Santa Lab's Blog


2017年 05月 09日 ( 2 )



「太平記」鎌倉合戦の事(その1)

新田左兵衛さひやうゑすけ・脇屋左衛門さゑもんの佐二人ににんは、わづかに二百余騎に被打成、武蔵のかみに離れぬ、御方の勢どもはいづちへか引きぬらん。浪にも不著礒にも離れたる心地して、皆馬より下りて休まれけるが、「この勢にては上野かうづけへも帰り得まじ。落つて可行方もなし。可打死命なれば、鎌倉へ打ち入つて、足利左馬のかみに逢うて、命を失はばや」とのたまへば、諸人皆この義に同じて、ひたすら討ち死にせんと心ざし、思ひ思ひの母衣ほろ懸けて、鎌倉へとぞおもむかれける。夜半過ぐるほどに関戸せきとを過ぎ給ひけるに、勢のほど五六千騎もあるらんと思えて、西を指して下る勢に行き合ひ給ひて、これは搦め手に廻る勢にてぞあるらん。おさては鎌倉までも不行著して、関戸にてぞ、かばねをば可曝にてありけりと、面々に思ひ定めて一処に馬を懸け寄せ、「これは誰殿たれどのの勢にて御渡り候ふぞ」と問はれければ、「これは石堂入道・三浦の介、新田殿へ御まゐり候ふなり」とぞ答へける。義興よしおき義治よしはる手を拍つて、こはいかにと悦び給ふ事無限。ただ魯陽ろやう朽骨きうこつたび連なつて韓搆かんこうと戦を致せし時、日を三舎に返しし悦びも、これには過ぎじとぞ思えける。




新田左兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)・脇屋左衛門佐(新田義貞の弟、脇屋義助の子、脇屋義治よしはる)二人は、わずか二百余騎に打ち成され、武蔵守(新田義宗よしむね。新田義貞の三男)とも離れてしまいました。味方の勢どもはどちらに引き退いたのか。浪にも付かず礒にも離れ漂う心地がして、皆馬より下りて休んでいましたが、「この勢では上野(ほぼ現群馬県)には戻れまい。落ちて行く所もない。討ち死にを覚悟した命ならば、鎌倉へ打ち入って、足利左馬頭(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)と討ち合って、命を失うべき」と申せば、諸人は皆この義に同じて、ひたすら討ち死にせんと心ざし、思い思いの母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具。兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの])を懸けて、鎌倉へと赴きました。夜半を過ぎるほどに関戸(現東京都多摩市)を過ぎる時、勢のほど五六千騎もあると思えて、西を指して下る勢に行き合いました、これは搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])に廻る勢に違いない。こうなっては鎌倉までも行き着かずして、関戸で、屍を晒すことになるであろうと、面々に覚悟を決めて一所に馬を駆け寄せ、「これは誰殿の勢であられるか」と訊ねると、「これは石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介が、新田殿(新田義興)の許に参るところでございます」と答えました。義興・(脇屋)義治は手を拍って、これはなんということかと限りなくよろこびました。これはただ魯陽(中国戦国時代の楚の人)が朽骨([朽ちた骨])を再び繋げて韓搆で戦を致した時、日を三舎([古代中国の天文学で、三星宿の距離])戻した(『魯陽のほこ』)よろこびも、これには過ぎないと思われました。


続く


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by santalab | 2017-05-09 08:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その12)

既に庭上に舁き据ゑたる輿のすだれを掲げて乗らんとし給ひける時、定平さだひら朝臣長年ながとしに向かつて、「早や」と被云けるを、「殺し奉れ」とのことばぞと心得て、長年、大納言に走り懸かつてびんの髪を掴んでうつぶしに引き伏せ、腰の刀を抜いて御首を掻き落としけり。しもとしてかみをかさんとくはだつる罰のほどこそ恐ろしけれ。北の方はこれを見給ひて、不覚あつとをめいて、透垣すいがきの中にたふれ伏し給ふ。このままやがて絶え入り給ひぬと見へければ、女房にようばうたち車に扶け乗せ奉て、泣く泣くまた北山殿へかへし入れ奉る。さしも堂上だうじやう堂下だうか雲の如くなりし青侍官女せいしくわんぢよ、いづちへか落ち行きけん。人一人も不見成つて、翠簾几帳すゐれんきちやう皆被引落たり。常の御方を見給へば、月の夜・雪のあした、興に触れて読み棄て給へる短冊たんじやくどもの、ここかしこに散り乱れたるも、今は亡き人の忘れ形見と成つて、そぞろに泪を被催給ふ。




庭上に舁き据えた輿の簾を上げて乗ろうとした時、定平朝臣(中院定平)が長年(名和長年)に向かって、「早くしろ」と申しましたが、「殺せ」との言葉と心得て、長年は、大納言(西園寺公宗きんむね)に走り懸かると鬢([耳ぎわの髪。また、頭髪の左右側面の部分])の髪を掴んでうつ伏せに引き伏せ、腰の刀を抜いて首を掻き落としました。下(臣)として上(天皇)を害そうと企てた罰の報いは恐ろしいものでした。北の方はこれを見て、思わずあっと叫んで、透垣([板または竹で、間を透かして作った垣根])の中に倒れ込みました。このままたちまち絶え入るように見えたので、女房たちが車に助け乗せて、泣く泣くまた北山殿([京都北山の衣笠山山麓に西園寺公経きんつねが建てた別荘])に帰りました。堂上堂下に雲の如くいた青侍官女は、どこに落ち失せたのか。人一人も見えず、翠簾([緑色のすだれ。青竹のすだれ])几帳([寝殿造りに用いた室内調度の一。室内に立てて間仕切りとし、また座のわきに立てて隔てとした])は皆引き落とされていました。常の方(居間)を見れば、月の夜・雪の朝、興に触れて読み棄てた短冊が、ここかしこに散り乱れ、今は亡き人の忘れ形見となって、思わず涙を誘いました。


続く


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by santalab | 2017-05-09 07:24 | 太平記 | Comments(0)

    

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