Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1320 )



「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その7)

「いかさま資朝すけとも俊基としもとの隠謀、叡慮より出でし事なれば、たとひ告文かうぶんを下されたりと言へども、それに依るべからず。主上をば遠国をんごくへ遷し奉るべし」と、初めは評定ひやうぢやう一決いつけつしてけれども、勅使宣房のぶふさきやうの被申し趣きげにもと思ゆる上、告文読みたりし利行としゆき、にはかに血を吐いて死にたりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道にふだうも、さすが天慮そのはばかりありけるにや、「御治世ぢせいの御事は朝議てうぎに任せ奉る上は、武家いろまうすべきにあらず」と、勅答を申して、告文を返し参らせらる。宣房の卿すなはち帰洛して、この由を奏し申されけるにこそ、宸襟しんきん始めて解けて、群臣色をばなほされけれ。さるほどに俊基朝臣は罪の疑はしきをかろんじて赦免せられ、資朝すけともきやうは死罪一等をなだめられて、佐渡の国へぞ流されける。




「何にせよ資朝(日野資朝)・俊基(日野俊基)の隠謀は、叡慮(第九十六代後醍醐天皇の考え)の考え出されたことでしたので、たとえ告文([自分の言動に虚偽のないことを、神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書])を下されたといっても、それによって判断すべきではない。主上(後醍醐天皇)を遠国に移されるべし」と、評定により定められましたが、勅使宣房卿(藤原宣房)の申されることにも一理あると思われる上、告文を読み上げた利行(斎藤利行)が、たちまち血を吐いて死んでしまったので、諸人は皆舌を巻いて驚き、口を閉じて何も言わなくなりました。相摸入道(北条高時たかとき)も、さすがに天慮([天皇の考え])に憚ったのか、「治世のことは朝議に任せるべきであれば、武家は口出しすべきではありません」と、勅答([臣下が天子の問いに答えること])を申して、告文を返進([返上])しました。宣房卿(藤原宣房)はすぐに京に戻り、これを後醍醐天皇に奏上すると、宸襟([天子の心])は落ち着き、群臣の心配もなくなりました。やがて俊基朝臣(日野俊基)は罪が疑わしいとして赦免され、資朝卿(日野資朝)は死罪一等を免れて、佐渡国へ流罪となりました(その後、佐渡で処刑された)。


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by santalab | 2014-05-22 08:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その6)

やがて万里小路までのこうぢ大納言宣房のぶふさきやうを勅使として、この告文かうぶんを関東へ下さる。相摸入道、秋田あいたの城の介を以つて告文を請け取つて、すなはち披見せんとしけるを、二階堂にかいだう出羽ではの入道道蘊だううん、堅く諌めてまうしけるは、「天子武臣に対してぢきに告文を被下たる事、異国にも我が朝にもいまだその例をうけたまはらず。しかるを等閑なほざりに披見せられん事、冥見みやうけんに付いてその恐れあり。ただ文箱ふんばこを開かずして、勅使に返しまゐらせらるべきか」と、再往さいわう申しけるを、相摸入道、「何か苦しかるべき」とて、斎藤太郎左衛門利行としゆきに読み参らせさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧」と被遊たるところを読みける時に、利行にはかに目くるめ鼻血はなぢたりければ、読み果てずして退出す。その日より喉の下に悪瘡あくさう出でて、七日なぬかが内に血を吐いて死にけり。時澆季げうきに及んで、道塗炭どたんに落ちぬと言へども、君臣くんしん上下の礼たがふ時は、さすが仏神ぶつじんの罰もありけりと、これを聞きける人毎に、怖ぢ恐れぬはなかりけり。




やがて万里小路大納言宣房卿(藤原宣房)を勅使として、この告文([自分の言動に虚偽のないことを、神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書])を関東(鎌倉)に下しました。相摸入道(北条高時たかとき)は、秋田城介(安達時顕ときあき)に告文を受け取らせて、すぐに見ようとしましたので、二階堂出羽入道道蘊(二階堂貞藤さだふじ)が、強く諌めて申すには、「天子(天皇)が武臣に対して直接告文を下されたことは、異国にも我が国にもまだその例を知りません。軽々しく披見すれば、冥見([人々の知らないところで、神仏が衆生を見守っていること])に知れて恐れとなりましょう。文箱を開かず、勅使に返されるのがよいでしょう」と、何度も申しましたが、相摸入道(北条高時)は、「何の不都合がある」と申して、斎藤太郎左衛門利行(斎藤利行)に読ませました、「叡心に偽りのないことを天の照覧に任せるところなり」と描かれたところを読んでいる時に、利行は急に目がくらみ鼻血を流したので、読み終わることなく御前から退出しました。利行その日から喉の下に悪瘡([たちの悪い腫物])ができて、七日のうちに血を吐いて死んでしまいました。時代は澆季([道徳が衰え、乱れた世])に及び、前途は塗炭([きわめて辛い境遇])に落ちるといえども、君臣が上下の礼に背く時には、さすがに仏神の罰があることと、これを聞く人は誰一人として、怖じ恐れない者はいませんでした。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:47 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その5)

夜痛く更けて、「誰か候ふ」と召されければ、「吉田の中納言冬房ふゆふさ候ふ」とて御前おんまへこうす。主上席を近づけておほせありけるは、「資朝すけとも俊基としもとが捕らはれし後、東風とうふうなほいまだしづかならず、中夏ちゆうか常にあやふきを踏む。この上にまたいかなる沙汰をか致さんずらんと、叡慮更に不穏。如何いかんして先づ東夷とういしづむべきはかりごとあらん」と、勅問ちよくもんありければ、冬房謹んで申まうしけるは、「資朝・俊基が白状はくじやうありともうけたまはり候はねば、武臣この上の沙汰には及ばじと存じ候へども、この頃東夷の振る舞ひ、楚忽そこつの義おほく候へば、御油断あるまじきにて候ふ。先づ告文かうぶん一紙を下されて、相摸入道にふだうが怒りを静めさふらはばや」と申されければ、主上げにもとや思し召されけん、「さらばやがて冬房書け」とおほせありければ、すなはち御前おんまへにして草案さうあんをして、これを奏覧す。君しばらく叡覧あつて、御涙の告文にはらはらとかかりけるを、御袖にて押しのごはせ給へば、御前に候ひける老臣、皆悲啼ひていを含まぬはなかりけり。




夜がすっかり更けて、後醍醐天皇が「誰かおるか」と呼ばれたので、「吉田中納言冬房(吉田冬房)がおります」と申して御前に参りました。主上(後醍醐天皇)は席を近づけて申すには、「資朝(日野資朝)・俊基(日野俊基)が捕らわれてより、東風はいまだ収まらず、中夏([都])は常に危うい。この上またどのような沙汰があるかと思えば、わたしの心は穏やかでない。どうにかして東夷([無骨で粗野な東国武士])の横暴を鎮めようと思うが何か妙案はないか」と、勅問([天子の質問])されたので、冬房(吉田冬房)は畏まって申すには、「資朝・俊基が謀反を白状したとは聞いておりません、武臣はこれ以上の沙汰には及ぶことはないと思いますが、この頃の東夷の振る舞いは、楚忽([唐突でぶしつけなこと])なところが多くありますので、油断なさらないことです。まず告文([自分の言動に虚偽のないことを、神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書])を
一枚下されて、相模入道(北条高時たかとき)の怒りを静められてはいかがでしょう」と申すと、主上(後醍醐天皇)もなるほどと思われて、「ならばすぐに冬房(吉田冬房)が書け」と命じたので、後醍醐天皇の御前で草案([下書き])して、これを奏覧しました。君(後醍醐天皇)はしばらく叡覧して、涙が告文にはらはらと零れ落ちるのを、袖で押し拭ったので、御前の老臣は、皆泣き声を上げて泣きました。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:43 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その4)

七月七日、今夜は牽牛けんぎう織女しよくぢよ二星じせい烏鵲うじやくの橋を渡して、一年の懐抱くわいばうを解く夜なれば、宮人きゆうじんの慣はし、竹竿ちくかんに願ひの糸を懸け、庭前ていぜん嘉菓かくわを列ねて、乞巧奠きつかうでんしゆする夜なれども、世上せじやう騒しき時節をりふしなれば、詩歌しいかを奉る騒人さうじんもなく、絃管げんくわん調しらぶる伶倫れいりんもなし。たまたま上臥うへぶししたる月卿雲客げつけいうんかくも、何となく世の中の乱れ、またが身のうへにか来たらんずらんと、たましひを消し肝を冷やす折節をりふしなれば、皆眉をひそおもてを垂れてぞさふらひける。




七月七日、今夜は牽牛・織女の二星が、烏鵲([かささぎ])の橋を渡って、一年の懐抱([思い])を叶える夜でしたので、宮人の習慣として、竹竿に願いの糸を掛け、庭前に嘉菓(祝いの菓子)を並べて、乞巧奠([女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの])の節会を執り行う夜でしたが、世の中は騒がしく、詩歌を奉上する騒人([詩人])もなく、絃管を演奏する伶倫([伶人]=[楽人])もいませんでした。たまたま上臥し([宮中や院中で宿直とのゐすること])していた月卿雲客([公卿と殿上人])も、何とはなく世の中の乱れが、また誰の身の上に及ぶことかと、驚きおびえていましたので、皆眉をひそめ心配そうにうつむくばかりでした。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:37 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その3)

同じき二十七日、東使とうし両人りやうにん資朝すけとも俊基としもとを具足し奉つて、鎌倉へ下着す。この人々は殊更謀反の張本ちやうほんなれば、やがて誅せられぬと思えしかども、ともに朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世のそしり君の御いきどほりを憚はばかつて、拷問がうもんの沙汰にも不及、ただ世の常の放召人はなしめしうどの如くにて、侍所さぶらひどころにぞあづけ置かれける。




同じ六月二十七日、東使([鎌倉時代に鎌倉幕府から京都にある朝廷や六波羅探題、関東申次などに派遣された使者])両人が、資朝(日野資朝)・俊基(日野俊基)を引き連れて、鎌倉に着きました。この者たちはとりわけ謀反の張本(張本人)でしたので、すぐに誅殺されると思われましたが、二人とも朝廷(後醍醐天皇)の近臣として、才覚に優れた者たちでしたので、世の批判君(後醍醐天皇)の怒りに憚って、拷問にも及ばず、ただ世の常の放召人([拘置刑に処せられた者])のように、侍所([鎌倉幕府の役所の一])に預け置かれました。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:33 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その2)

かの資朝すけともきやうは日野の一門にて、職大理だいりを経、くわんは中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異にして、家の繁盛時を得たりき。俊基としもと朝臣は身儒雅じゆがもとより出で、望み勲業くんげふうへに達せしかば、同官どうくわん肥馬ひばの塵を望み、長者ちやうじや残盃ざんばいれいに随ふ。むべなるかな「不義而富且貴、於我如浮雲」と言へる事。これ孔子の善言ぜんげん魯論ろろんに記するところなれば、なじかはたがふべき。夢の中に楽しみ尽きて、眼前の悲しみここに来たれり。かれを見これを聞きける人毎に、盛者必衰しやうじやひつすゐを知らでも、袖を絞りず。




資朝卿(日野資朝)は日野の一門で、職は大理([検非違使別当])を経て、官は中納言に至り、君(後醍醐天皇)の寵愛も格別で、一家は繁盛しました。俊基朝臣(日野俊基)は儒雅([儒者])の出で、望み勲業([功業])は最高に達して、同官さえも肥馬の塵を望み([肥馬の塵を望む]=[富貴な人間、権勢のある人間に追従すること])、長者も残盃の冷([残杯冷炙ざんぱいれいしや]=[冷遇されて恥辱を受けることのたとえ])のように資朝(日野資朝)に従いました。「不義にして富みかつ貴きは、我に於いて浮雲の如し(道理に背いて私腹を肥やし横柄な振る舞いをすることは、わたし=孔子には浮雲の如く危ういことに思われる)」と孔子が言ったのももっともなことでした。これは孔子の善言(『論語』)で、魯論([魯国に伝わっていた論語])に記された言葉でしたので、間違いなどあるはずのないものでした。夢の中の楽しみは尽きて、目の前には悲しみがあるばかりでした。あれを見てこれを聞く者は皆、盛者必衰の理を知らずとも、袖を絞りきることができませんでした。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」資朝俊基関東下向の事付御告文の事(その1)

土岐とき多治見たぢみ討たれて後、君の御謀反次第に隠れなかりければ、東使とうし長崎四郎左衛門泰光やすみつ南条なんでうの次郎左衛門宗直むねなほ二人ににん上洛しやうらくして、五月十日資朝すけとも俊基としもと両人りやうにんを召し捕り奉る。土岐が討たれし時、生け捕りの者一人もなかりしかば、白状はくじやうはよもあらじ、さりとも我らが事はあらはれじと、無墓頼みに油断して、かつてその用意もなかりければ、妻子東西に逃げ迷ひて、身を隠さんとするに所なく、財宝は大路おほちに引き散らされて、馬蹄ばていの塵と成りにけり。




土岐(土岐頼員よりかず)・多治見(多治見国長くになが)が討たれて後、君(第九十六代後醍醐天皇)の謀反は次第に明らかとなって、東使([鎌倉幕府から京都にある朝廷や六波羅探題、関東申次などに派遣された使者])の長崎四郎左衛門泰光(長崎泰光)、南条次郎左衛門宗直(南条宗直)の二人が上洛して、五月十日に資朝(日野資朝)・俊基(日野資朝)両人を捕えました。土岐(頼員)が討たれた時、生け捕りの者は一人もいなかったので、白状([隠していた事実や自分の犯した罪を申し述べること])は決してあるまい、まさか我らの企みが露見することはないと、愚かな頼みに油断して、用意もしていなかったので、妻子は東西に逃げ惑い、身を隠そうにも所なく、財宝を大路に巻き散らしたので、馬蹄の塵となってしまいました。


続く
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by santalab | 2014-05-22 08:19 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」序

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。




古今の変化を振り返って見れば、安らかな時代も動乱もありましたが、天の徳によるものだと思うばかりです。明君([賢明な君主])は明君である故に国家を保ちます。それは地道([大地にもともと備わっている性質・法則])によるものなのです。良臣もまた明君に従って社稷([朝廷または国家])を守るようになります。もし徳に欠ける者あれば帝位を保つことができません。けつ王([夏王朝最後の王。殷の湯王に討たれた。暴虐非道な帝王の代表])は南巣(南方)に逃げ、いんちう王([殷王朝最後の王。暴虐の限りを尽くして周の武王に滅ぼされた。古来、夏の桀王とともに暴君の代表])は牧野ぼくやで敗れました。道に背けば威を誇ったところで長くは続きません。趙高([しんの宦官])は咸陽かんやう([秦代の首都])で殺され、安禄山([唐代の武将])は鳳翔で亡ぼされたそうです。これらにより前代の聖人は慎んで法([規範])を将来に示すのです。後昆([後の世の者])であるわたしたちはこれらの事柄を教訓としなくてはなりません。


続く
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by santalab | 2014-05-22 07:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」相摸次郎時行勅免の事(その2)

そもそも尊氏たかうぢがその人たる事ひとへに当家優如いうじよの厚恩に依りさふらひき。しかるに恩をになうて恩を忘れ、天をいただいて天を背けり。その大逆無道ぶだうはなはだしき事、世の憎むところ人の指指すところなり。ここを以つて当家の氏族ら、ことごとく敵を他に取らず。これ尊氏・直義ただよしらが為に、その恨みを散ぜん事を存ず。天鑑てんかん明らかに下情かじやうを照らされば、曲げて勅免をかうむつて、朝敵てうてき誅罰ちうばつの計略を廻らすべき由、綸旨りんしを成し下されば、よろしく官軍くわんぐんの義戦を助け、皇統の大化たいくわあふまうすべきにて候ふ。それ不義の父を誅せられて、忠功の子を召し仕はるる例あり。異国には趙盾てうとん、我がてうには義朝よしとも、その外泛々はんはんたるたぐひ勝計しようけいすべからず。用捨無偏、弛張ちちやう有時、明王みやうわうの選士徳なり。あに既往の罪を以つて、当然の理を棄てられ候はんや」と、伝奏てんそうしよくして委細にぞ奏聞したりける。主上しゆしやうよくよく聞こし召して、「犁牛りぎうの例へ、そのことわりしかなり。罰その罪に当たり、しやうその功に感ずるは善政のさいたり」とて、すなはち恩免の綸旨をぞ下されける。




そもそも尊氏(足利尊氏)が世に人としてあるのもひとえに当家(北条家)の優如([罪・非法など有責のことがらを大目にみること])の厚恩によるものでございます。しかるに恩がありながら恩を忘れ、天を戴いて天に背いておるのです。その大逆無道は度を超えて、世は憎み人は指指すところでございます。これをもってしても当家の氏族たちの、敵は尊氏以外にはございません。わたしは尊氏・直義(足利直義)に対して、この恨みを晴らしたいと思っているのでございます。天鑑(天子の御心)明らかに下情([一般の民衆の実情])を照らさば、曲げて勅免を蒙り、朝敵(尊氏)誅罰の計略を廻らせよと、綸旨が下されれば、力の限り官軍の義戦を助け、皇統を仰ぎ申す所存でございます。不義の父(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)を誅せられて、忠功の子を召し仕われる例はすでにございます。異国([中国])には趙盾(趙盾とその子趙武てうぶ)、我が朝には義朝(源義朝とその子頼朝)、その外泛々たる([軽々しい様])類は、枚挙にも及びません。用捨かたよりなく、弛張([寛大にすることと厳格にすること])時に従ってこそ、明王(不動明王)のような選士([兵士])を得ることができましょう。どうして既往の罪をもって、当然の理を棄てられるのですか」と、伝奏([上皇・天皇に近侍して奏聞・伝宣を担当した者])に付けて細かに奏聞しました。主上(南朝初代後醍醐天皇)はじっくりとお聞きになられて、「犁牛([役牛])の申すこと、たしかにその通りじゃの。罰は罪に対するもの、賞をその功に感ずるのが最上の善政ではないか」と申されて、すぐに恩免の綸旨を下されました。


続く


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by santalab | 2014-05-21 19:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」相摸次郎時行勅免の事(その1)

先亡せんばう相摸入道にふだう宗鑒そうかんが次男相摸次郎時行ときゆきは、一家いつけたちまちに亡びし後は、天にせぐくまり地にぬきあしして、一身を置くに安き所なかりしかば、ここの禅院ぜんゐん、かしこの律院りつゐんに、一夜二夜を明かして隠れありきけるが、ひそかに使者を吉野殿へまゐらせてまうし入れけるは、「亡親ばうしん高時たかとき法師、臣たる道をわきまへずして、遂に滅亡を勅勘ちよくかんの下に得たりき。しかりといへども、天誅てんちうに当たる故を存ずるに依つて、時行一塵いちぢんも君を恨み申すところを存じ候はず。元弘げんこう義貞よしさだ関東くわんとうを滅ぼし、尊氏たかうぢは六波羅を攻め落とす。かの両人いづれも勅命に依つて、征罰を事としさふらひし間、いきどほりを公儀に忘れ候ひしところに、尊氏たちまちに朝敵てうてきとなりしかば、威を綸命りんめいの下に仮つて、世を反逆ほんぎやくうちに奪はんとくはたてける心中、事すでに露顕し候ふか。




先亡の相摸入道宗鑒(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)の次男相摸次郎時行(北条時行)は、一家たちまちに亡びた後は、天に跼り地に蹐し([天に跼り地に蹐す]=[天は高いのに背を かがめて歩き、地は堅いのに抜き足で歩くこと])して、一身を置くに心休まる所もなく、ここの禅院、あちらの律院で、一夜二夜を明かして隠れていましたが、密かに使者を吉野殿(南朝)へ参らせて申し入れるには、「亡親高時法師(北条高時)は、臣としての道を弁えずして、遂に(鎌倉幕府の)滅亡を勅勘の下に得ることとなりました。とはいえども、天誅をこの故に被ることを、この時行わずかも君(南朝初代後醍醐天皇)に恨み申すものではございません。元弘(三年(1333))に義貞(新田義貞)は関東(鎌倉)を滅ぼし、尊氏(足利尊氏)は六波羅を攻め落としました。この両人はいずれも勅命による、征罰でありますれば、憤りを公儀(鎌倉幕府)の滅亡とともに忘れるべきにもかかわらず、尊氏たちまちに朝敵となって、威を綸命([天子や天皇の命令])に拠りながらも、世の反逆者となって奪おうとしておることは、すでに明らかに思えまする。


続く
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by santalab | 2014-05-21 19:38 | 太平記 | Comments(0)

    

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