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カテゴリ:水鏡( 159 )



「今鏡」藻塩の煙(その4)

また大納言の御子には、仁和寺の大僧正寛遍かんぺんと申すおはしき。備中の守まさなかの娘の腹にやおはしけん。高松の院の中宮とて、御ぐし下ろさせ給ひし、戒の師におはしけり。東寺の長者にて、近く失せ給ひにけり。中宮太夫の御弟広綱ひろつなとておはしき。四位までや上り給ひけん。摂津の守など申ししにや。また堀川ほりかは殿などの同じ腹にやおはしけん。仁覚にんかく大僧正と申しし、山の座主おはしき。それは中宮の太夫の兄にやおはしけん。また異腹に、山科寺やましなでらの実覚僧正など申しておはしき。荘厳院の僧都と申ししなるべし。




また大納言(源師忠もろただ)の子に、仁和寺(現京都市右京区にあえう寺)の大僧正寛遍と申す方がおられました。備中守まさなか(源政長まさなが)の娘腹でございましたか。高松院の中宮(第七十八代二条天皇の中宮、姝子しゆし内親王。父は第七十四代鳥羽天皇)と申されるお方が、髪を下ろされた時の、戒師でございました。東寺の長者でございましたが、近頃亡くなられました。大納言(源師忠)に中宮太夫の弟広綱(源広綱)と申す方がおられました。四位まで上られましたか。摂津守と申されました。また堀川殿(堀川左大臣。源俊房としふさ)と同じ腹でございましたか(父は源師房もろふさ、母は藤原尊子たかこ)。仁覚大僧正と申す、山(比叡山)の座主がおられました。中宮太夫(源広綱)の兄でございましたか(広綱は養子)。また異腹(源憲清のりきよの娘)に、山科寺の実覚僧正と申される方がございました。荘厳院の僧都と申された方でございます。


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by santalab | 2015-10-22 19:43 | 水鏡 | Comments(0)


水鏡

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by santalab | 2014-03-25 19:34 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」跋文(その2)

その後、行き方を知らず。たづね来たる事もなし。本意なき事、限りなし。心より外にはと言ひしかども、この事を消ちて止まん、口惜しくて書き付け侍るなり。世上がり、才賢かりし人の大鏡など云ひて書き置きたるには似ずして、言葉卑しく、僻言ひがごと多うして見どころなく、文字落ち散りて、見ん人に謗り欺かれん事、疑ひなかるべし。紫式部が源氏など書きて侍る様は、只人の為業とやは見ゆる。されどもその時には日本書紀の御局など付けて笑ひけりとこそは、やがて紫式部が日記には書きて侍るめれ。ましてこの世の人の口、かねて推し量られてかたはら痛く思ゆれども、人の為とも思ひ侍らず。ただ若くより、かやうの事の心に染み習ひて、行ひの隙にも捨て難ければ、我ひとり見んとて書き付け侍りぬ。大鏡の巻も凡夫の為業なれば、仏の大円鏡智だいゑんきやうちの鏡にはよも侍らじ。これも、もし大鏡に思ひよそへば、そのかたち正しく見えずとも、などか水鏡のほどは侍らざらんとてなん。




その後、この修行者の行方を知りません。訪ねて来たこともありません。残念で、仕方ございません。修行者は他人には話さないでくださいと申されましたが、これを残さないのは、もったいないことと書き残すことにいたしました。その昔、才能ある人が『大鏡』などと申すものを書き残しましたが及ぶべくもなく、文章は下手で、嘘も多く見どころもなく、文に誤りもあり、これを見る人に不平不満があることは、疑いのないことでございましょう。紫式部が『源氏物語』というものを書いていますが、とても只人の書いたものとは思えません。けれども「日本書紀の御局」などとあだ名を付けられて笑われたと、紫式部も日記に書いていることでありますれば(左衛門の内侍という者が紫式部のことを嫌っていたらしく、紫式部が学識を鼻にかけていると「日本書紀の御局」というあだ名を付けて、悪口をいいふらしたということが、『紫式部日記』に書かれています)。まして今の世の人の申すことは、見当も付いて心苦しくございますが、人のために書き残すものではございません。ただ若い頃より、物書きに慣れておりますれば、勤行の隙にも思いは捨て難く、わたし一人で見るために書き残すことにいたしました。『大鏡』の巻物も凡夫の書いたものでありますれば、仏の大円鏡智([大きな丸い鏡が万物の形を映すように、すべてを正確に照らす智慧])の鏡のようには参りません。この文も、『大鏡』をまねたものでございますれば、姿をはっきりと映すことはなくとも、水鏡のほどは時代を映していることを期待して。


(終)


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by santalab | 2014-03-25 19:32 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」跋文(その1)

「『さてこの申す事は、見聞きし事ばかりなれば、大切なることも多く落ち侍りぬらん。これはただ大様の有様を思し合はせさせんと思ひ給ふるばかりなり。このまうし続けつる事ども、暁の眠りのほどの夢にいづくか違ひ侍りたる。いづらは愛でたかりし世の中、いづらは悪しかりし事。たとひ桓武くわんむ天皇てんわうの御世より生ける人ありとも、我が身にて思ふに、長き夢見たる人にてぞ侍らん。ましてこの頃の人、命長からん定、七八十なり。とてもかくてもありぬべし。大方おほかた世の中の減劫げんかふの末、仏の滅後に小国の中に生まれて、見聞く事の悪しからんこそまことのことわりなれ』とて、もとの道方みちさまかへり罷りにき。 今、かく語り申まうすも、なほ仙人の申まうしし事、十が一をぞ申すらん。その中になほ僻事ひがごと多く、世の人の皆知り、をこがましきことどもにてこそ侍らめ。いたづらに寝を寝んよりは、御目をも覚まし奉らんとて、浅ましかりし事の有様を語り申すなり。御心の外に散らし給ふな」とて、夜明け方になりしかば、また所作などして、「京へ必ずおはせ」と契りて罷り出でにき。




「『わしが話したことは、見聞きしたことばかりじゃ、大事なことも数多く抜け落ちていることじゃろう。ただ大体の世の有様を教えたいと思ってのこと。そもそもわしの話など、暁の眠りの夢とどれほど差があるとも思えぬ。何がめでたくて、何が悪いなどと決めることはできぬのじゃ。たとえ桓武天皇(第五十代天皇)の時代より生きている者がおったとしても、わしが思うに、長い夢を見た人に過ぎぬ。ましてこの頃の人、命を永らえたところで、七八十というところぞ。そんな者がめったにいるはずもないがの。そもそも世の中は減劫([人間の寿命が、無量歳または 八万歳から、年々または百年に一歳ずつ減じて、十歳になるまでの過程])の末じゃ、仏(釈迦)の滅後([釈迦の死])にこの小国の中に生まれて、見聞くことが悪いことばかりなのも当然のことじゃ』と申して、来た道を帰って行きました。今、こうして話したことは、仙人が申されたことの、十のうちの一ばかりに過ぎません。その中にさえ間違い多く、世の人に知られるのは、恥ずかしいことです。ただ眠らないように、目を覚まして差し上げようと、拙くも申したまでのこと。他人にはお話しなさらぬよう」と申されて、夜明け方になりますと、また勤行などされた後、「京へ必ずお越しください」と約束して出て行かれました。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:25 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その6)

嘉祥かしやう元年ぐわんねん三月さんぐわつ二十六日に慈覚大師も唐土もろこしよりかへり給ふ。 唐土におはせし間、悪王に遭ひ奉りて、悲しき目どもを見給へりしなり。仏、経を焼き失ひ、尼法師を還俗せさせしめ給ひし折に会ひて、この大師も男になりて、頭を包みておはせしなり。同じき三年三月さんぐわつに、御門御病ひ重くならせ給ひて、御髪下して中一日ありて、亡せおはしましてきとぞ。




嘉祥元年(848)三月二十六日に慈覚大師(円仁ゑんにん)が唐土(唐)より帰りました。唐にいた時、悪王(会昌かいしよう。会昌の廃仏を行なった)に遭い、悲しい目に遭ったということです。仏、経を焼き、尼法師を還俗させた時に遭遇して、慈覚大師も男になって、頭を包んでの帰朝でした。同じ嘉祥三年(850)三月に、仁明にんみやう天皇(第五十四代天皇)は病いを重らせて、髪を下し中一日あって、お隠れになられました。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:18 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その5)

東宮とまうすは淳和じゆんわ天皇てんわうの御子なり。御門には御従弟にておはしまししなり。今年、十六にぞなり給ひし。八月はちぐわつ三日、御門、冷泉院に行幸ありて涼ませ給ひしに、東宮もやがてまゐらせ給ひたりしに、何方よりともなくて文を投げ入れたりき。建岑こはみねが東宮を教へ奉りたることどもありしかば、にはかに東宮の宮司、帯刀たちはき御許人おもとびとなど百余人捕へられて、東宮をば淳和院へ帰し奉りて、四日、当代の第一の親王しんわうを東宮に立て申し給ひき。文徳もんとく天皇これにおはします。




東宮と申すのは淳和天皇(第五十三代天皇)の皇子でした(恒貞つねさだ親王)。仁明にんみやう天皇(第五十四代天皇)の従兄弟でした。この年、十六歳でした。八月三日、仁明天皇は、冷泉院(平安時代の天皇の累代の後院=譲位後の御所。の一つ)に行幸あって涼まれておられましたが、東宮もやがて参られた時、ごこからともなく文が投げ入れました。建岑(判建岑)が東宮に教唆したこともあろうと、急ぎ東宮の宮司、帯刀・御許人([貴人のそば近くに仕える者])など百人余りが捕えられて、東宮を淳和院(第五十三代淳和天皇の離宮)へ移されて、八月四日、仁明天皇当代の第一皇子(道康みちやす親王)を東宮に立てました。文徳天皇(第五十五代天皇)となられたお方です。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:15 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その4)

二十四日に事あらはれて、二十五日に但馬権かみを伊豆国へ遣はし、建岑こはみねを隠岐へ遣はす。また、中納言吉野よしの宰相さいしやう秋津あきつなど流されにき。この但馬権守とまうすは、世の人、逸勢きせいとぞ申す。神になりておはすめり。東宮恐れ怖ぢ給ひて「太子を逃れん」と申し給ひしかば、御門「この事は建岑一人が思ひ立ちつる事なり。東宮の御誤りにあらず。とかく思す事なかれ」とて、ただもとのやうにておはしまさせき。




七月二十四日に謀反(承和の変)が露見して、二十五日に但馬権守(橘逸勢はやなり)を伊豆国へ配流、建岑(伴建岑)を隠岐へ配流しました。また、中納言吉野(藤原吉野)、宰相秋津(文室秋津)などが流罪になりました。この但馬権守のことを、世の人は、きせいと呼んでいました。今は神になっておられます(御霊みたま神社。現京都市上京区の上御霊かみごりやう神社と中京区の下御霊神社の祭神の一)。東宮も恐れ怖じて「太子を下ります」と申しましたが、仁明にんみやう(第五十四代天皇)は「これは建岑(伴建岑)一人が思ひ立ったことである。東宮の罪ではない。心配なさるな」と申して、東宮のままとなさいました。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:11 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その3)

同じき七年四月しぐわつ八日、初めて潅仏は行はれしなり。六月に小野たかむら召し返されて、いまだ位もなかりしかば、黄なる上の衣を着てぞ京へは入れりし。同じき九年七月十五日に、嵯峨さが法皇ほふわうせさせ給ひにき。当代の御父におはします。十七日、平城へいぜい天皇てんわうの御子に阿保親王しんわうまうしし人、嵯峨の大后の御許へ御消息を奉りて申し給ふやう、「東宮の帯刀たちはき建岑こはみねとと申す者、詣で来て、『太上法皇すでに亡せさせ給ひぬ。世の中の乱れ出で来侍りなんず。東宮を東国へ渡し奉らん』と申す」由を告げ申し給ひしかば、忠仁公の、中納言と申しておはせしを、后呼び申させ給ひて、阿保親王の文を御門に奉り給ひき。この事、建岑こはみねと但馬権かみ逸勢はやなりと謀れりける事にて、東宮は知り給はざりけり。




同じ承和じようわ七年(840)四月八日に、初めて潅仏([灌仏会]=[釈迦の誕生を祝う仏教行事])が行われました。六月に小野篁が都に帰されて、官位もなかったので、黄色(無位無官の色)の上衣を着て京に入りました。同じ承和九年(842)七月十五日には、嵯峨法皇(第五十二代天皇)がお隠れになられました。当代(第五十四代仁明にんみやう天皇)の父でした。七月十七日、平城天皇(第五十一代天皇)の皇子で阿保親王(第一皇子)と申す人が、嵯峨の大后(太皇大后橘嘉智子かちこ)の許へ文を送り申すには、「東宮の帯刀健岑(伴健岑)と申す者が、訪ねて来て、『太上法皇(嵯峨法皇)がお隠れになられました。世の中は乱れるやもしれません。東宮を東国へ渡しましょう』と申した」と知らせたので、忠仁公(藤原良房よしふさ)は、中納言でしたが、后(橘嘉智子)を呼ばれて、阿保親王の文を仁明天皇に差し上げました。これは、建岑(伴建岑)と但馬権守橘逸勢が企てたことで、東宮は知りませんでした。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:06 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その2)

今年、慈覚じかく大師、如法経を書き給ひき。承和じようわ元年ぐわんねん正月しやうぐわつ二日、淳和院じゆんわゐん朝覲てうきんの行幸侍りき。弘法こうぼふ大師のまうし行ひ給ひしによりて、今年より後七日の御修法みしほ始まりしなり。三月さんぐわつ二十一日に、弘法大師、定に入り給ひにき。同じき四年六月十七日、慈覚大師、唐土もろこしへ渡り給ひき。同じき五年十二月じふにぐわつ十九日に仏名ぶつみやうは始まりしなり。この月に、小野たかむらを隠岐国へ流し遣はしき。その故は、度々唐土へ遣はさんとせしかども、身に病ひ侍る由など申して罷らざりしに合はせて、唐土へ遣はしける文の言葉の続きに惹かされて、世の為に良からぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨さが法皇ほふわう御覧じて、大きに怒り給ひて流し遣はさせ給ひしなり。同じき六年正月にぞ篁は隠岐へ罷りし。

わたのはら 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ 海士のつり舟

とは、この時に詠み侍りしなり。




この年(833)、慈覚大師(円仁ゑんにん。最澄に師事)が、如法経を書かれました。承和元年(834)正月二日には、淳和院(第五十三代淳和天皇の離宮)へ朝覲([年頭に、天皇が上皇または皇太后の御所に行幸すること])の行幸の供をしました。弘法大師(空海)の発願により、この年より後七日の御修法([正月八日からの七日間、天皇の安穏・国家の繁栄・五穀の豊作などを祈って、宮中の真言院で、東寺の長者を導師として行われた真言の秘法])が始められました。三月二十一日に、弘法大師が、入定([高僧の死])されました。同じ承和四年(837)六月十七日、慈覚大師が、唐土(唐)に渡りました。同じ承和五年(838)十二月十九日に仏名([仏名会ぶつみやうゑ]=[陰暦十二月十五日、後に十九日から三日間、宮中や諸国の寺院で仏名経を読んで三世諸仏の名号を唱え、その年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会])は始まりました(年中行事として定着したのがこの年らしい)。この月に、小野篁が隠岐国へ流されました。その訳は、度々唐土へ遣わそうとしましたが、病気などと申して入唐しなかった上に、唐土へ遣わそうとする言葉を風刺して、世のためにならないことなどを書いたので(『西道謡』という遣唐使の事業を風刺する漢詩を作ったらしい)、嵯峨法皇(第五十二代天皇)がこれをご覧になられて、たいそう怒られて流罪にされたのでした。同じ承和六年(839)正月に小野篁は隠岐へ流されました。

この大海原をいくつもの島を伝いながら、今わたしの乗った船が湊を出たことを、どうかわたしを知る人たちに知らせてほしい。海士の釣舟の者たちよ。

とは、この時に詠んだ歌なのです。


続く


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by santalab | 2014-03-25 19:01 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」仁明天皇(その1)

次の御門、仁明にんみやう天皇てんわうまうしき。嵯峨さが天皇の第二の御子。御母、太皇大后橘嘉智子かちこなり。弘仁こうにん十四年癸卯みづのとう四月しぐわつ二十五日、東宮に立ち給ふ。御年十五。天長てんちよう十年癸丑みづのとうし三月さんぐわつ六日、位に即き給たまふ。御年二十四。世を知り給ふ事、十七年。御才賢く、管絃の方もいみじくおはしましき。すべて御身の能、いにしへの御門にも優れ給ひて、医師の方などさへ並び奉る人なかりしなり。




次の帝は、仁明天皇(第五十四代天皇)と申されました。嵯峨天皇(第五十二代天皇)の第二皇子でした。母は、太皇大后橘嘉智子でした。弘仁十四年(823)癸卯四月二十五日に、東宮に立たれました。御年十五歳でした。天長十年(833)癸丑三月六日に、帝位に即かれました。御年二十四歳でした。世を治められること、十七年。賢く、管絃も上手であられました。才能は古の帝にも優り、医学にさえ並ぶ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2014-03-25 17:59 | 水鏡 | Comments(0)

    

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