Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1407 )



「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その2)

憂きをば留めぬ逢坂あふさかの、関の清水しみづに袖濡れて、すゑ山路やまぢ打出うちでの浜、沖を遥かに見渡せば、しほならぬ海に漕がれ行く、身を浮舟うきふねの浮きしづみ、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り、行き交ふ人に近江路あふみぢや、世の宇根うねの野に鳴く鶴も、子を思ふかとあはれなり。時雨しぐれもいたく森山の、木下露このしたつゆに袖濡れて、風に露散る篠原や、しの分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありとても、なみだに曇りて見へ分かず。物を思へば夜の間にも、老蘇森おいそのもり下草したくさに、駒を止めてかへり見る、古郷ふるさとを雲や隔つらん。番馬ばんば醒井さめがゐ柏原かしはばら不破ふはの関屋は荒れ果てて、なほ漏る物は秋の雨の、いつか我が身の尾張をはりなる、熱田あつた八剣やつるぎ伏しをがみ、塩干しほひに今や鳴海潟なるみがたかたぶく月に道見へて、明けぬ暮れぬと行く道の、すゑはいづくと遠江とほたふみ、浜名の橋の夕塩ゆふしほに、引く人もなき捨て小船をぶね、沈み果てぬる身にしあれば、誰かあはれと夕暮れの、入相いりあひ鳴れば今はとて、池田の宿に着き給ふ。




悲しみを留めぬ逢坂(逢坂関。現滋賀県大津市)の、関の清水(逢坂の関跡付近にあった清水)に袖濡れて、末は山路を打ち出で打出浜(現滋賀県大津市打出浜)、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海(琵琶湖)に漕がれ行く、我が身は浮舟のようにの浮き沈み、馬が蹄を轟かせ踏み鳴らし、勢多の長橋(現滋賀県大津市瀬田)を打ち渡り、行き交う人に逢う路や、世の畦野(現滋賀県長浜市高月町宇根?)に鳴く鶴も、子を思って鳴くかと思えば悲しくなりました。時雨がひどく降る森山(現滋賀県守山市)の、木下露に袖濡れて、風に露散る篠原(現滋賀県近江八幡市)や、篠分け道を過ぎ行けば、鏡山(現滋賀県蒲生郡竜王町)はあるものの、泪に曇って見えませんでした。物を思へば夜の間にも、老蘇森(現滋賀県近江八幡市)の下草に、駒を止めて返り見る、古郷を雲が隔てて見えませんでした。番馬(現滋賀県米原市)、醒井(現滋賀県米原市)、柏原(現滋賀県米原市)、不破(現岐阜県不破郡関ヶ原町)の関屋は荒れ果てて、なお漏るものは秋の雨の、いつか我が身の終わり(尾張国。現愛知県西部)なる、熱田の八剣(八剣宮。現愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮)を伏し拝み、塩干に今や鳴海潟(現愛知県名古屋市緑区鳴海付近にあった海浜)、傾く月に道見えて、明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江(遠江国。現静岡県西部)、浜名(現静岡県浜松市)の橋の夕塩に、引く人もなき捨て小船のように、沈み果てようとしている我が身であれば、誰か哀れむかと夕暮れの、入相の鐘([日暮れ時に寺でつく鐘])鳴れば今は、池田の宿(現静岡県磐田市)に着きました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-09 21:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その1)

俊基としもと朝臣は、先年土岐とき十郎頼貞よりさだが討たれし後、召し取られて、鎌倉まで下り給ひしかども、様々に陳じ申されし趣き、げにもとて赦免せられたりけるが、またこの度の白状はくじやうどもに、もつぱら隠謀のくはだて、かの朝臣にありと載せたりければ、七月十一日にまた六波羅へ召し取られて関東へ送られ給ふ。再犯さいほん不赦法令はふれいの定まるところなれば、何と陳ずるとも許されじ、路次ろしにて失はるるか鎌倉にて斬らるるか、二つのあひだをば離れじと、思ひまうけてぞ出でられける。落花らくくわの雪に踏み迷ふ、交野かたのの春の桜狩り、紅葉もみぢの錦を着てかへる、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷ふるさとの妻子をば、行末ゆくへも知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重ここのへの帝都をば、今を限りとかへり見て、思はぬ旅に出で給ふ、心の内ぞあはれなる。




俊基朝臣(日野俊基)は、先年土岐十郎頼貞(土岐頼貞)が討たれた後、捕えられて、鎌倉まで下りましたが、様々に陳じ申して、嫌疑なしと赦免されましたが、またこの度の白状に、主に隠謀の企てが、俊基朝臣によるものだと載せられて、七月十一日にまた六波羅へ捕えられて関東へ送られることになりました。再犯不赦は法令に定まるところでしたので、何と陳じようとも許されることはありませんでした、路次で失われるか、鎌倉で斬られるか、二つのほかはないと、思い定めて出て行きました。落花の雪に踏み迷う、交野(現大阪府交野市)春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐山(現京都市西京区)の秋の暮れ、一夜を明かすほどでも、旅宿となれば物悲しいものですが、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷の妻子を、行末も知らず残して、年久しく住み馴れた、九重([宮中])の帝都を、今を限りと振り返り、思いもしなかった旅に出て行く、心の内は悲しいものでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-09 21:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その6)

紀信大きに悦うで、みづから漢王の御衣ぎよいちやくし、黄屋くわうをくの車に乗り、左纛さたうを付けて、「高祖かうその罪をしやして、楚の大王だいわうかうす」と呼ばはりて、じやうの東門より出でたりけり。楚のつはものこれを聞いて、四面の囲みを解いて一所に集まる。軍勢皆万歳ばんぜいを唱ふ。このあひだに高祖三十余騎を従へて、城の西門さいもんより出でて成皐せいかうへぞ落ち給ひける。夜明けて後楚に降る漢王を見れば、高祖にはあらず。その臣に紀信きしんと云ふ者なりけり。項羽かううおほきに怒つて、つひに紀信を刺し殺す。高祖やがて成皐のつはものを卒して、かへつて項羽を攻む。項羽が勢ひ尽きて後遂に烏江をうかうにして討たれしかば、高祖長く漢の王業わうげふを起こして天下のあるじと成りにけり。今主上しゆしやうも懸かりし佳例かれいを思し召し、師賢もろかた加様かやうの忠節を被存けるにや。かれは敵の囲みを解かせん為にいつはり、これは敵のつはものさへぎらん為にはかれり。和漢時異なれども、君臣ていを合はせたる、まことに千載一遇せんざいいちぐう忠貞ちゆうてい頃刻変化きやうこくへんくわの智謀なり。




紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)はたいそうよろこんで、漢王(劉邦)の御衣を着て、黄屋([昔、中国で天子 の乗る車をおおうきぬがさ])の車に乗り、左纛([天子の乗輿の左にたてられる旗])を立てて、「高祖(劉邦)の罪を謝して、楚の大王(項羽)に降だる」と大声上げて、城の東門から出ました。楚の兵はこれを聞いて、四面の囲みを解いて一所に集まりました。軍勢皆万歳を唱えました。この間に高祖は三十余騎を従えて、城の西門から出て成皐(現河南省滎陽けいやう市)に逃げました。夜が明けて楚に降った漢王を見れば、高祖ではありませんでした。高祖の臣の紀信という者でした。項羽はたいそう怒って、遂に紀信を刺し殺す(紀信は火刑にされたらしい)。高祖はすぐに成皐の兵を連れて、項羽を攻めました。項羽の勢いは尽きて遂に烏江(現中国安徽あんき省東部)で討たれて、高祖(劉邦)は長く漢の王業を起こして天下の主となりました(前漢初代皇帝)。今主上(第九十六代後醍醐天皇)もこの佳例([吉例])を思われて、師賢(花山院師賢)も同じ忠節を持っていたのでしょう。紀信は敵の囲みを解くために偽り、師賢は敵の兵を防ぐために謀ったことでした。和漢時は異なれど、君臣の体は同じものでした、まことに千載一遇([二度と来ないかもしれないほど恵まれた状態])の忠貞は、頃刻([しばらくの間])を稼ぐための智謀でした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その5)

強秦きやうしん亡びて後、項羽かううと漢の高祖かうそと国を争ふ事八箇年、いくさを挑む事七十余箇度なり。その戦ひの度毎に、項羽常に勝つに乗つて、高祖はなはだ苦しめる事多し。ある時高祖滎陽城けいやうじやうに籠もる。項羽つはものを以つてじやうを囲む事数百重すひやくへなり。日を経て城中じやうちゆうかて尽きて兵疲れければ、高祖戦はんとするに力なく、遁れんとするに道なし。ここに高祖の臣に紀信きしんと云ひける兵、高祖に向かつてまうしけるは、「項羽今城を囲みぬる事数百重、漢すでに粮尽きて士卒しそつまた疲れたり。もし兵を出だして戦はば、漢必ず楚の為にとりことならん。ただ敵をあざむいて密かに城を逃れ出でんにはしかじ。願はくは臣今漢王かんわういみなをかして楚の陣にかうせん。楚ここに囲みを解いて臣を得ば、漢王すみやかに城を出でて重ねて大軍を起こし、かへつて楚を亡ぼし給へ」と申しければ、紀信がたちまちに楚に降つて殺されん事悲しけれども、高祖社稷しやしよくの為に身を軽くすべきにあらざれば、力無く涙ををさへ、別れを慕ひながら紀信がはかりごとに随ひ給ふ。




昔強秦が亡びた後、楚の項羽と漢の高祖(劉邦)が国を争う事八箇年、戦を挑む事七十余箇度に及びました。その戦いの度毎に、項羽は常に勝つに乗って、高祖はなはだ苦しむことばかりでした。ある時高祖滎陽城(現河南省滎陽市)に籠もりました。項羽は兵を以って城を数百重に囲みました。日を経て城中の食料が尽きて兵は疲れ、高祖は戦おうとしましたがどうすることもできずに、遁れることもできませんでした。ここに高祖の臣で紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)という兵が、高祖に向かって申すには、「項羽はすでに城を数百重に渡って囲んでおります、漢はすでに食料は尽きて士卒([兵士])は疲れています。もし兵を出して戦えば、漢は必ずや楚に捕らわれてしまうでしょう。ただ敵を欺いて密かに城を逃れるほかありません。願わくはわたしが漢王の諱を賜って楚の陣に降りましょう。楚がここの囲みを解いてわたしを捕らえたら、漢王(劉邦)はすみやかに城を出て再び大軍を起こし、楚を亡ぼしてください」と申すと、劉邦は紀信がたちまちにして楚に降って殺されることが悲しいて、けれども高祖は社稷([国家])のために身を軽んじることはできませんでした、仕方なく涙を抑えて、別れを惜しみながら紀信の謀略に同意しました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その4)

さしもやむごとなき一山いつさん貫首くわんじゆくらゐを捨てて、いまだ習はせ給はぬ万里漂泊ばんりへうはくの旅に浮かれさせ給へば、医王山王いわうさんわう結縁けちえんもこれや限りと名残りしく、竹園連枝ちくゑんれんし再会さいくわいも今はいつをか可期と、御心細く被思し召しければ、かたみに隔たる御影の隠るるまでにかへり見て、泣く泣く東西へ別れさせ給ふ、御心の内こそ悲しけれ。そもそも今度主上しゆしやう、まことに山門へ臨幸不成に依つて、衆徒しゆとの心たちまちに変ずること、一旦事ならずと云へども、つらつら事のやうを案ずるに、これ叡智の不浅るところに出でたり。




やんごとなき一山の貫首(天台座主)の位を捨てて、習われたこともない万里漂泊の旅に出られて、医王山王(比叡山延暦寺の本尊薬師如来と日吉大社の祭神山王権現)の結縁もこれを限りと思えば名残り惜しく、竹園連枝([天子の子孫である兄弟姉妹])の再会はあるだろうかと、心細く思われて、互いに遠ざかる姿が見えなくなるまで振り返り見ながら、泣く泣く東西へ別れて行く、心の内は悲しいものでした。そもそもこの度主上(第九十六代後醍醐天皇)が、山門(比叡山)に臨幸なさらなかったことで、衆徒([僧])が心をたちまちに変えたのは、一時の事とはいえ、よくよく事の次第を考えると、知恵が浅い現われだと思われました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その3)

妙法院めうほふゐん大塔おほたふの宮とは、その夜までなほ八王子に御坐ありけるが、かくては悪しかりぬべしと、ひとまども落ち延びて、君の御行末ゆくへをもうけたまはらばやと思し召されければ、二十九日の夜半ばかりに、八王子に篝火かがりび数多所あまたところに焚いて、いまだ大勢おほぜい籠もりたる由を見せ、戸津とづまの浜より小舟をぶねに召され、落ち止まるところの衆徒しゆと三百人ばかりを被召具て、先づ石山へ落ちさせ給ふ。ここにて両門主もんじゆ一所へ落ちさせ給はん事は、計略とほからぬに似たるうへ妙法院めうほふゐんは御行歩ぎやうぶ甲斐甲斐かひがひしからねば、ただしばらくこの辺に御座あるべしとて、石山より二人ににん引き別れさせ給ひて、妙法院めうほふゐん笠置かさぎへ越えさせ給へば、大塔の宮は十津川とつがわの奥へと心ざして、先づ南都の方へぞ落ちさせ給ひける。




妙法院(宗良むねよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)と大塔の宮(護良もりよし親王。後醍醐天皇の皇子)は、その夜までなお八王子(八王子山。現滋賀県大津市にある日吉大社境内)におられましたが、こうなってはよいことはないと、一旦は落ち延びて、君の行末も聞きたいと思われて、二十九日の夜半ばかりに、八王子に篝火を多数に焚いて、まだ大勢籠もっているように見せかけ、戸津の浜(現滋賀県大津市)より小舟に乗られ、落ち止まるところの衆徒([僧])三百人ばかりを連れられて、まず石山(現滋賀県大津市にある石山寺)へ落ちられました。ここに両門主(宗良親王は天台座主、護良親王は梶井門跡)が一所へ落ちられることは、計略としてよろしくない上に、妙法院は行歩も満足でなく、ただしばらくこの辺におられることになり、石山寺より二人は引き別れられて、妙法院は笠置城(現京都府相楽郡笠置町にあった山城)へ越えられて、大塔の宮(護良もりよし親王)は十津川(現奈良県吉野郡十津川村)の奥へと心ざして、まず南都(奈良)の方へ落ちられました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その2)

さるほどに上林房阿闍梨じやうりんばうあじやり豪誉がうよは、元より武家へ心を寄せしかば、大塔おほたふの宮の執事、安居院あぐゐの中納言法印ほふいん澄俊ちようしゆんを生け捕りて六波羅へこれを出だす。護正院僧都ごしやうゐんそうづ猷全いうぜんは、御門徒の中の大名だいみやうにて八王子はちわうじの一の木戸を固めたりしかば、かくては叶はじとや思ひけん、同宿どうじゆく手の者引き連れて、六波羅へ降参かうさんす。これを始めとして、一人落ち二人落ち、落ち行きける間、今は光林房くわうりんばうの律師源存げんそん妙光房めうくわうばうの小相摸・中坊なかのばうの悪律師、三四人さんしにんより外は落ち止まる衆徒しゆともなかりけり。




やがて上林房阿闍梨豪誉は、元より武家(鎌倉幕府)に心を寄せていたので、大塔の宮(護良もりよし親王)の執事、安居院の中納言法印澄俊を生け捕って六波羅へつき出しました。護正院僧都猷全は、門徒の中の大名で八王子(八王子山。現滋賀県大津市にある日吉大社境内)の一の木戸を固めていましたが、こうなっては叶わないと思ったのか、同宿([同じ寺に住み、同じ師について修行する僧])の手の者を引き連れて、六波羅に降参しました。これを始めとして、一人落ち二人落ち、落ちて行ったので、今では光林房の律師源存・妙光房の小相摸・中坊の悪律師、三四人の外は落ち止まる衆徒([僧])はいませんでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その1)

山門の大衆だいしゆ唐崎の合戦に打ち勝つて、事始めよしと喜び合へる事なのめならず。ここに西塔さいたふ皇居くわうきよに被定る条、本院面目なきに似たり。寿永じゆえいいにしへ後白河ごしらかはゐん山門を御頼みありし時も、先づ横川よかはへ御登山ありしかども、やがて東塔とうたふの南谷、円融坊ゑんゆうばうへこそ御移りありしか。かつうは先蹤ぜんじようなり、かつうは吉例なり。早く臨幸りんかうを本院へ可成奉と、西塔院さいたふゐんへ触れ送る。西塔の衆徒しゆと理にれて、仙蹕せんびつを促さん為に皇居に参列す。折節をりふし深山下みやまをろし激しうして、御簾ぎよれんを吹き上げたるより、竜顔りようがんを拝し奉りたれば、主上にてはをわしまさず、ゐんの大納言師賢もろかたの、天子の袞衣こんえちやくし給へるにてぞありける。大衆だいしゆこれを見て、「こはいかなる天狗の所行しよぎやうぞや」と興を覚ます。その後よりは、参る大衆だいしゆ一人もなし。かくては山門いかなる野心をか存ぜんずらんと思へければ、その夜の夜半ばかりに、ゐんの大納言師賢もろかた四条しでうの中納言隆資たかすけ二条にでう中将ちゆうじやう為明ためあきら、忍んで山門を落ちて笠置かさぎ石室いはやへ被参る。




山門の大衆([僧])は唐崎(現滋賀県大津市唐崎)の合戦に打ち勝って、事始めよしとよろこび合うこと尋常ではありませんでした。ここに西塔(比叡山西塔)を皇居に定められること、本院(第九十三代後伏見院)の面目は丸潰れでした。寿永の昔、後白河院(第七十七代天皇)が山門(比叡山)を頼られた時も、まず横川へ登られましたが、やがて東塔の南谷、円融坊にお移りになられました。ひとつは先蹤([前例])、ひとつは吉例でした。早く臨幸を本院へなされるよう、西塔院へ触れ送りました。西塔の衆徒([僧])しゆと理に従い、仙蹕([行幸の行列])に連なるために皇居に参列しました。ちょうど深山下ろしが激しく吹いて、御簾を吹き上げたので、竜顔([天子の顔])が見えましたが、主上ではなく、尹大納言師賢(尹師賢)が、天子の袞衣([唐風の天皇衣装])を着ていました。大衆([僧])はこれを見て、「これはいったいどういうことだ天狗の仕業か」と興を覚ましました。その後は、参る大衆は一人もいませんでした。こうなっては山門がどんな野心を持つものかと思われて、その夜の夜半ばかりに、尹大納言師賢(尹師賢)・四条中納言隆資(四条隆資)・二条中将為明(二条為明)は、忍んで山門を落ちて笠置(現京都府相楽郡笠置町)の石室へ参りました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:07 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事(その10)

佐々木の判官も馬を射させて乗り替へを待つほどに、大敵左右さいうより取り巻いてすでに討たれぬと見へけるを、名をしみ命をかろんずる若党わかたうども、かへし合はせ返し合はせ所々しよしよにて討に死にしけるそのそのあひだに、万死を出でて一生いつしやうに合ひ、白昼はくちうきやうへ引きかへす。この頃までは天下しくしづかにして、いくさと云ふ事は敢へて耳にも触れざりしに、にはかなる不思議出で来ぬれば、人皆あはて騒いで、天地もただ今打ち返すやうに、沙汰せぬところもなかりけり。




佐々木判官(佐々木道誉だうよ)も馬を射られて乗り替えを待っていました、大敵が左右から取り巻いてすでに討たれようとしていましたが、名を惜しみ命を軽んじる若党([若い侍])たちが、返し合わせ返し合わせ所々で討たれるその間に、万死を遁れ一生を得て、白昼に京へ引き帰しました。この頃までは天下しく静かで、戦という言葉さえ耳にすることもありませんでしたが、突然不思議が顕われて、人は皆あわて騒いで、天地は今にもひっくり返るのではないかと、噂しない者はいませんでした。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 22:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」持明院殿御幸六波羅の事

世上せじやう乱れたる時節をりふしなれば、野心の者どもの取り参まゐらする事もやとて、昨日きのふ二十七日の巳の刻に、持明院ぢみやうゐん本院ほんゐん春宮とうぐう両御所りやうごしよ六条ろくでう殿より、六波羅の北の方へ御幸ごかうなる。供奉ぐぶの人々には、今出川いまでがはさきの右大臣兼季かねすゑ公・三条さんでうの大納言通顕みちあき西園寺さいをんじの大納言公宗きんむね・日野の前の中納言資名すけな防城ばうじやう宰相さいしやう経顕つねあき・日野の宰相資明すけあきら、皆衣冠いくわんにて御車の前後に相従あひしたがふ。その外の北面・諸司・恪勤かくごは、大略狩衣の下に腹巻を着輝きかかやかしたるもあり。洛中須臾しゆゆ反化へんくわして、六軍りくぐん翠花すゐくわを警固し奉る。見聞耳目けんもんじぼくを驚かせり。




世の中は乱れて、野心を持つ者どもに捕らわれることもあろうかと、昨日二十七日の巳の刻([午前十時頃])に、持明院本院(第九十三代後伏見院と第九十五代花園院)・春宮(北朝初代光厳くわうごん天皇)両御所は、六条殿より、六波羅の北の方へ移られました。供奉の人々には、今出川前の右大臣兼季公(今出川兼季)・三条大納言通顕(源通顕?)・西園寺大納言公宗(西園寺公宗)・日野前中納言資名(日野資名)・防城宰相経顕(勧修寺経顕)・日野宰相資明(日野資明)、皆衣冠([平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服])で車の前後に従いました。その外の北面([北面の武士]=[院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺 を警衛、あるいは御幸に供奉した武士])・諸司・恪勤([院・親王家・大臣家などに仕えた武士])は、ほとんど狩衣の下に腹巻([鎧])を付けていました。洛中はたちまちに変化して、六軍([中国、周代の軍制で、天子の統率した六個の軍])が翠花([天子の旗])を警固しました。見聞きする者は耳目を驚かせました。


続く
[PR]
by santalab | 2014-06-08 21:51 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧