Santa Lab's Blog


カテゴリ:大鏡( 21 )



「大鏡」宇多天皇(その4)

この帝の、只人になり給ふほどなどおぼつかなし。よくも覚え侍らず。御母、洞院とうゐんの后と申す。この帝の、源氏にならせ給ふこと、よく知らぬにや、「王侍従わうじじゆう」とこそ申しけれ。陽成院やうぜいゐんの御時、殿上人てんじやうびとにて、神社行幸ぎやうかうには舞人まひびとなどせさせ給ひたり。位に就かせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代たうだい家人けにんにはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせ給へる帝も、あり難き事ぞかし。




宇多天皇(第五十九代天皇)が、臣籍降下されておられた時のことは分からん。よく覚えておらんのじゃ。母は、洞院の后(班子なかこ女王)と申された。宇多天皇が、源氏になられたことを、よく分かっておられなかったのか、「王侍従」と呼んでおられたそうじゃ。陽成院(第五十七代陽成天皇)の御時、殿上人として、神社行幸には舞人などをされておったんじゃ。帝位に就かれた後、陽成院(現京都市中京区にあったらしい)を通って行幸された時、陽成院が「当代はわしの家人ではないか」と申されたそうじゃ。天皇を家人に持たれた帝は、めったにおらんじゃろうの。


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by santalab | 2014-05-08 08:43 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」宇多天皇(その3)

寛平くわんぴやう九年七月五日、下りさせ給ふ。昌泰しやうたい三年己未つちのとひつじ十月十四日、出家すけせさせ給ふ。御名、金剛覚こんがうかくと申しき。承平しやうへい元年七月十九日、失せさせ給ひぬ。御年六十六。肥前掾ひぜんのぞう良利よしとし殿上てんじやうさぶらひける、入道にふだうして、修行すぎやうの御供にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野にても、日根ひねと言ふ所にて、「旅寝の夢に見えつるは」とも詠むぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。




宇多天皇(第五十九代天皇)は寛平九年(897)の七月五日に、帝位を下りられた。昌泰三年(昌泰二年(899)の誤り)己未の十月十四日に、出家なされた。御名を、金剛覚と申された。承平元年(931)の七月十九日に、お隠れになられた。御年六十六じゃった。肥前掾橘良利が、殿上に仕えておったんじゃが、入道して、修行のお供にも、良利ばかりが仕えておった。そういうわけで、熊野詣での時、日根(現大阪府泉佐野市日根野にある日根神社)という所で、「旅寝の夢に見えつるは」(「ふるさとの 旅寝の夢に 見えつるは うらみやすらむ またととはねば」=「故郷(都)を遠く離れて旅寝の夢に都にいるあなたを見たのは、恨みあってのことでしょうか。(宇多院の供に付いて)再び都に帰ることがないわたしと思って」。『大和物語』)と歌を詠んだそうじゃ。人々が涙を流したのも、当然のことじゃろうて。


続く


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by santalab | 2014-05-08 08:41 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」宇多天皇(その2)

この帝、いまだくらゐに就かせ給はざりける時、十一月二十余日のほどに、賀茂の御社の辺に、鷹使ひ、遊びありけるに、賀茂の明神みやうじん託宣したまひけるやう、「この辺に侍る翁どもなり。春は祭多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭たまはらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるると思えさせ給ひて、「おのれは力及びさぶらはず。朝廷おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば、「力及ばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたく軽々きやうきやうなる振る舞ひなさせ給ひそ。さ申すやうありとて。近くなり侍り」とて、掻い消つやうに失せ給ひぬ。いかなることにかと心得ず思し召すほどに、かく位に就かせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して、「祭せさせ給へ」と申させ給ふ日、とりの日にして侍りければ、やがて霜月の果ての酉の日、臨時の祭は侍るぞかし。東遊あづまあそびの歌は、敏之としゆきの朝臣の詠みけるぞかし。

ちはやぶる 賀茂の社の 姫小松 よろづ代経とも 色は変はらじ

これは古今に入りて侍り。人皆知らせ給へることなれども、いみじく詠み給へる主かな。今に絶えず広ごらせ給へる御すゑ、帝と申すともいとかくやはおはします。くらゐに就かせ給ひて二年と言ふに始まれり。使ひ、右近中将時平ときひらの朝臣こそはし給ひけれ。




宇多天皇(第五十九代天皇)が、まだ帝位に就いておられなかった時、十一月二十過ぎのことじゃったか、賀茂社のあたりで、鷹狩りし、遊んでおられたが、賀茂明神が託宣されて、「このあたりの翁じゃ。春は祭が多くあるがの。冬はまったく何もないんじゃ、どうか祭をやってはもらえぬか」と申したので、その時に賀茂明神が申されることとと思われて、「わたしにはそのような力はありません。朝廷に申されるのがよろしいでしょう」と申せば、賀茂明神は「何とかしてくれると思うからこそ申しておるんじゃよ。軽々しい振る舞いをなさらないように。申すことあって参ったのじゃ。ぬしが帝になるのももうすぐじゃぞ」と申して、かき消すようにいなくなったんじゃよ。宇多天皇はどういうことかと心得ずにおったんじゃが、こうして帝位に就かれて、臨時の祭が行われるようになったんじゃ。賀茂の明神が託宣されて、「祭を行え」と申された日が、酉の日じゃったで、やがて霜月([陰暦十一月])の最後の酉の日に、臨時の祭が行われるようになったんじゃよ。東遊び([古く東国地方で、風俗歌に合わせて行われた民俗舞踊])の歌は、敏之朝臣(藤原敏之)が詠まてたそうじゃ。

神代からの賀茂社の姫小松は、幾代経とうが色を変えないように、帝の御末は永遠に続くことでございましょう。

これは古今集に入っておるぞ。人は皆知っておることじゃろうが、上手に歌詠む主じゃな。今に絶えず子孫は繁栄されておられる、その帝と申すお方もこうじゃった。帝位に就かれて二年目に臨時の祭りは始まったのじゃ。使いは、右近中将時平朝臣(藤原時平)じゃった。


続く


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by santalab | 2014-05-07 21:00 | 大鏡 | Comments(0)


大鏡

文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
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by santalab | 2014-05-07 20:52 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」宇多天皇(その1)

次の帝、亭子ていじの帝と申しき。これ、小松の天皇の御第三皇子。御母、皇太后宮班子なかこ女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野親王御娘なり。この帝、貞観ぢやうぐわん九年丁亥ひのとゐ五月五日、生まれさせ給ふ。元慶がんきよう八年四月十三日、源氏になり給ふ。御年十八。王侍従わうじじゆうなど聞こえて、殿上人てんじやうびとにておはしましける時、殿上の御椅子ごいしの前にて、業平なりひら中将ちゆうじやう相撲すまひ取らせ給ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄かうらん折れにけり。その折目をれめ今に侍るなり。仁和にんな三年丁末ひのとひつじ八月二十六日に春宮に立たせ給ひて、やがて同日に位に就かせ給ふ。御年二十一。世を知らせ給ふこと十年。寛平くわんぴやう元年己酉つちのととり十一月二十一日己酉の日、賀茂の臨時の祭はじまること、この御時よりなり。使ひには右近中将うこんのちゆうじやう時平ときひらなり。昌泰しやうたい元年戊午つちのえうま四月十日、御出家すけせさせ給ふ。




次の帝は、亭子帝(第五十九代宇多天皇)と申された。宇多天皇は、小松天皇(第五十八代光孝天皇)の第三皇子(第七皇子)じゃった。母は、皇太后宮班子女王と申されたお方じゃ。二品式部卿贈一品太政大臣仲野親王(第五十代桓武天皇の第十二皇子)の娘じゃった。宇多天皇は、貞観九年(867)丁亥の五月五日に、お生まれになられた。元慶八年(884)の四月十三日に、源氏になられた(臣籍降下)。御年十八の時じゃ。王侍従と呼ばれて、殿上人であられた時、殿上の御椅子の前で、業平(在原業平)の中将と相撲を取られた時に、御椅子にひっかけられて高欄が折れてしもうた。その折目は今も残っておるぞ。仁和三年(887)丁末の八月二十六日に春宮に立たれて、すぐ同じ日に位に就かれたのじゃ。御年二十一じゃった。世を治められること十年じゃったな。寛平元年(889)己酉の十一月二十一日己酉の日に、賀茂(賀茂神社。今の上賀茂神社と下鴨神社)の臨時の祭がはじまったが、宇多天皇の御時よりのことなのじゃよ。使いは右近中将時平(藤原時平)が務められたのじゃ。昌泰元年(898)戊午の四月十日に、出家なされたよ。


続く


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by santalab | 2014-05-07 20:49 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」光孝天皇

次の帝、光孝くわうかう天皇と申しき。仁明にんみやう天皇の第三皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子たくし、贈太政大臣総継ふさつぎの御娘なり。この帝、淳和じゆんな天皇の御時の天長てんちやう七年庚戌かのえいぬ、東五条家にて生まれ給ふ。御親の深草ふかくさの帝の御時の承和じようわ三年丙辰ひのえたつ正月七日、四品しほんし給ふ。御年七つ。嘉祥かしやう三年正月、中務卿なかつかさきやうになり給ふ。御年二十一。仁寿にんじゆ元年十一月二十一日、三品さんぼんに上り給ふ。御年二十二。貞観ぢやうぐわん六年正月十六日、上野太守かうづけのかみかけさせ給ふ。御年三十五。同じき八年正月十三日、大宰権師だざいのごんのそちに移りならせ給ふ。同じき十二年二月七日、二品にほんに上らせ給ふ。御年四十。同じき十八年二月二十六日、式部卿にならせ給ふ。御年四十六。元慶ぐわんぎやう六年正月七日、一品いつぽんに上らせ給ふ。御年五十三。同じき八年に大宰帥かけたまひて、二月四日、位に就き給ふ。御年五十五。世を知らせ給ふこと四年。小松の帝と申す。この御時に、藤壺ふぢつぼうへ御局みつぼねの黒戸は開きたると聞き侍るは、まことにや。




次の帝は、光孝天皇(第五十八代天皇)と申された。仁明天皇(第五十四代天皇)の第三皇子よ。母は、贈皇太后宮藤原沢子、贈太政大臣総継(藤原総継)の娘じゃった。光孝天皇は、淳和天皇(第五十三代天皇)の御時の天長七年(830)庚戌に、東五条家(東五条第)でお生まれになられた親であられた深草帝(仁明天皇)の御時の承和三年(836)丙辰の正月七日に、四品になられた。御年七歳じゃった。嘉祥三年(850)の正月には、中務卿になられた。御年二十一。仁寿元年(851)の十一月二十一日には、三品に上がられた。御年二十二じゃった。貞観六年(864)の正月十六日に、上野太守を兼任された。御年三十五の時じゃった。同じ貞観八年(866)の正月十三日に、大宰権師に移られた。同じ貞観十二年(870)の二月七日には、二品に上られた。御年四十じゃった。同じ貞観十八年(876)の二月二十六日に、式部卿になられた。御年四十六。元慶六年(882)の正月七日に、一品に上られた。御年五十三じゃった。同じ元慶八年(884)には大宰帥を兼任されて、二月四日に、帝位に就かれたのじゃ。御年五十五の時じゃった。世を治められること四年。小松帝と申された。この御時に、藤壺([飛香舎ひぎやうしや]=[中宮や女御の住まい])の上の御局の黒戸(藤原道隆みちたかが黒戸から出たことが『枕草子』に書かれているらしい)が開いたと聞いたが、本当のことじゃろうかの。


続く


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by santalab | 2014-05-07 20:42 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」陽成院(その3)

及ばぬ身に、かやうのことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろし召したることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御仲らひのほどとこそはうけたまはれ。末の世まで書き置き給ひけむ、怖ろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、中々に気色あることも、をかしきこともありけるもの』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。世継『二条にでうの后と申すは、この御事なり。




わしにとっては関わりのない話、このようなことを申すのは、畏れ多いことじゃが、誰もが知っていたことじゃから。誰が知っておろうか、今では、古今・伊勢物語なども知ってはおらんじゃろう「見もせぬ人の恋しきは」(「見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しきは あやなくけふや ながめくらさむ」=「逢ったこともないあの人のことが恋しくて仕方ありません。ただぼんやりして日を送るわたしです。」)など申したのも、そんな関係を詠んだ歌かも知れんのう。末世まで書き残すとは、業平は恐ろしいまでの数寄者であったのだろうよ。いずれにせよ、昔は、それほどまでに、思うところがあったものよ』と申して、笑いました。恋心と申すものでございましょうか、とてもうれしそうでございました。世継『二条后と申すのは、藤原高子たかいこ(第五十六代清和天皇女御)のことじゃ。


続く


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by santalab | 2014-04-30 17:10 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」陽成院(その2)

母后は、清和の帝よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院やうぜいゐんをば産み奉り給へるなり。元慶ぐわんぎやう元年正月にきさい<に立たせ給ふ、中宮と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮に上がり給ふ。御年四十一。この后宮の、宮仕ひし初め給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世籠もりておはしける時、在中将ざいちゆうじやう忍びてて隠し奉りたりけるを、御せうとの君達、基経もとつねの大臣・国経くにつねの大納言などの、若くおはしけむほどのことなりけむかし、取り返しにおはしたりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」と詠み給ひたるは、この御事なれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じ初められ給はずやおはしましけむとぞ、思え侍る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮そめどののみやまゐり通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推し量られ侍る。




母后(藤原高子たかいこ)は、清和帝(第五十六代清和天皇)より九歳歳上じゃった。二十七の年に、陽成院を産みになられたということじゃ。元慶元年(877)の正月に后に立たれて、中宮と申された。御年三十六じゃった。同じ元慶六年(882)の正月七日に、皇太后宮に上がられた。御年四十一じゃった。この后宮が、宮仕えに出られた頃のことはよく分からぬ。まだ世に出られておいででない頃、在五中将(在原業平なりひら)が忍んで連れ出して隠されたんじゃが、兄である君達、基経大臣(藤原基経)・国経大納言(藤原国経)とか申すお方が、若かった頃のことじゃが、妹を取り返された時、「つまもこもれりわれもこもれり」(「武蔵野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり 我もこもれり」=「武蔵野を、今焼き払うのは止めなさい。若草のようなあなたの妹も、わたしも隠れているのだから。」)と詠んだのは、このことじゃよ、末の世に、「神代のことも」(「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思い出づらめ」=「大原野神社=現京都市西京区大原野にある神社。在原業平が晩年に遁世した場所。の小塩山(現京都市西京区にある山)も 、今日ばかりは、神代を思い出されたのではありませんか。わたしのように。」)と詠んだのは昔を思い出してのことじゃろう(藤原高子が大原野神社に詣でた時に詠んだ歌らしい)。そういうことじゃから、世の常のことじゃが清和天皇が皇后を寵愛されたとも、思えぬ。もしかすれば、皇后は業平を忘れ難く、業平は染殿に通っておられたのではないかと、思えるんじゃ(業平は第五十一代平城天皇の孫)。


続く


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by santalab | 2014-04-30 16:34 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」陽成院(その1)

次の帝、陽成院天皇と申しき。これ、清和天皇の第一皇子なり。御母、皇太后宮高子たかいこと申しき。ごん中納言贈正一位ぞうじやういちゐ太政大臣長良ながらの御娘なり。この帝、貞観ぢやうぐわん十年戊子つちのえね十二月十六日、染殿院にて生まれ給へり。同じき十一年二月一日己丑つちのとうし、御年二つにて東宮に立たせ給ひて、同じき十八年丙申ひのえさる十一月二十九日、位に就かせ給ふ。御年九歳。元慶ぐあんぎやう六年壬寅みづのえとら正月二日乙巳きのとみ、御元服。御年十五。世を知らせ給ふこと八年。位下りさせ給ひて、二条院にでうのゐんにぞおはしましける。さて六十五年なれば、八十一にて隠れさせ給ふ。御法事ほふぢ願文ぐわんもんには、「釈迦如来の一年ひととせこのかみ」とは作られたるなり。智恵ちゑ深く思ひ寄りけむほど、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しと言ふ心の、後世の責めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。




次の帝は、陽成院天皇(第五十七代陽成天皇)と申された。陽成天皇は、清和天皇(第五十六代天皇)の第一皇子じゃった。母は、皇太后宮高子(藤原高子)と申されたの。権中納言贈正一位太政大臣長良(藤原長良)の娘じゃった。陽成天皇は、貞観十年(869)戊子の十二月十六日に、染殿院(藤原良房よしふさの邸宅)でお生まれになられた。同じ貞観十一年(870)の二月一日己丑に、御年二つで東宮に立たれて、同じ貞観十八年(876)丙申の十一月二十九日に、帝位に就かれたんじゃよ。御年九歳じゃった。元慶六年(882)壬寅の正月二日乙巳に、元服された。御年十五じゃった。世を治められること八年。帝位を下りられて、二条院におられた。その後六十五年上皇としてあられ、八十一でお隠れになられたんじゃ。法事の願文には、「釈迦如来より一年長生きしたことよ」と書かれたそうじゃ。智恵深く仏道にも通じて、奇抜なものじゃったが、仏の御年よりも年高と申される心が、後世の責めとなられたと、人が夢に見たそうじゃが。


続く


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by santalab | 2014-04-30 16:27 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」清和天皇(その2)

御母、二十三にて、この帝を産み奉り給へり。貞観ぢやうぐわん六年正月七日、皇后宮くわうごうぐうに上がり給ふ。きさいの位にて四十一年おはします。染殿そめどのの后と申す。その御時の護持僧ごぢそうには智証大師ちしようだいしにおはす。さばかりの仏の護持僧にておはしけむに、この后の御物の怪のこはかりけるに、など、え止め奉り給はざりけむ。さきの世のことにておはしましけるにやとこそ思え侍れ。天安てんあん二年戊寅つちのえとらにぞ唐より帰り給ふ。




母(第五十五代文徳もんとく天皇女御、藤原明子あきらけいこ)は、二十三で、清和せいわ天皇(第五十六代天皇)をお産みになられた。貞観六年(864)の正月七日には、皇后宮に上がられたのじゃ。后の位に四十一年おられた。染殿后と申されたお方じゃ。その時の護持僧は智証大師(円珍ゑんちん)じゃった。立派な仏の護持僧であられてな、染殿后に物の怪が憑かれて力も強かったが、どうして、憑きを落とせぬことがあるものか。前の世のことであったということじゃが。智証大師は天安二年(858)戊寅に唐より帰られたのじゃぞ。


続く


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by santalab | 2014-03-28 19:49 | 大鏡 | Comments(0)

    

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