Santa Lab's Blog


カテゴリ:平治物語( 169 )



平治物語

信頼・信西不快の事
信頼信西を亡ぼさるる議の事
三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事
信西の子息欠官の事付けたり除目の事並びに悪源太上洛の事
信西出家の由来並びに南都落ちの事付けたり最後の事
信西の首実検の事付けたり大路を渡し獄門にかけらるる事
唐僧来朝の事
叡山物語の事
六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事
光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上着の事
信西の子息遠流に宥めらるる事
院の御所仁和寺に御幸の事
主上六波羅へ行幸の事
源氏勢汰への事

待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事
義朝六波羅に寄せらるる事並びに頼政心替りの事付けたり漢楚戦ひの事
六波羅合戦の事
義朝敗北の事
信頼降参の事並びに最後の事
官軍除目行はるる事付けたり謀反入賞職を止めらるる事
常盤注進並びに信西子息各遠流に処せらるる事
義朝青墓に落ち着く事
義朝野間下向の事付けたり忠宗心替りの事
頼朝青墓に下着の事

金王丸尾張より馳せ上る事
長田、義朝を討ち六波羅に馳せ参る事付けたり大路渡して獄門にかけらるる事
忠宗尾州に逃げ下る事
悪源太誅せらるる事
清盛出家の事並びに滝詣で付けたり悪源太雷電となる事
頼朝生捕らるる事付けたり常盤落ちらるる事
頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事
常盤六波羅に参る事
経宗・惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事
頼朝遠流の事付けたり盛安夢合せの事
牛若奥州下りの事
頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事
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by santalab | 2014-02-21 09:49 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その11)

さても清盛公、兵衛すけを助けかれし時、よもただ今富家をくつがへさん人とは思ひ給はじ。同じく九郎判官の二歳にて、母の懐にいだかれけるを、我が子孫を滅ぼすべきあたと思ひなば、いかでか宥め給ふべき。これしかしながら、八幡大菩薩、伊勢大神宮の御計らひとぞ思ゆる。趙の孤児は袴の中に隠れて泣かず、秦の遺孫は壷の内に養はれて、人となると申せば、人の子孫の絶へまじきには、かかる不思議もありけるなり。義朝よしともは、鳥羽院の御宇、保安ほうあん四年癸卯みづのとうの年生まれ、三十四歳にして、保元ほうげん元年に忠節をいたし、勲功をかうぶり、朝恩に浴しける。今度の謀反に組みして身を滅ぼしき。しかれどもまた頼朝・義経二人の子あつて、兵衛佐三十四、判官二十二歳にして、治承ぢしよう四年に義兵を挙げ、会稽くわいけいの恥を清め、再び家を栄やかし給へり。頼朝は、近衛院久安きうあん三年丁卯ひのとうの年誕生す。義経は二条院平治へいぢ元年巳卯みうの年まれたれば、三人ともに、ひとへに閉の年の人なり。中にも頼朝、平家を滅ぼし、天下を治めて、文治の始め、諸国に守護を据へ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して、武士のともがらを諫め、廃れたる家を起こし、絶へたる跡を継ぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣を蒙れり。卯はこれ東方三支の中の正方として、仲春を司る。柳は卯の木なり。三春の陽気を得て、天道恵みの眉を開き、営み繁く栄ふれば、柳営りうえいの職には、卯の年の人は、げに頼りありける者かな。




それにしても清盛公(平清盛)は、兵衛佐(源頼朝)を助け置いた時、まさか後に富家(平家)を転覆させる者とは思っていなかったでしょう。同じく九郎判官(源義経。頼朝の弟)は二歳で、母(常盤御前)の懐に抱かれていましたが、平家の子孫を滅ぼす敵と思っていたならば、どうして寛大な処置を取ったことでしょうか。しかしこれは、八幡大菩薩(石清水八幡宮の氏神。神ではあるが菩薩なのです。八幡大菩薩は源氏の氏神です。ちなみに徳川家の氏神も八幡大菩薩)・伊勢大神宮(伊勢神宮。内宮の氏神は天皇家の祖といわれる天照大御神)の思し召しでしょう。趙の孤児(趙氏孤児は元代(1271~1368)の戯曲ですが、晋代(265~316)の話ですので、元となった実話があったのでしょう。この孤児は大人になって仇討ちします)は袴の中に隠れて泣かず、秦の遺孫は壺の中で養われて、大人になったといいますから、子孫が絶えなければ、このような不思議なことも起こるのです。義朝(源義朝)は、鳥羽天皇の御時、保安四年(1123)癸卯の年生まれ、三十四歳で、保元元年(1156)に忠節を尽くし(保元の乱)、後白河天皇より褒美を賜り、朝恩に与かりました。今度の謀反(平治の乱)に加わって身を滅ぼしました。けれども義朝には頼朝(次男)・義経(九男)の二人の子があって、兵衛佐(頼朝)が三十四歳、判官(義経)が二十二歳の時、治承四年(1180)に挙兵し、会稽の恥(「史記」に「春秋時代、越王勾践こうせんが呉王夫差ふさと戦って、会稽山で囲まれ、負けて辱めを受けたという」故事から、[敗戦の恥辱])を晴らし、再び一家を繁栄させました。頼朝は近衛天皇の御時久安三年(1147)丁卯の年に誕生しました。義経は二条天皇の御時平治元年(1159)巳卯の年に生まれました、三人とも、すべて閉の年(十二ちよくは、暦占いの一つで、建・除・満・平・定・執・破・危・成・収・開・閉の十二種類)の者でした。中でも頼朝は、平家を滅ぼし、天下を治めて、文治元年(1185)に、諸国に守護([御家人]=[将軍直属の武士])を置き、あらゆる庄園、郷保に地頭([土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ者])を設置して、武士たちを戒め(頼朝が全国に守護・地頭を設置したのは、勢力を拡大し、後白河院に対抗するためだったそうな。これを進言したのは、頼朝の側近であった大江広元ひろもとだったらしい)、廃れた家系を復活させ、絶えた跡を継いで(頼朝は義朝よしともの嫡男ではなく次男でした)、武家の棟梁([一族・一門の統率者])となり征夷大将軍の院宣を賜りました。卯([東])は東方三支([北東・東・南東])の中心として、仲春([陰暦二月の異称])を支配します。柳(ヤナギ科)は卯([陰暦二月の異称])の木です。三春([春季の三カ月間]、[初春・仲春・晩春]=[旧暦一月・二月・三月])の陽気を得て、自然は恵みの眉を開き([眉を開く]=[心配事がなくなり安心すること])、勢いよく成長し生い茂ります、柳営([将軍])の職には、卯年の者は、本当に適任だということかもしれません。


(終)


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by santalab | 2013-12-17 20:04 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その10)

その京上りの度、盛安もりやすを召して、様々の重宝を賜はり、「いかに今まで下らざりけるぞ。大庄をもびたけれども、折節関所なし。しかるべき所あらば、賜ふべし」とぞのたまける。「まことに、今まで参ぜざる条、私ならぬ儀とは申しながら、不義の到り、並びに微運の至極なり」とぞ盛安も申しける。建久けんきう三年三月十三日、後白河院崩御なりしかば、やがて盛安鎌倉へぞ参りける。頼朝対面し給ひて、「最前も下向したりせば、しかるべき所をもばんずるに、今までの遅参こそ力なき次第なれ。小所なれども、先づ馬飼へ」とて、多喜の庄年分をぞ賜ひける。由緒の由申しけるにや。美濃国上の中村と言ふ所をも、同じく賜ひてんげり。建久九年十二月に、貢馬くめの継ぎに、「明年正月十五日過ぎは、急ぎ下るべし。多喜の庄をば、一円に賜はるべし」と仰せ遣はされけるに、明くる正治しやうぢ元年正月十三日、鎌倉殿、御歳五十三にて失せ給ひけり。源五これをも知らず、十六日に京を立つて馳せ下るほどに、三河国にて、早やこの事を聞きしかども、わざとも下るべき身なれば、鎌倉に下着して、身の不運なる由語りけるほどに、昔の夢想の不思議など申しければ、斎院次官親能ちかよし「その鮑の尾をそく太だに見たらば、なほめでたからまし。賜ひて懐中せしばかりなればにや、残るところある」とぞ申されける。




頼朝が京に上った時、盛安(源盛安)を呼んで、様々な重宝を与え、「どうして今まで下ってこなかったのだ。大庄を与えたいが、ちょうどよい場所がないのだ。都合のよい場所が見つかったら、与えよう」と言いました。「まことに、今まで参らなかったことは、いかんともし難いこととは申しながら、不義([として守るべき道にはずれること])の到り、ならびに微運([運命に恵まれないこと])のためです」と盛安も答えました。建久三年(1192)三月十三日に、後白河院が崩御されて、すぐに盛安は鎌倉に参りました。頼朝(源頼朝)は対面して、「早くやって来たならば、見合う場所を与えられたのだが、今までの遅参とはわしの力不足であったか。小所だが、馬でも飼えばよかろう」と言って、多喜庄(今の兵庫県篠山市あたりでしょうか)の年分([年貢])を与えました。今までの功績を労うためでした。美濃国上の中村(今の岐阜県岐阜市か)という所も、同じく与えました。建久九年(1198)十二月に、貢馬([馬を献上すること])のついでに、「明年正月十五日を過ぎたら、急ぎ下れ。多喜庄を、すべて与えるぞ」と言われましたが、明くる正治元年(1199)正月十三日に、鎌倉殿(頼朝)は、五十三歳で亡くなりました。源五(盛安)はこれを知らず、十六日に京を立って急ぎ下りましたが、三河国(今の愛知県東部)で、頼朝が亡くなったことを聞きました、わざわざ出かけたことなので、盛安は鎌倉に着いて、不運であることを話して、昔の夢の不思議なども申すと、斎院次官親能(中原親能)は「その鮑の尾が太いものならば、いっそうめでたいものだったに違いない。それを頼朝殿からいただいて懐に入れたのならば、頼朝殿の申した通り庄も残っていただろうが」と言いました。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:56 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その9)

この太刀に付きて数多あまたの説あり。頼朝の卿、関が原にて捕らはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手に渡つて、院へ参りけりと云々。またある説には、今のはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は以前より青墓あふはか大炊おほいが許より参らせけるなり。そのゆへは、兵衛すけ、大炊にあづけられけるを、頼朝囚人となり給ひし時、この太刀を尋ねられけるに、今は隠しても何かせんとや思はれけん、ありのままに申されけり。すなはち大炊が許へ尋られけるに、「源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそ斬られ給ふとも、義朝よしともの君達おほければ、よも跡は絶え給はじ。先づ隠して見んと思ひければ、泉水とて、同じほどなる太刀ありけるを、抜き替へて参らする。髭切は、柄鞘つかさや円作りなり。定めて佐殿に見せ参らせらるべし。佐殿、童と一つ心になりて、子細なしとのたまはば、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にてさぶらへば、取違へ候ひけりと申さんに、苦しからじ」と思案して、泉水を上せけるなり。難波六郎経家つねいへ、受け取つて上りけるを、やがて頼朝に見せ奉りて、「これか」と問はれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなる由をぞ申されける。清盛大きに喜びて、秘蔵せられけるを、院へ召されけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方より参らせけると云々。




この太刀(髭切)には多くの説がありました。頼朝卿(源頼朝)が、関が原(今の岐阜県不破郡関ケ原町)で捕らわれた時に、身に着けていましたが、清盛の手に渡って、院御所に参ったとも言われています。またある説では、それは本当の髭切ではないということです。本当の髭切は以前より青墓(かつて岐阜県不破郡にあった青墓村)の大炊の許より持って参ったものです。その訳は、兵衛佐(頼朝)は、大炊に髭切を預けましたが、頼朝が囚人になった時、この太刀の行方を訊ねられたので、今は隠しても仕方ないと思って、ありのままに申したということです。すぐに大炊の許へ訪ねると、「源氏の重代([先祖伝来の宝物])を、平家方に渡すのは悲しいことだ。兵衛佐が斬られることになっても、義朝(源義朝。頼朝の父)の子は多ければ、源氏の後継ぎが絶えることはないであろう。とりあえず隠しておこうと思って、泉水という、同じような太刀があったので、抜き替えて院に持って参ったのです。髭切は、柄鞘は円作り([鞘・柄とも断面が楕円形になるように作ったもの])でした。きっと頼朝に確認させることでしょう。頼朝が、童(使いの者)に心通じて、問題ありませんと言えば、何も心配ありません。もしこれではないと言えば、女が、取り違えましたと申したところで、具合が悪いということもない」と思案して、泉水を京に届けたのです。難波六郎経家(難波経家)が、受け取って京に上りましたが、すぐに頼朝に見せて、「これが髭切か」と問いました、頼朝はこの太刀ではないと思いましたが、長者(大炊)の心を推し量って、そうですと答えました。清盛はたいそう喜んで、秘蔵していましたが、後白河院に差し上げました。本当の髭切は、先年大炊が院御所に持って参ったということです。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:45 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その8)

入洛ありしかば、すなはち院参し給ひたるに、法皇も往事思し召し出でて、ことあはれげにこそ見えさせおはしましけれ。髭切ひげきりと言ふ太刀、清盛がもとにありしを、御守りのためとて、院に召しかれたりしを、今度頼朝に賜はりけり。青地の錦の袋に入れられたり。三度拝して賜はりけるとなん。




頼朝(源頼朝)は京に着いて、すぐに院御所に参りましたが、後白河院も昔を思い起こして、殊さら懐かしげに見ておりました。髭切という太刀(元は源氏重代の宝刀)は、清盛の許にありましたが、お守りのためと、後白河院に差し上げたものを、今度は頼朝に与えました。青地の錦の袋に入っていました。頼朝は三度礼拝して賜わりました。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:36 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その7)

九郎判官は、梶原平三が讒言によつて、都の住居難儀なりしかば、また奥州に下り、秀衡ひでひらを頼みて過ごされけるが、秀衡一期の後、鎌倉殿より泰衡やすひらをすかして判官を討たせ、後に泰衡をも亡ぼされけるこそ恐ろしけれ。かくて日本国残る所なく討ち従へ給ふて、建久けんきう元年十一月七日、始めて京上りせられけるに、近江国千の松原と言ふ所に着かせ給ひ、浅井の北郡の老翁を尋らるるに、二人の老者をて参る。土瓶二つを持参せり。「あれはいかに」と問ひ給へば、「君の昔聞こし召されしにごり酒なり」と申せば、「まことにさる事あり」とて、三度かたぶけて、「汝、子はなきか」と仰せければ、「候ふ」とて奉る。すなはち召し具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清常きよつねとて、近習の者にてありけるなり。さて、「この翁に引出物せよ」と仰せありしかば、白鞍きたる馬二匹、色々の重宝入れたる長持二合ぞうだりける。また昔の鵜飼ひを召し出だして、小平をやがて賜ひてけり。




九郎判官(源義経)は、梶原平三(梶原景時かげとき)の讒言によって、都(鎌倉)で住むことが難しくなったので、また奥州に下って、秀衡(藤原秀衡)を頼って過ごしていましたが、秀衡が亡くなった後、鎌倉殿(源頼朝。清盛の兄)は泰衡(藤原泰衡。秀衡の嫡男)をなだめすかして判官(義経)を討たせ、後に泰衡も亡ぼしたことは恐ろしいことでした。こうして頼朝は日本国残る所なく討ち従えて、建久元年(1190)十一月七日に、はじめて京に上りましたが、近江国の千の松原(今の滋賀県彦根市)という所に着いて、浅井の北郡(今の滋賀県長浜市)の老翁を探させると、二人の老者を連れて来ました。土瓶を二つ持ってきました。頼朝が、「あれは何か」と聞くと、老者は、「君(頼朝)が昔お聞きになったにごり酒でございます」と申したので、頼朝は、「そんなことがあったな」と言って、三度杯を傾けて、「お主よ、子はいないのか」と言うと、老者は、「おります」と言って頼朝に差し出しました。頼朝はすぐに家来にしましたが、足立の子にして、足立新三郎清常(足立清常)といい、近習([主君のそば近くに仕える役])の者になりました。頼朝は、「この翁に引出物を与えよ」と言ったので、白鞍([鞍の前輪まへわ後輪しづわの表面を銀で張り包んだもの])を置いた馬を二匹、様々な重宝を入れた長持([箱])を二つ与えました。また昔会った鵜飼いを呼び出して、小平(今の滋賀県栗東市小平井あたり?)を与えました。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:32 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その6)

ここに池殿の侍、丹波藤三国弘くにひろと名乗つて、鎌倉へ参りたりしかば、「我も尋ねたく思ひつれども、公私の怱劇そうげきに思ひ忘れ、今も無沙汰なり」とて、すなはち対面し、「ただ今納め殿にあらん物、皆取り出でよ」と下知し給ひければ、金銀・絹布色々の物どもを、山の如くに積み上げたり。「これは先時にとつての引出物、訴訟はなきか」と問ひ給へば、丹波国細野と申す所は、相伝の私領にて侍る由申せば、やがて御下し文給ひてんげり。財宝をみ継ぎにをくれとて、都までぞ持ち贈りける。その時、かかる運を開くべき人とは思はざりしかども、あまりに痛はしくて、情けありて奉行しけるゆへなり。兵衛すけのたまひけるは、「首は故池殿に継がれ奉る。その報謝には、大納言殿を世にあらせ申し侍り。もとどり纐纈かうけち源五に継がれたり。ただし盛安もりやすは、双六の上手にて、院中の御局の双六に常に召され、院も御覧ぜらるるなれば、君の召し使はせ給はん者をば、いかでか呼び下すべきと思ひて、斟酌しんしやくするなり」と語り給へば、この由源五に告げたりしかども、天性双六に過きたるうへ、院中の参入を思ひ出とや存じけん、つゐに鎌倉へは下らざりけり。




ここに池殿(清盛の弟、平頼盛よりもりの母、池禅尼)の侍で、丹波藤三国弘と名乗る者が、鎌倉に参ると、頼朝(源頼朝)は、「わたしもかねがね池殿の者たちに逢いたいと思っていたが、公私の怱劇([非常にあわただしいこと])に失念し、いまだに叶わないままよ」と言って、すぐに対面して、「今納め殿([宮中や貴族の邸宅で、貴重品・衣服・調度などを納めておく所])にある限りの物どもを、全部取り出せ」と命じたので、金銀や絹布など様々な物が、山のように積み上がりました。頼朝は、「これは先時のためにとっておいた引出物だ、訴訟([嘆願すること])はないか」と問うと、国弘は丹波国細野(今の京都府南丹市)という場所は、もともと代々相伝の私領でしたと話したので、頼朝はすぐに下し文([公文書])を与えました。頼朝は財宝をすべて池殿に渡してくれと言って、都まで持たせました。その時まで、これほどの幸運にめぐりあう者とは思えませんでしたが、たいそう大切に、情けをもって池殿に奉公した結果でした。兵衛佐(頼朝)が言うには、「わたしの首が助かったのはひとえに池殿のおかげなのだ。その報謝([恩に報い、徳に感謝すること])として、大納言殿(平頼盛)を助けたのだ。髻は纐纈源五(纐纈盛安もりやす)に引き継がれた(頼盛は、1186年没)。ただ盛安は、双六が上手で、院中の御局([局を与えられた女官])の双六にいつも呼ばれ、院(後白河院)もご覧になられるので、君(後白河院)が召し使われる者を、呼び戻す訳にはいかないと思って、斟酌([遠慮])していたのだ」と語り合ったので、国弘はこれを源五に伝えましたが、生まれつき双六に過ぎる才能もなく、また院中の参入([高貴な人の所を訪問すること])を思い出にしようと思ってか、生涯鎌倉に下ることはありませんでした。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:25 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その4)

甲斐源氏、武田・一条・小笠原・逸見・板垣・加賀美次郎・秋山・浅利・伊澤ら、駿河目代広政ひろまさを討てんげれば、平家の大将、小松権亮少将維盛これもり、その勢五万余騎にて、富士川のはたに陣を取る。頼朝は足柄・箱根をうち越えて、黄瀬きせ川に着き給ふ。その勢二十万騎なり。平家の兵の中に、斎藤別当実盛さねもり、「源氏夜討ちにやし候はむずらん」と申しける夜、富士川の沼に下りける水鳥ども、軍勢に恐れて飛び立ちける羽音に驚きて、矢の一つも射ずして、都へ逃げて上りけり。養和やうわ元年三月に、平家また墨俣すのまたにて支へたり。きやうきみ円成ゑんじやう義円ぎゑんと改名したりけるが、深入りして討たれてんげり。醍醐悪禅師は後に、有職に任せて、駿河阿闍梨と言ひしが、僧綱に転じて、阿野法橋とぞ呼ばれける。寿永じゆえい二年七月二十五日、北陸道を攻め上りける木曽義仲、先づ都へ入ると聞こえしかば、平家は西海に赴き給ふ。されども池殿の公達は皆都に留まり給ふ。そのゆへは、兵衛すけ鎌倉より、「故尼御前を見奉ると存じ候べし」と、度々申されければ、落ちとどまり給ひけり。本領少しも相違なく、安堵せられければ、昔の芳志を報じ給ふとぞ思えし。




甲斐源氏、武田・一条・小笠原・逸見・板垣・加賀美次郎(加賀美遠光とほみつ=源遠光)・秋山・浅利・伊澤たちが、駿河目代広政(橘遠茂とほもち。平家の家人)を討ったので、平家の大将、小松権亮少将維盛(平維盛。清盛の嫡孫で重盛しげもりの嫡男)は、その勢五万騎余りで富士川(長野県・山梨県および静岡県を流れる川)のそばに陣を構えました。頼朝(源頼朝)は、足柄(神奈川・静岡県境にある峠)・箱根を越えて、黄瀬川(今の静岡県を流れる川)に着きました。その勢二十万騎でした。平家の兵の中に、斎藤別当実盛(斎藤実盛)が、「源氏は夜討ちをしかけるかもしれない」と話した夜、富士川の沼に下りていた水鳥が、源氏の軍勢に恐れて飛び立ったその羽音に驚いて、平家は矢の一つも射ないまま、都に逃げてしまいました。養和元年(1181)三月に、平家はまた墨俣(今の岐阜県大垣市)で源氏の軍勢を防ぎました。卿公円成は、義円(源頼朝の弟。清盛の同母兄)と改名していましたが、深入りしすぎて平家に討たれてしまいました。醍醐悪禅師は後に、職を得て、駿河阿闍梨と呼ばれていましたが、僧綱([僧正・僧都・律師と、法印・法眼ほふげん法橋ほふけう])に就いて、阿野法橋(阿野全成ぜんじやう。義円、源義経の同母兄)と呼ばれました。寿永二年(1183)七月二十五日、北陸道を攻め上る木曽義仲が、都に入ると聞こえたので、平家は西海に逃れました。けれども池殿(清盛の弟、平頼盛よりもりの生母、池禅尼)の子孫は皆都に残りました。この訳は、兵衛佐(頼朝)が鎌倉より、「故尼御前(池禅尼)を大切に思っているから安心せよ」と、何度も申していたので、落ち留ったのでした。本領([本心])もまったく違いなく、頼盛たちは安心しました、頼朝は昔の芳志([親切な心づかい])に報いたのでした。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:08 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その5)

さるほどに長田をさだの四郎忠致ただむねは、平家の侍どもにも憎まれしかば、西国へも参らず。かくてはやがて国人どもに討たれんとや思ひけん、父子十騎ばかり羽を垂れて、鎌倉殿へぞ参りける。「いしう参じたり」とて、土肥次郎にあづけられけるが、範頼のりより・義経の二人の舎弟を指し上せられける時、長田父子をも相添へ給ふとて、「身を全うして合戦の忠節をいたせ。毒薬変じて甘露となると言ふ事あれば、勲功あらば、大きなる恩賞を行ふべし」とぞ約束し給ける。しかれば木曽を退治し、平家の城摂州一の谷を攻め落とす。注進の度ごとに、「忠致・景致はいくさするか」と問ひ給ふに、「またなき剛の者にて候ふ。向かふ敵を討ち、当たる所を破らずと言ふ事なし」と申せば、屋島城落ちたりと聞えし時、「今は、しやつ親子に戦せさせそ。討たせんとて」とのたまひけるが、戦果てて土肥に具してかへり参りければ、「今度の振る舞ひ神妙なりと聞く。約束の勧賞取らするぞ。あひ構へて頭殿かうのとのの御孝養よくよく申せ。成綱なりつなに仰せ含めたるぞ」とありしかば、悦びて罷り出でたるを、弥三小次郎し寄せて、長田父子を搦め捕り、八付はつつけにこそせられけれ。八付にもただにはあらず、頭殿の御墓の前に、左右の手足をもつて竿を広がせ、土に板を敷きて、土八付と言ふものにして、なぶり殺しにぞせられける。「平家の方へも落ち行かず、さらば城にも引き籠り、矢の一つをも射ずして、身命を捨てて戦して、欲しからぬ恩賞かな。もつともただ不義のいたすところ、業報の果たす故なり」とぞ人々申しける。また何者かしたりけん、

きらへども 命の程は 壱岐のかみ 美の尾張をば 今ぞ賜はる

かりとりし 鎌田が首の むくひにや かかる憂き目を 今は見るらん

と詠みて、作者に、鎌田政家まさいへと書いたる高札をこそ立たりけれ。これを見る者ごとに、哀れとは言はずして、くちびるをかへして憎まぬ者ぞなかりける。されば武の道に、血気の勇者、仁義の勇者と言ふ事あり。いかにも仁義の勇者を本とす。忠致・景致も、随分血気の勇者にて、抜群の者なりしかども、仁義なきが故に、譜代の主君を討ち奉りて、つゐに我が身を亡ぼしけり。




やがて長田四郎忠致(長田忠致。源頼朝の父義朝よしともを討った)は、平家の侍たちに憎まれていたので、西国にも参りませんでした。こうなってはやがて国人たちに討たれてしまうと思ったのか、父子十騎ばかりで源氏に降伏して、鎌倉に行きました。頼朝(源頼朝)は、「よくぞ参った」と言って、土肥次郎(土肥実平さねひら)に預けました、範頼(源範頼。頼朝の弟、義経の兄)・義経(源義経)の弟を都に上らせた時、頼朝は、長田父子(長田忠致とその子景致かげむね)も連れて行くように言って、「身を尽くして合戦の忠節([主君への忠義をかたく守ろうとする気持ち])せよ。毒薬も甘露([不死を得るという甘い霊液])に変わるという、手柄を立てれば、特段の恩賞([褒美])を与えよう」と約束しました。そういうことで長田父子は木曽(木曽義仲)を討ち、平家の城摂津国一の谷を攻め落としました。注進([報告])の度に、頼朝は、「忠致・景致は手柄を立てておるか」と問いましたが、「めったにいない強い侍です。向かう敵を討ち、当たる所を破らないことはありません」と申したので、屋島城(今の香川県高松市にあった山城)が陥落したと聞こえた時、頼朝は、「もう、やつら親子に戦をさせるな。討たせるな」と言いました、戦が終わって土肥(実平)に連れられて帰って来ると、「今度の活躍は優れていたと聞いたぞ。約束の褒美を取らせよう。よくよく頭殿(頼朝の父、義朝)の孝養([供養])すると申せ。成綱(源成綱)に伝えておく」と言われて、よろこんで出かけて行きましたが、弥三小次郎(成綱)が押し寄せて、長田父子をからめ捕って、八付(はりつけ)にしました。八付も普通ではなく、義朝の墓の前に、左右の手足を棹に広げて括りつけ、土の上に板を敷いて、土八付というものにして、なぶり殺しにされたのでした。「平家と共に落ち行くこともせず、ならば城に籠っておればよいものを、源氏に矢の一つも射ずに、命が惜しいからと戦をして、欲しくもない恩賞をもらったものだ。これもただ不義([人として守るべき道にはずれた行い])をした報い、業報([前世や過去におこなった善悪の行為による報い])の結果だ」と人々は言いました。また何者の仕業か、

忠致は壱岐かみが不満で(忠致は義朝を討った恩賞によって、壱岐守となった)、美濃か尾張の国司になりたかったそうだが、やっと、美濃尾張(身の終わり)を賜わったことよ。

忠致は鎌田(鎌田正清まさきよ。義朝とともに忠致に討たれた)の首を斬った報いで、今こうして憂き目を見ることになったのだろう。

と詠んで、作者に、鎌田政家(正清)と書いた高札を立てました。これを見る人は皆、あわれとは思わなく、悪口を言って憎まない者はいませんでした。武道には、血気の勇者([血気の勇]=[一時の意気に任せて、先のことを考えない勇気])、仁義の勇者という言葉があります。仁義の勇者が本物の勇者です。忠致・景致も、血気の勇者として、優れた者ではありましたが、仁義がないために、譜代([代々])の主君(平家)を討ち、ついに我が身を亡ぼしたのでした。


続く


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by santalab | 2013-12-17 19:06 | 平治物語 | Comments(0)


「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その3)

九郎御曹子は、秀衡ひでひらが許におはしけるが、すけ殿すでに義兵を挙げ給ふと聞こえしかば、打ち立て給ふに、秀衡、紺地の錦の直垂に、紅裾濃くれなゐすそごの鎧、金作りの太刀を添へて奉る。「馬は御用に従つて召さるべし」とぞ申しける。やがて信夫に越え給へば、佐藤三郎は、「公私、取りしたためて参らん」とて留まり、弟の四郎はすなはち御供す。早や白河の関固めてんげれば、那須の湯詣での料とて通り給ひ、兵衛佐殿は、大庭野に十万騎にて、陣取つておはしけるところへ、究竟の兵百騎ばかりにて参り給ふ。佐殿、「何者ぞ」と問ひ給へば、「源九郎義経」と名乗りましませば、「昔八幡殿、後三年の合戦の時、弟の義光よしみつ形部丞にておはしけるが、弦袋を陣の座に留めて、金沢の城へ馳せ下り給ひけるをこそ、『故入道殿の再び生きかへり給ひたるやうに思ゆる』とて、鎧の袖を濡らされけるとこそ承れ」としきりに喜び給ひけり。




九郎御曹子(源義経。源義朝よしともの九男)は、秀衡(藤原秀衡)の許にいましたが、佐殿(源頼朝。義朝の嫡男)がすでに義兵([正義のために起こす兵])を挙げたと聞いて、兵に参じるために出発すると、秀衡は、紺地の錦の直垂に、紅裾濃([下部に従って色濃くしたもの])の鎧、金作り([金または金色の金属で飾ったもの])の太刀を添えて献上しました。「馬は必要なだけお使いください」と言いました。やがて信夫([かつて福島県福島市にあった郡。信夫摺りで有名])を越えると、佐藤三郎(佐藤継信つぐのぶ)が、「公私の兵を集めてから参ります」と言ってそこに留まり、弟の四郎(佐藤忠信ただのぶ)が供をしました。すでに白河の関([かつて今の福島県白河市にあった関所])は警固されていたので、那須の湯(今の那須温泉。栃木県那須郡にあります)に参るのだといって通り抜け、兵衛佐殿(頼朝)が、大庭野(今の神奈川県藤沢市大庭)に十万騎で、陣を構えているところへ、究竟([最高])の兵百騎ばかりで参りました。頼朝が、「何者だ」と問うと、義経は、「源九郎義経」と名乗りました、「昔八幡殿(源義家よしいへ。頼朝の高曾祖父)が、後三年の合戦の時、弟の義光(源義光)は形部輔(義光が形部丞になったのは、その後のことらしく、その当時は、左兵衛尉だったらしい)だったが、弦袋を陣に置いて、金沢の城(かつて秋田県横手市にあった金沢柵)へ急ぎ下ったという、義家殿は『故入道殿(源頼義よりよし。義朝の父)が再び生き返ったように思える』と言って、鎧の袖を濡らしたと聞いている」と言ってしきりに喜びました。


続く


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by santalab | 2013-12-17 17:07 | 平治物語 | Comments(0)

    

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