Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1415 )



「太平記」義貞夢想の事付諸葛孔明事(その1)

その七日に当たりける夜、義貞よしさだの朝臣不思議の夢をぞ見給ひける。所は今の足羽あすは辺と思えたる川の辺にて、義貞と高経たかつね相対あひたいして陣を張る。いまだ戦はずして数日すじつるところに、義貞にはかに高さ三十丈さんじふぢやうばかりなる大蛇に成つて、地上に臥し給へり。高経これを見て、兵を引き楯を捨てて逃ぐる事数十里すじふりにして止まると見給ひて、夢はすなはち醒めにけり。義貞つとに起きて、この夢を語り給ふに、「りようはこれ雲雨うんうの気に乗つて、天地を動かす物なり。高経雷霆らいていの響きに驚いて、葉公せふこうが心を失ひしが如くにて、去る事候ふべし、めでたき御夢なり」とぞ合はせける。




調伏の法を行わせてから七日目の夜、義貞朝臣(新田義貞)は不思議な夢を見ました。所は今の足羽(現福井県福井市)辺と思える川(足羽川)の近くと思えました、義貞と高経(斯波しば高経)と相対して陣を張っていました。いまだ戦わずして数日を経るところに、義貞はたちまち長さ三十丈(約90m)ほどもあるばかりなる大蛇になって、地上に臥していました。高経はこれを見て、兵を引き楯を捨てて逃げること数十里と見て、夢から醒めました。義貞はすぐに起きて、この夢を話すと、「竜雲雨の気に乗って、天地を動かすものでございます。高経は雷霆([雷])の音にに驚いて、葉公(孔子の時代の人。竜が大好きだったらしい)でさえ心を失って、逃げて行くことでしょう、吉兆に違いございません」と言いました。


続く
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by santalab | 2014-06-10 08:04 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事(その3)

細川相摸のかみは、今度南方の合戦の時、仁木につき右京うきやうの大夫、三河の星野行明ぎやうみやうらが、守護の手にしよくせずして、相摸の守の手に付きたる事を怒つて、彼らが跡を闕所けつしよに成つて家人けにんどもに宛て行なはれたりしを、所存に違つて思はれける人なり。土岐大膳だいぜんの大夫入道にふだう善忠ぜんちゆうは、故土岐頼遠よりとほが子左馬の助を仁木が養子にして、ややもすれば善忠が所領を取つて左馬の助にまうし与へんとするを、鬱憤する折節をりふしなり。佐々木の六角判官はうぐわん入道にふだう崇永そうえいは、多年御敵なりし高山を討つてその跡をたまはりたるを、仁木建武の合戦に恩賞に申し賜りたりし所なりとて、押さへて知行せんとするを、
遺恨ゐこんに思ふ人なり。佐渡判官入道は、我が身に取つて仁木に差したる宿意はなけれども、余りに傍若無人なる振る舞ひを、狼藉らうぜきなりと目にかけける時なり。今川・細川・土岐・佐々木、皆義長よしながを憎しと思ふ人どもなりければ、いづれも不及異儀、「ただこのついでに討ちて、世をしづむるより外の事は候はじ」と、面々にぞ被同ける。さらばやがて合戦評定可有とて、人々の下人どもを遠く退けたるところに、推参すゐさんの遁世者・田楽童でんがくわらはなんど数多あまた出で来けるほどに、諸人皆目加めくはせして、その日は酒宴にて止みにけり。




細川相摸守(細川清氏きようぢ)は、今度の南朝との合戦の時に、仁木右京大夫(仁木義長よしなが)、三河の星野行明たちが、守護(義長)の手に付かず、相摸守(細川清氏)の手に付いたことに怒って、彼らの跡(領地)を闕所([知行人のいない土地])にして家人([家来])たちに分け与えたことを、とんでもないことと思っていたのでした。土岐大膳入道善忠(土岐頼康よりやす)は、故土岐頼遠(土岐頼康の叔父)の子左馬助を仁木(義長)が養子にして、もしかすると善忠の所領を取り上げて左馬助に譲り渡すのではないかと、恨みを抱いていたのでした。佐々木六角判官入道崇永(六角氏頼うぢより)は、長年敵であった高山を討ってその跡を賜りましたが、仁木(義長)が建武の合戦で恩賞として賜った所であると、手放さず知行したので、遺恨に思っていました。佐渡判官入道(佐々木道誉だうよ)は、自身は仁木(義長)にさほどの宿意はありませんでしたが、あまりに傍若無人な振る舞いを、狼藉([無法な荒々しい振る舞い])だと目にかけていました。今川(範国のりくに)・細川(清氏)・土岐(頼康)・佐々木(六角氏頼)は、皆義長を憎んでいたので、誰も異議をはさまず、「ただこの機会に義長を討って、世を鎮めるほかあるまい」と、面々に同意しました。ならばすぐに合戦の評定([皆で相談して決めること])をしようではないかと、者たちの下人([身分の低い者])たちを遠ざけましたが、推参([自分のほうから出かけて行くこと])の遁世者([俗世をのがれて仏門に入った者])・田楽童([田楽=初め民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。を舞う童子])などが数多くやって来たので、者たちは皆目配せして、その日は酒宴が行われただけでした。


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by santalab | 2014-06-10 07:54 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事(その2)

その頃畠山はたけやま入道にふだう道誓だうせいが所に、細川相摸のかみ・土岐大膳だいぜん大夫たいふ入道にふだう・佐々木の佐渡の判官はうぐわん入道以下、日々寄り合ひて、この間の辛苦を忘れんとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊びけるが、かたみに無隔心ほどを見て後に、畠山入道密かにその衆中にささやきけるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷り上りさうらひつる事、南方の御敵退治の為とは申しながら、むねとは仁木につき右京うきやうの大夫義長よしなが過分くわぶんの振る舞ひをしづめんが為にて候ひき。方々も定めてさぞ被思召候ふらん。彼が心ばへかつて一家いつけをも可治者とは不見。しかるを今非其器用四箇国の守護職をたまはり、差したる忠なくして、数百すひやく箇所の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩りかりすなどりを為業内には将軍のおほせをかろんじて毎事不拘成敗。されば今度南方退治たいぢの時も、敵の勝つに乗る時は悦び、御方の利を得るを聞きては悲しむ。これはそも勇士の本意とや可申、忠臣の振る舞ひとや可申。将軍尼崎に御陣を被取二百余日に及びしに、義長よしなが西宮に居ながら、一度も不出仕、一献を進ずる事もなかりしかば、何にそもかかる不忠不思議の者に大国を管領せさせ、大庄を塞がせては、世のをさまると言ふ事や候ふべき。ただこのついでに仁木を被退治、宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿の世務せいむを被助申候はば、故将軍も草の陰にては、嬉しくこそ被思召候はんずらめ。方々はいかが被思召候ふ」と問ひければ、




その頃畠山入道道誓(畠山国清くにきよ)の所に、細川相摸守(細川清氏きようぢ。室町幕府二代将軍足利義詮よしあきらの執事)・土岐大膳大夫入道(土岐頼康よりやす)・佐々木佐渡判官入道(佐々木道誉だうよ)以下の者たちは、日々寄り合って、この南北朝時代の辛苦を忘れようと酒宴・茶会などを催して昼夜遊んでいましたが、互いに隔心がないことを知った後に、畠山入道(道誓)が小声でその者たちにささやいて、「今は何も隠すことなく申しましょう。わたし道誓が今度東国より京に上ったのは、南朝の敵を退治するためと申しておりましたが、本当のところは仁木右京大夫義長(仁木義長)の分に過ぎた振る舞いを鎮定するためなのです。あなた方もきっと同じように思われていることでしょう。義長の度量では一家さえも統治できるようには思えません。そのような者が器用([優れた才能のあること])もなく四箇国の守護職([諸国の治安・警備に当たる者])を与えられ、大した功績もないのに、数百箇所の大圧を領知([土地を領有して支配すること])しています。幕府外では仏神を敬うことなく、朝夕狩りや漁ばかり内では将軍の命を軽んじて毎度のことながら成敗([執政])には無関心です。そういう者ですから今度の戦で南朝退治の時も、敵が勝てばよろこび、味方が有利だと聞けば悲しむのです。これが勇士の本意([本質・あり方])でしょうか、忠臣の振る舞いと言えるでしょうか。将軍(足利義詮)が尼崎(現兵庫県尼崎市)に陣を構えて二百日余りになるというのに、義長は西宮(現兵庫県西宮市)に居ながら、一度も出仕もせず、一献(酒宴)を開くこともありません、何をとってもこのような不忠不思議([どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと])の者に大国を管領させ、大庄を支配させては、この世が治まるとはとても思えません。わたしが京に上った今仁木(義長)を退治し、宰相中将殿(足利義詮)の世務を助けることができたなら、故将軍(室町幕府初代将軍足利尊氏。義詮の父)も草葉の陰で、うれしく思われることでしょう。方々はどう思われますか」と訊ねました、


続く
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by santalab | 2014-06-10 07:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事(その1)

南方の敵軍、無事故退治たいぢしぬとて、将軍義詮よしあきら朝臣あつそん帰洛し給ひければ、京中きやうぢゆうの貴賎悦び合へる事不斜。主上しゆしやうも無限叡感あつて、さつそくの大功、殊に以つて神妙の由、勅使を下されておほせらる。すなはち今度御祈祷きたう精誠せいぜいを被致つる諸寺の僧綱そうがう・諸社の神官じんぐわんに、勧賞けんじやうの沙汰あるべしと被仰出けれども、闕国けつこくも所領もなければ、わづかに任官の功をぞ被出ける。




南朝の敵軍を、無事に退治して、将軍義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男で室町幕府第二代将軍)が帰洛したので、京中の貴賎の者たちはたいそうよろこび合いました。主上(後光厳ごくわうごん天皇)も限りなくよろこばれて、さっそくの大功、とりわけ神妙([殊勝])であると、勅使を下されて仰せられました。すぐに今度の祈祷に精誠([純粋な誠実さ])を尽くした諸寺の僧綱([僧尼を統率し諸寺を管理する官職])・諸社の神官たちに、勧賞([褒美])すべしと命じられましたが、闕国([国司または領主が欠けている国])も所領([領地])もなかったので、わずかに任官([官に任じられること])だけが行われました。


続く
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by santalab | 2014-06-10 07:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その6)

清見潟きよみがたを過ぎ給へば、都に帰る夢をさへ、とほさぬ波の関守に、いとど涙をもよほされ、向かひはいづこ三穂みほが崎・奥津おきつ神原かんばら打ち過ぎて、富士の高峯を見給へば、雪の中より立つけぶりうへなき思ひに比べつつ、明くる霞に松見へて、浮島が原を過ぎ行けば、塩干しほひや浅き船浮きて、り立つ田子のみづからも、浮世を廻る車返くるまがへし、竹の下道行き悩む、足柄山あしがらやまたうげより、大磯小磯おほいそこいそを見下ろして、袖にも波は小動こゆるぎの、急ぐとしもはなけれども、日数ひかず積もれば、七月二十六日の暮れほどに、鎌倉にこそ着き給ひけれ。その日やがて、南条なんでう左衛門高直たかなほ請け取り奉つて、諏防すは左衛門にあづけらる。一間なる処に蜘手厳しく結うて、押し籠め奉る有様、ただ地獄ぢごくの罪人の十王じふわふちやうに渡されて、首械くびかせ手械てかせを入れられ、罪の軽重きやうぢゆうただすらんも、かくやと思ひ知られたり。




清見潟(現静岡県静岡市清水区にあった景勝地)を過ぎれば、都に帰る夢さえ、通さぬ波の関守に、いっそう涙を催され、向かいはいずこ三穂が崎(現静岡県下田市)・奥津(現静岡県静岡市にある奥津彦神社 )・神原(現静岡県静岡市清水区)を打ち過ぎて、富士の高峯を見れば、雪の中より立つ煙を、これほどない悲しみに比べつつ、明ける霞に松見へて、浮島が原(現静岡県富士市)を過ぎ行けば、塩干に浅き船浮いて、下り立つ田子(田子の浦。現静岡県富士市)は自ずと、浮世を廻る車返し、竹の下道を通りかね、足柄山の峠(現神奈川県足柄下郡箱根町の足利峠)より、大磯小磯(現神奈川県中郡大磯町)を見下ろして、袖にも波は小動(現神奈川県鎌倉市にある小動神社)に、急ぐつもりはありませんでしたが、日数積もれば、七月二十六日の暮れほどに、鎌倉に着きました。その日すぐに、南条左衛門高直(南条高直)が請け取って、諏防左衛門に預けられました。一間なる所に蜘手を幾重にも張って、押し籠められる有様は、ただ地獄の罪人の十王([地獄において亡者の審判を行う十尊])の庁に渡されて、首械手械をはめられて、罪の軽重を糾問されるのも、このようなものではないかと思い知られるのでした。


続く


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by santalab | 2014-06-09 22:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その5)

大井川おほゐがはを過ぎ給へば、都にありし名を聞きて、亀山殿の行幸ぎやうがうの、嵐の山の花盛り、竜頭鷁首りようどうげきしゆの舟に乗り、詩歌管絃しいかくわんげんの宴にはんべりし事も、今は再び見ぬ夜の夢と成りぬと思ひ続け給ふ。島田しまだ藤枝ふぢえだに懸かりて、岡辺をかべ真葛まくず末枯うらがれて、物悲しき夕暮れに、宇都うつの山辺を越え行けば、蔦楓つたかへでいと茂りて道もなし。昔業平なりひら中将ちゆうじやうの住み所を求むとて、あづまの方に下るとて、「夢にも人に逢はぬなりけり」と詠みたりしも、かくやと思ひ知られたり。




大井川(現静岡県を流れる川)を過ぎれば、都でその名を聞いて、亀山殿(第五十二代嵯峨天皇が現京都府京都市右京区に造った離宮。嵯峨殿)の行幸の、嵐山の花盛り、竜頭鷁首([竜の彫り物や鷁の 頭を船首・船側につけた船。天子や貴人の乗る船])の舟に乗り、詩歌管絃の宴の供をしたことも、今は再び見ぬ夜の夢となってしまったと思い続けるのでした。島田(現静岡県島田市)、藤枝(現静岡県藤枝市)にかかれば、岡辺(現静岡県藤枝市岡部町)の真葛は末枯れ([冬が近づき 、草木の枝先や葉先が枯れること])て、物悲しい夕暮れに、宇都(現静岡県藤枝市の宇都峠)の山辺を越え行けば、蔦楓がひどく茂って道もなし。昔業平中将(在原業平)が住み所を探して、東国に下りましたが、「夢にも人に逢はぬなりけり」(駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり)と詠んだのみ、このように物寂しく思ってのことだと思い知られるのでした。


続く
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by santalab | 2014-06-09 22:04 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その4)

隙行く駒の足早み、日すでに亭午ていごに昇れば、かれひまゐらするほどとて、輿を庭前ていぜんに舁き止む。ながえを叩いて警固の武士を近付け、宿の名を問ひ給ふに、「菊川きくかはまうすなり」と答へければ、承久しようきうの合戦の時、院宣ゐんぜん書きたりしとがに依つて、光親みつちかきやう関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、

昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。

と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今は我が身の上になり。あはれやいとど増さりけん、一首の歌をえいじて、宿の柱にぞ書かれける。
いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん




隙行く駒([年月の早く過ぎ去ることのたとえ])のたとえ通り月日はあっという間に過ぎて、日はすでに亭午([日が南中すること。正午])に昇れば、餉([炊いた米を乾燥させたもの。旅行などに携帯した])を参らせる時刻となって、輿を庭前に舁き止めました。轅を叩いて警固の武士を近付け、宿の名を訊ねると、「菊川(現静岡県島田市菊川)と申す所です」と答えたので、俊基としもと(日野俊基)は承久の合戦の時、院宣を書いた罪により、光親卿(葉室光親)は関東へ下されましたが、この宿で誅殺される時、

昔南陽県(河南省南陽)の菊水(不老長生の霊泉)で、水を汲んで飲めば齢を永らえたという。今東海道の菊川の、西岸の宿でわたしは命を失う。

と書いた、遠い昔の筆の跡も、今は我が身の上となりました(『承久記』)。悲しみがいっそう増さったのか、一首の歌を詠んで、宿の柱に書きました。
昔のみ、同じ境遇の人が、この菊川の同じ流れに身を沈めたというが、果たしてわたしも同じようにここで命を失うのであろうか。


続く
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by santalab | 2014-06-09 22:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その3)

元暦げんりやく元年ぐわんねんの頃かとよ、重衡しげひら中将ちゆうじやうの、東夷の為にとらはれて、この宿に着き給ひしに、

東路あづまぢ埴生はにふの小屋の いぶせきに 古郷ふるさといかに 恋ひしかるらん」

と、長者ちやうじやの娘が詠みたりし、そのいにしへあはれまでも、思ひ残さぬなみだなり。旅館りよくわんともしびかすかにして、鶏鳴けいめいあかつきもよほせば、疋馬ひつば風にいばへて、天竜川を打ち渡り、小夜さよの中山越え行けば、白雲はくうん路をうづみ来て、そことも知らぬ夕暮れに、家郷かけいそらを臨みても、昔西行法師さいぎやうほふしが、「命なりけり」とえいじつつ、再び越えし跡までも、羨ましくぞ思はれける。




元暦元年(1184)の頃でしたか、重衡中将(平重衡。平清盛の五男)が、東夷([東国武士])に捕らわれて、池田宿(現静岡県磐田市)に着いた時、

「旅の途中、埴生の小屋([土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋])に入られて、あまりのむさ苦しさに、故郷(京)を、どれほど恋しく思い出されていることでしょう。」

と、長者の娘(熊野の娘)が詠んだ、その昔の哀れまでもが、重なる涙でした。旅館の燈はわずかで、鶏鳴が暁を知らせて、馬は風にいなないて、天竜川(現静岡県浜松市・磐田市境をなす川)を打ち渡り、小夜の中山(現静岡県掛川市にある峠)を越え行けば、白雲が路を埋めて、そことも知らぬ夕暮れに、家郷([故郷])の空を眺めては、昔西行法師が、「命なりけり」(「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり小夜の中山」=「年をとって再び越えることがあるとも思わなかった。この小夜の中山を越えることができるのも命あってのものだなぁ」)と詠みながら、再び越えたことまでもが、羨ましく思われるのでした。


続く
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by santalab | 2014-06-09 21:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その2)

憂きをば留めぬ逢坂あふさかの、関の清水しみづに袖濡れて、すゑ山路やまぢ打出うちでの浜、沖を遥かに見渡せば、しほならぬ海に漕がれ行く、身を浮舟うきふねの浮きしづみ、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り、行き交ふ人に近江路あふみぢや、世の宇根うねの野に鳴く鶴も、子を思ふかとあはれなり。時雨しぐれもいたく森山の、木下露このしたつゆに袖濡れて、風に露散る篠原や、しの分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありとても、なみだに曇りて見へ分かず。物を思へば夜の間にも、老蘇森おいそのもり下草したくさに、駒を止めてかへり見る、古郷ふるさとを雲や隔つらん。番馬ばんば醒井さめがゐ柏原かしはばら不破ふはの関屋は荒れ果てて、なほ漏る物は秋の雨の、いつか我が身の尾張をはりなる、熱田あつた八剣やつるぎ伏しをがみ、塩干しほひに今や鳴海潟なるみがたかたぶく月に道見へて、明けぬ暮れぬと行く道の、すゑはいづくと遠江とほたふみ、浜名の橋の夕塩ゆふしほに、引く人もなき捨て小船をぶね、沈み果てぬる身にしあれば、誰かあはれと夕暮れの、入相いりあひ鳴れば今はとて、池田の宿に着き給ふ。




悲しみを留めぬ逢坂(逢坂関。現滋賀県大津市)の、関の清水(逢坂の関跡付近にあった清水)に袖濡れて、末は山路を打ち出で打出浜(現滋賀県大津市打出浜)、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海(琵琶湖)に漕がれ行く、我が身は浮舟のようにの浮き沈み、馬が蹄を轟かせ踏み鳴らし、勢多の長橋(現滋賀県大津市瀬田)を打ち渡り、行き交う人に逢う路や、世の畦野(現滋賀県長浜市高月町宇根?)に鳴く鶴も、子を思って鳴くかと思えば悲しくなりました。時雨がひどく降る森山(現滋賀県守山市)の、木下露に袖濡れて、風に露散る篠原(現滋賀県近江八幡市)や、篠分け道を過ぎ行けば、鏡山(現滋賀県蒲生郡竜王町)はあるものの、泪に曇って見えませんでした。物を思へば夜の間にも、老蘇森(現滋賀県近江八幡市)の下草に、駒を止めて返り見る、古郷を雲が隔てて見えませんでした。番馬(現滋賀県米原市)、醒井(現滋賀県米原市)、柏原(現滋賀県米原市)、不破(現岐阜県不破郡関ヶ原町)の関屋は荒れ果てて、なお漏るものは秋の雨の、いつか我が身の終わり(尾張国。現愛知県西部)なる、熱田の八剣(八剣宮。現愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮)を伏し拝み、塩干に今や鳴海潟(現愛知県名古屋市緑区鳴海付近にあった海浜)、傾く月に道見えて、明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江(遠江国。現静岡県西部)、浜名(現静岡県浜松市)の橋の夕塩に、引く人もなき捨て小船のように、沈み果てようとしている我が身であれば、誰か哀れむかと夕暮れの、入相の鐘([日暮れ時に寺でつく鐘])鳴れば今は、池田の宿(現静岡県磐田市)に着きました。


続く
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by santalab | 2014-06-09 21:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その1)

俊基としもと朝臣は、先年土岐とき十郎頼貞よりさだが討たれし後、召し取られて、鎌倉まで下り給ひしかども、様々に陳じ申されし趣き、げにもとて赦免せられたりけるが、またこの度の白状はくじやうどもに、もつぱら隠謀のくはだて、かの朝臣にありと載せたりければ、七月十一日にまた六波羅へ召し取られて関東へ送られ給ふ。再犯さいほん不赦法令はふれいの定まるところなれば、何と陳ずるとも許されじ、路次ろしにて失はるるか鎌倉にて斬らるるか、二つのあひだをば離れじと、思ひまうけてぞ出でられける。落花らくくわの雪に踏み迷ふ、交野かたのの春の桜狩り、紅葉もみぢの錦を着てかへる、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷ふるさとの妻子をば、行末ゆくへも知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重ここのへの帝都をば、今を限りとかへり見て、思はぬ旅に出で給ふ、心の内ぞあはれなる。




俊基朝臣(日野俊基)は、先年土岐十郎頼貞(土岐頼貞)が討たれた後、捕えられて、鎌倉まで下りましたが、様々に陳じ申して、嫌疑なしと赦免されましたが、またこの度の白状に、主に隠謀の企てが、俊基朝臣によるものだと載せられて、七月十一日にまた六波羅へ捕えられて関東へ送られることになりました。再犯不赦は法令に定まるところでしたので、何と陳じようとも許されることはありませんでした、路次で失われるか、鎌倉で斬られるか、二つのほかはないと、思い定めて出て行きました。落花の雪に踏み迷う、交野(現大阪府交野市)春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐山(現京都市西京区)の秋の暮れ、一夜を明かすほどでも、旅宿となれば物悲しいものですが、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷の妻子を、行末も知らず残して、年久しく住み馴れた、九重([宮中])の帝都を、今を限りと振り返り、思いもしなかった旅に出て行く、心の内は悲しいものでした。


続く
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by santalab | 2014-06-09 21:45 | 太平記 | Comments(0)

    

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