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カテゴリ:神皇正統記( 35 )



神皇正統記



神武天皇
安寧天皇懿徳天皇孝昭天皇


鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
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by santalab | 2014-01-29 08:59 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」天(孝昭天皇)

第五代、孝昭かうせう天皇は懿徳いとく天皇第一の子。御母天豊津媛あまとよつひめ息石耳命おきしみみのみことの娘なり。父の天皇隠れまして一年ひととせありて、丙寅ひのえとらの年即位。大和の掖上池心宮わきがみのいけこころのみやにまします。


天下を治め給ふこと八十三年。百十四歳おはしましき。




第五代、孝昭天皇は懿徳天皇(第四代天皇)の第一皇子でした。母は皇太后宮天豊津媛(天豊津媛命)、息石耳命おきそみみのみことの娘でした。父である懿徳天皇がお隠れになられて一年あって、丙寅の年(B.C.475)に即位されました。大和国の掖上池心宮(現奈良県御所市?)を都とされました。


世を治められること八十三年。百十四歳でお隠れになられました。


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by santalab | 2014-01-29 08:56 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」天(懿徳天皇)

第四代、懿徳いとく天皇は安寧あんねい第二の子。御母渟名底中媛ぬなそこなかつひめ事代主ことしろぬしの神の孫なり。辛卯かのとうの年即位。大和の軽曲峡かるのまがりおの宮にまします。


天下を治め給ふこと三十四年。七十七歳おはしましましき。




第四代、懿徳天皇は安寧天皇(第三代天皇)の第二皇子でした(第三皇子?)。母は安寧天皇皇后渟名底中媛(渟名底仲媛命)、事代主神の孫でした。辛卯の年(B.C.510)に即位されました。大和国の軽曲峡宮(現奈良県橿原市?)を都とされました。


世を治められること三十四年。七十七歳でお隠れになられました。


続く


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by santalab | 2014-01-29 08:37 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」天(安寧天皇)

第三代、安寧あんねい天皇は綏靖すいぜい第二の子。御母五十鈴依姫いすずよりひめ事代主ことしろぬしの神の弟娘おとむすめなり。癸丑みづのとうしの年即位。大和の片塩浮孔かたしほのうくあなの宮にまします。


天下を治め給ふこと三十八年。五十七歳おましましき。




第三代、安寧天皇は綏靖天皇(第二代天皇)の第二皇子でした。母は皇太后宮五十鈴依姫(五十鈴依媛命)、事代主の神の弟娘([長女に対し、それより下の娘])でした。癸丑の年(B.C.548)に即位されました。大和国片塩浮孔宮を都とされました。


天下を治められること三十八年。五十七歳でお隠れになられました。


続く


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by santalab | 2014-01-28 13:00 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」天(神武天皇その1)

人皇にんわう第一代、神日本磐余彦天皇かむやまといはれひこのすめらみことまうす。後に神武じんむと名付け奉る。地神鸕鶿草葺不合尊うがやふきあへずのみことの第四の子。御母玉依姫たまよりひめ海神小童うみのかみわたつみの第二の娘なり。伊弉諾尊いざなぎのみことには六世、大日孁尊おほひるめのみことには五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申すは神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、唐土もろこしことばによりて定め奉る御名なり。またこの御代より代ごとに宮所を遷されしかば、その所を名付けて御名とす。この天皇を橿原かしはらの宮と申す、これなり。




人皇の第一代を、神日本磐余彦尊と申します。後に神武天皇と名付けられました。地神彦波瀲武鸕鶿草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあへずのみことの第四皇子でした。母は玉依姫命で、綿津見大神(海神)の次女でした。伊弉諾命の六世、大日孁尊(天照大神)の五世の天孫でした。神日本磐余彦と申すのは神代からのやまとことばです。神武は中古になって、唐土(中国)の言葉になってから定められた名です。また神武天皇の御代より代ごとに宮所(都)を遷されたので、その所を名をしました。神武天皇を橿原宮と申すのは、これによってなのです(都は畝傍橿原宮うねびのかしはらのみや、現奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮とされる)。


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by santalab | 2014-01-27 23:15 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」人( 後鳥羽天皇の3)

三種の神器の事は所々にまをし侍りしかども、先づ内侍所は神鏡なり。八咫鏡やたのかがみと申す。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神すじん天皇の御代に鋳替へられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳てんとく年中に火事に遭ひ給ふ。それまで円規ゑんき欠けましまさず。後朱雀の御時、長久ちやうきう年中に重ねて火ありしに、灰燼くわいじんの中より光を差させ給ひけるを、をさめて崇め奉られける。されど正体はつつがなくて万代ばんだいの宗廟にまします。宝剣も正体は天叢雲剣あまのむらくものつるぎ〈後には草薙くさなぎと云ふ〉と申すは、熱田の神宮に祝ひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代に同じく作り替へられし剣なり。失せぬることは末世のしるしやと恨めしけれど、熱田の神あらたなる御事なり。昔新羅しらぎの国より道行だうぎやうと云ふ法師、来たりて盗み奉りしかど、神変じんぺんあらはして我が国を出で給はず。かの両種は正体昔に替はりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。失せにし宝剣はもとより如在じよさいのこととぞ申し侍るべき。




三種の神器のことは所々に記してきましたが、まず内侍所は神鏡です。八咫鏡と呼ばれています。正体([神体])は皇太神宮(伊勢神宮内宮ないくう)に祀られております。内侍所と申しますのは崇神天皇(第十代天皇)の御代に鋳替えられた鏡です。村上院(第六十二代天皇)の御時、天徳年中(天徳四年(960))に火事に遭ひ給ふ。それまで円規([丸いもの])のまま欠けることはいありませんでした。後朱雀院(第六十九代天皇)の御時、長久年中(長久元年(1040))に重ねて火事がありましたが、灰燼([灰と燃えがら])の中より光を放つのを、しるしの箱に納めて崇めるようになりました。されど正体は平穏無事で万代の宗廟(伊勢神宮内宮)に鎮座しておられます。宝剣も正体は天叢雲剣〈後には草薙剣と呼ばれます〉と申すのは、熱田神宮(現愛知県名古屋市にある神社)に祀られております。西海に沈んだのは崇神天皇(第十代天皇)の御代に同じく作り替えられた剣です。なくなったことは末世の兆候と残念でしたが、熱田の神(天叢雲剣)の霊験あらたかな明かしでもありました。昔新羅国より道行(飛鳥時代の僧)という法師が、渡来して宝剣を盗みましたが、神変([人知でははかり知ることのできない、不可思議な変異])を顕して我が国から出ることはありませんでした。この二つの正体は昔から替わってはおりません。代々の天皇の古くからのお守りとして国土を余すところなく照らす光となりました。なくなった宝剣は如在([いい加減にすること])に扱ったからだといわれています。


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by santalab | 2013-12-21 11:23 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」人( 後鳥羽天皇の2)

還幸あるべき由院宣ゐんぜんありけれど、平氏承引しよういんまをさず。よりて太政法皇のみことのりにてこの天皇立たせ給ひぬ。親王の宣旨までもなし。先づ皇太子とし、すなはち受禅の儀あり。次の年甲辰きのえたつに当たる四月うづきに改元、七月ふみづきに即位。この同胞ごうはうに高倉の第三の御子ましましかども、法皇この君を選び給ひけるとぞ。先帝せんだい三種の神器を相具あひぐさせ給ひし故に践祚せんその初めの違例ゐれいに侍りしかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神明らかにまぼり給ふことなれば、天位つつがましまさず。平氏亡びて後、内侍所ないしどころ神璽しんじかへり入らせ給ふ。宝剣はつひに海にしづみて見えず。その頃ほひは御座ござ御剣ぎよけんを宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告げにて宝剣を奉らせ給ひしによりて近頃までの御まぼりなりき。




都に戻られるよう院宣が下されましたが、平家は 承諾しませんでした。このために太政法皇(第七十七代後白河院)の詔により後鳥羽天皇が定位に立たれました。親王の宣旨もありませんでした。まず(第八十一代安徳天皇の)皇太子とし、すぐに受禅([先帝から 帝位を譲られて即位すること])の儀が執り行われました。翌年次の年甲辰に当たる四月に改元(元暦げんりやく元年(1184)=寿永じゆえい三年)、七月に即位されました。後鳥羽天皇の兄弟に高倉院(第八十代天皇)の第三皇子がおられましたが、後白河法皇はこの君(第四皇子)を選ばれたということです。先帝(安徳天皇)が三種の神器を持たれていたために三種の神器なくして践祚([天子の位を受け継ぐこと])された初めての違例でしたが、後白河法皇が国の本主([正式の所有者])でしたので正統な譲位でした。皇太神宮(伊勢神宮内宮ないくう)・熱田(現愛知県名古屋市にある熱田神宮)の神明([神])が守られておられることであれば、天位は泰平でした。平氏が亡びた後、内侍所([八咫鏡やたのかがみ])・神璽([八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])は戻りました。宝剣([天叢雲剣あまのむらくものつるぎ])は終に海に沈んで見つかりませんでした。その頃は昼の御座([清涼殿の中で、天皇の昼間の座所])の御剣を宝剣としていましたが、神宮(熱田神宮)のお告げにより宝剣を献上されたので近頃まで守ることになりました(ちなみに熱田神宮には今も天叢雲剣=草薙剣が祀られているそうですが)。


続く


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by santalab | 2013-12-20 08:43 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」人( 後鳥羽天皇の1)

第八十二代、第四十四世、後鳥羽の院。いみな尊成たかひら、高倉第四の子。御母七条の院、藤原の殖子しよくし〈先代の母儀おほくは后宮こうぐうならぬは贈后なり。院号ありしはみな先づ立后の後の定めなり。この七条院立后なくて院号の初めなり。ただし先づ准后のみことのりあり〉、入道修理しゆりの大夫信隆のぶたかの娘なり。先帝せんだいに臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりければ、都は変はらず。摂政基通もとみち大臣おとどぞ、平氏の縁にて供奉ぐぶせられしかど、諌め申すともがらありけるにや、九条の大路おほぢほとりより留まられぬ。その外平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。




第八十二代天皇は、第四十四世、後鳥羽院です。諱を尊成と申し、高倉院(第八十代天皇)の第四皇子でした。母は七条院、藤原殖子たねこでした〈先代の母の多くは后宮そうでなくは贈后がありました。院号が下されるのは皆先ず立后の後と定められていました。この七条院は立后なく院号を下された最初です。ただしまず准后の勅がありました〉、入道修理大夫信隆(藤原信隆)の娘でした。先帝(第八十一代安徳天皇)は都をお出になられましたが、祖父である後白河法皇(第七十七代天皇)の世でしたので、都はそのまま変わることはありませんでした。摂政基通大臣(近衛基通)は、平氏の縁(基通の正室は清盛の娘平完子さだこでした)により安徳天皇に供奉しましたが、諌める者があったのか、九条大路のほとりで留まりました。そのほかに平家の親族でない人々で供をする人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2013-12-20 08:41 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」人(安徳天皇の2)

いくほどなく、清盛隠れて次男宗盛むねもりその跡を継ぎぬ。世の乱れもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にも及ばざりけるにや、威望もいつしか衰へ、東国の軍すでにこはくなつて、平氏の軍所々で利を失ひけるとぞ。法皇忍びて比叡山に上らせ給ふ。平氏力を落とし、主上を勧め申して西海に没落す。中三年みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室従二位平時子ときこと云ひしこの君を抱き奉りて、神璽しんじを懐にし、宝剣を腰に挟み、海中に入りぬ。浅ましかりし乱世なり。


天下を治め給ふこと三年。八歳おましましき。遺詔ゆいぜう等の沙汰なければ、天皇と称し申すなり。




いくほどもなく、清盛(平清盛)は亡くなり次男宗盛(平宗盛。宗盛は三男)が跡を継ぎました。世の乱れにも関わりなく、宗盛は内大臣に任じられました。天性は父(清盛)にも兄(平重盛しげもり。清盛の嫡男)にも及ばなかったのか、平家の威望([威光と人望])もいつの間にか衰え、東国の軍はすでに強くなって、平家の戦は所々で敗れました。後白河法皇(第七十七代天皇)は忍んで比叡山に上られました。平家は力を落とし、主上(第八十一代安徳天皇)をお連れして西海に移りました。中三年ばかりあって、平家は残らず滅亡しました。清盛の後室で従二位平時子という人が安徳天皇を抱いて、神璽([ 八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])を懐に入れ、宝剣([天叢雲剣あまのむらくものつるぎ])を腰に挟み、海中に入りました。悲しいのは乱世でした。


安徳天皇が天下を治められたのは三年間でした。八歳でお隠れになられました。天下を治め給ふこと三年。八歳おましましき。遺詔([天子の遺言])などもありませんでしたので、天皇とお呼びします。


続く


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by santalab | 2013-12-18 19:41 | 神皇正統記 | Comments(0)


「神皇正統記」人(安徳天皇の1)

第八十一代、安徳あんとく天皇。いみな言仁ことひと、高倉第一の子。御母中宮平の徳子とくこ建礼門院けんれいもんゐんと申す〉、太政大臣清盛の娘なり。庚子かのえねの年即位、辛丑かのとうしに改元。法皇なほ世をらせ給ふ。平氏はいよいよ奢りをなし、諸国はすでに乱れぬ。都をさへ遷すべしとて摂津の国福原とて清盛住む所のありしに行幸せさせ申しける。法皇・上皇も同じく移し奉る。人の恨みおほく聞こえけれにやかへし奉る。




第八十一代天皇は安徳天皇です。諱を言仁と申し、高倉院(第八十代天皇)の第一皇子でした。母は高倉院中宮平徳子〈建礼門院と申されます〉、太政大臣平清盛の娘でした。庚子の年(治承ぢしよう四年(1180))即位、辛丑に改元がありました(養和やうわ元年(1181))。後白河法皇(第七十七代天皇)がなお世を治められました。平家はますます権威を振るい、諸国は乱れました。都を遷すべきと摂津国の福原(現兵庫県神戸市兵庫区)に清盛が住む所がありましたので、安徳天皇をそこに移されました。後白河法皇・高倉上皇も移されました。人の不満が多く聞こえたのか還都しました。


続く


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by santalab | 2013-12-17 20:38 | 神皇正統記 | Comments(0)

    

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