はれるべし」と言はれければ、右馬の頭大きに気色きしよくを損じて、「弓矢の道二心あるを以つて恥とす。人の事は知らず、なにがしに於いては将軍に深く頼まれまゐらせたる身にて候へば、後ろ矢射て名を後代こうだいに失はんとは、えこそまうすまじけれ。兄弟父子の合戦いにしへより今に至るまでなき事にて候はず。いかさま三浦の介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告げ申さずは大きなる不忠なるべし。父子ふしの恩義すでに絶え候ひぬる上は、今生こんじやう見参げんざんはこれを限りと思し召し候へ」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ参られける。




すでに明日矢合わせと定まった夜のこと、石堂四郎入道(石塔義房よしふさ)が、三浦介(三浦時継ときつぐ)と二人きりになって申すには、「合戦はすでに明日と決まった。今までこのことを、子息の右馬頭に、知らせてはおらぬ、きっと一人残り止まって、将軍(足利尊氏)に討たれることであろう。一家の中を引き分けて、義卒([義兵])の味方になるのも、老年の頭に兜を戴くも、もし望み達すれば、後栄を子孫に残せると思うてのこと。ならばこの事を告げ知らせて、承知させようと思うがどうか」と訊ねると、三浦介も、「確かにこれほどの事を告げ知らせなくては、後悔がありましょう。急ぎ知らせ参らせませ」と申したので、石塔禅門は、子息右馬頭を呼んで、「わしは薩埵山(静岡県静岡市清水区にある峠)の合戦に打ち負けて、今は降人と同じようなものじゃ、仁木・細川らに押し据えられて、人数にもならぬ有様よお主もきっと遺恨に思うておろう。明日の合戦に、三浦介・葦名判官(蘆名直盛なほもり?)・二階堂の人々と組んで、合戦の最中に将軍を討ち、家運を一戦の間に開こうと思うておる。よくよくそれを心得て、わが旗に従われよ」と申せば、右馬頭はたいそう気色を損じて、「弓矢の道は二心あるを以って恥とするものです。人のことは知らず、このわたしは将軍に深く頼まれ参らせる身でございます、後ろ矢を射て名を後代に失うようなことは、決して申さないでください。兄弟父子の合戦は古より今に至るまでないことではありません。何であれ三浦介・葦名判官とともに、隠謀を企んでいることを将軍に告げ申さずは大きな不忠となりましょう。父子の恩義がすでに絶えた以上、今生の見参はこれを限りと思われませ」と、顔を赤らめ腹を立て、将軍の陣に帰って行きました。


続く


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by santalab | 2017-04-15 07:36 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その2)

これはせめて俗人なれば不足言。かの文観僧正そうじやうの振る舞ひを伝へ聞くこそ不思議なれ。たまたま一旦名利みやうり境界きやうがいを離れ、既に三密瑜伽さんみつゆがの道場に入り給ひし無益、ただ利欲・名聞みやうもんにのみおもむいて、更に観念定坐くわんねんぢやうざの勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、かたはらに集武具士卒をたくましうす。成媚結交ともがらには、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎すひやくきの兵打ち囲んで、路次を横行しければ、法衣ほふえ忽ち汚馬蹄塵、律儀りつぎ空しく落人口譏。かの廬山ろざん慧遠法師ゑをんほつし一度ひとたび辞風塵境、寂寞じやくまくの室に坐し給ひしより、仮りにもこの山を不出と誓つて、十八じふはち賢聖げんじやうを結んで、長日ちやうじつ六時礼讚ろくじらいさんを勤めき。大梅常和尚だいばいのじやうをしやうは強ひて不被世人知住処更に茅舎ばうしやを移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆いにしへも今も韜光消跡、暮山の雲に伴ひ一池いつちはちすを衣として、行道清心こそ生涯を尽くす事なるに、この僧正は如此名利のきづなほだされけるも非直事、何様天魔外道げだうのその心に依託えたくして、挙動ふるまはせけるかと思えたり。




これはせめて俗人なれば申すに及ばぬところですが。かの文観僧正の振る舞いを伝え聞くに不思議なことでした。一旦名利の境界を離れ、三密瑜伽([行者の三密=口密・身密・意密。と仏の三密とが相応・融合すること])の道場に入ったにも関わらず、ただ利欲・名聞を求め、さらに観念定座([座して禅定に入ること])の勤めを忘れたようなものでした。何の役にも立たないのに財宝を倉に積み貧窮を助けず、武具を集め士卒の守りとしました。媚をなし近付いて来る者どもには、忠なく賞を申し与えたので、文観僧正の手の者と申して、徒党を組み肘を張る([威張って振る舞う])者が、洛中に充満して、五六百人に及びました。こうして遠くはない参内の時も、輿の前後に数百騎の兵が打ち囲んで、路地を横行([自由気ままに歩きまわること])したので、法衣はたちまち馬蹄の塵に汚れ、律儀([悪や過失に陥ることを防ぐ働きのあるもの。善行のこと])は空しく人口の譏りとなりました。かの廬山(江西省北部の九江の南にある山)の慧遠法師(東晋の僧)は一度風塵([わずらわしい俗世間])境を出て、寂寞の室に座してからというもの、仮りにもこの山を出るまいと誓い、十八賢聖([聖者と賢者。菩薩と、その位に至る前の 仏道修行の人])の蓮社([浄土宗の信者で作る念仏結社])を結んで、長日([長い日数])六時礼讚([浄土教における法要、念仏三昧行のひとつ。中国の僧・ 善導の『往生礼讃』に基づいて一日を六つに分け、誦経、念仏、 礼拝を行う])を勤められました。大梅常和尚(大梅法常。唐代の僧)はあえて世の人が住まない山奥にに茅舎を移して住み、山中の風情を歌に詠み悟りを開きました。心ある人は、皆昔も今も韜光消跡([悟りを開いたものが俗世を離れてひっそりと生活すること])、暮山の雲に誘われ一池の蓮を衣として、心清らかにして修行し生涯を全うするものですが、文観僧正がこうして名利の絆にほだされたのは只事ではありませんでした、どうして天魔外道のその心に依託([他の人にま任せてやってもらうこと])して、振る舞ったのかと思うばかりです。


続く


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by santalab | 2017-04-15 07:26 | 太平記 | Comments(0)

    

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