Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1320 )



「太平記」新田起義兵事(その9)

父の禅門大きに興を醒まして、急ぎ三浦が許に行きて、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候ひけり。この事右馬のかみに知らず、敵の中に残りて討たれもやせんずらんと思ふ悲しさに、告げ知らせて候へば、もつてのほかに気色きしよくを損じて、この事将軍に告げ申さでは叶ふまじきとて、かへり候ひつるはいかに。この者が気色、よも告げ申さぬ事は候はじ、いかさまやがて討つ手を向けられんと思え候ふ。いざさせ給へ。今夜我らが勢を引き分けて、関戸せきとより武蔵野へまはつて、新田の人々と一つになり、明日の合戦を致し候はん」とのたまひければ、多日たじつはかりことたちまちにあらはれて、かへつて身のわざはひになりぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂にかいだう手勢三千騎を引き分け、寄せ手の勢にくははらんと関戸をまはつて落ち行く。これぞ早や将軍の御運尽きざるところなれ。




父である禅門(石塔頼茂よりしげ)はたいそう落胆して、急ぎ三浦(三浦時継ときつぐ)の許に行き、「父が子を思うほど、子は父を思わぬものですな。この事を右馬頭(石塔頼房よりふさ)に知らせぬまま、敵の中に残り討たれるやもと思えば悲しくて、告げ知らせれば、思いの外に気色を損じて、この事を将軍(足利尊氏)に告げ申さなくてはと、帰ってしまったがどういうことか。あの様子では、よもや告げ知らせぬことはなかろう。こうなっては仕方ない。今夜我らの勢を引き分けて、関戸(現東京都多摩市)より武蔵野に廻って、新田の人々と一つになり、明日の合戦をいたそうではないか」と申したので、多日の謀がたちまちに露見して、かえって身の禍いとなったことを恐れ、三浦・葦名・二階堂は手勢三千騎を引き分け、寄せ手の勢に加わろうと関戸を廻って落ち行きました。これこそ将軍の運が尽きていない証しでした。


続く


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by santalab | 2017-04-23 09:20 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その3)

守敏しゆびん前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師そばなる障子しやうじの内より御出であつて、「いかに守敏、空海これにありとは被存知候はざりけるか。星の光は消朝日蛍の火は隠暁月」とぞわらはれける。守敏おほきに恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨み申すいきどほり入骨髄深かりければ、天下に大旱魃だいかんばつをやりて、四海の民を無一人飢渇けかちに合はせんと思つて、一大三千界のうちにある所の竜神どもを捕へて、わづかなる水瓶すゐへいの内に押し篭めてぞ置きたりける。これによつて孟夏まうか三月の間、雨降る事なくして、農民不勤耕作。天下の愁へ一人いちじんの罪にぞ帰しける。君遥かに天災の民に害ある事をへ思し召して、弘法こうぼふ大師を召ししやうじて、雨の祈りをぞ被仰付ける。大師承勅、先づ一七日ひとなぬかの間入定、明らかに三千界のうちを御覧ずるに、内海・外海げかいの竜神ども、悉く守敏の以呪力、水瓶すゐへいうちに駆り篭めて可降雨竜神なかりけり。但し北天竺のさかひ大雪山の北に無熱池むねつちと云ふ池の善女ぜんによ竜王、独り守敏しゆびんより上位の薩埵さつたにておはしましける。大師ぢやうより出でて、この由を奏聞ありければ、俄かに大内だいだいの前に池を掘らせ、清涼せいりやうの水をたたへて竜王をぞ勧請くわんじやうし給ひける。




守敏は前後不覚にも色を失い、気を損じるところに、弘法大師は側の障子の内から出て、「どうした守敏よ、空海がここにいると分からなかったか。星の光は朝日に消え蛍の火は暁の月に隠れる」と申して笑いました。守敏はたいそう恥をかいて心中穏やかならず、嗔恚([三毒・十悪の一。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと])を心の内に抱きながら退出しました。自ずと守敏は君を恨みその憤りは骨髄に深く入って、天下に大旱魃を起こして、四海([国内])の民を一人残らず飢渇([飢えとかわき])の目に合わせようと思い、一大三千界の中にある竜神どもを捕えて、小さな水瓶の中に押し籠めてしまいました。こうして孟夏([夏の初め。初夏])三月の間、雨は降ることなく、農民は耕作することができませんでした。天下の愁えは一人(天皇)の罪に帰しました。君は遥かに天災が民に害を及ぼすであろうと思われて、弘法大師(空海)を召し請じて、雨の祈りを命じられました。弘法大師は勅を承り、まず一七日(七日間)の間入定([禅定にはいること。精神を統一して煩悩を去り、無我の境地に入ること])、明らかに三千界の中を見ると、内海・外海の竜神どもは、残らず守敏の呪力によって、水瓶の中に籠められて雨を降らす竜神はいませんでした。ただし北天竺の境大雪山の北に無熱池([阿耨達池あのくだつち]=[ヒマラヤの北にあるという想像上の池。阿耨達竜王が住むという])という池の善女竜王([『法華経・提婆達多品』に現れる八大竜王の一尊])だけが、守敏より上位の薩埵([衆生])でした。弘法大師は定([高度の精神集中のこと。ある対象に精神を集中して乱れない状態])より出て、この旨を奏聞すると、急ぎ大内裏の前に池を掘らせ、清涼の水を湛えて竜王を勧請しました。


続く


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by santalab | 2017-04-23 09:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その2)

懸かりける処に弘法こうぼふ大師有御帰朝。すなはち参内し給ふ。帝異朝の事ども有御たづね後、守敏しゆびん僧都のこのあひだ様々なりつる奇特どもをぞ御物語ありける。大師聞召之、「馬鳴めみやう褰帷、鬼神去つて閉口、栴檀せんだん礼塔支提しだい破れて顕屍とまうす事候へば、空海があらんずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現はし候はじ」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験かうげんを施させて威徳の勝劣を被御覧思し召して、ある時大師御参内ありけるを、かたはらに奉隠置、守敏応勅御前おんまへに候す。時に帝湯薬たうやくまゐりけるが、建盞けんざんさしおかせ給ひて、「余りにこの水つめたく思ゆる。例のやう加持かぢして被暖候へかし」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢へて不成湯。帝、「こはいかなる不思議ぞや」と被仰、左右に目くわしありければ、内侍の典主すけなる者、わざと熱く沸きかへりたる湯を注いでまゐりたり。帝また湯を立てさせてまゐらんとし給ひけるが、また建盞けんざんを閣せ給ふ。「これは余りに熱くて、手にも不被捕」と被仰ければ、守敏先にも懲りず、また向建盞結水印たりけれども、湯敢へて不醒、なほ建盞の内にて沸き返る。




そうこうするところに弘法大師(空海)が帰朝しました。すぐさま参内しました(空海は帰朝後もしばらく入洛しなかった。空海が京に入ったのは、第五十二代嵯峨天皇の御宇(809))。帝(桓武天皇であろうが)は異朝の事どもをお尋ねになられた後、守敏僧都のこの間の様々な奇特([神仏の持っている、超人間的な力])を話されました。大師はこれを聞いて、「馬鳴き褰帳([即位式・朝賀の時、高御座の御帳をかかげること])すれば、鬼神は去って口を閉じ、栴檀が塔に礼すれば支提([建物の内部に小型の仏塔を安置するもの])は破れて屍を晒すと申しますれば、この空海がおる所で、守敏がそのような奇特を現わすことはございません」と大口を叩きました。帝はならば両人の効験([効能])を試させて威徳の勝劣を見ようと思われました、ある時大師が参内すると、側に隠し置き、守敏は勅に応じて御前に参りました。帝は湯薬を参らせましたが、建盞([中国宋代、福建省建陽県にあった建窯で焼かれた茶碗]。空海の時代に宋はまだない)を差し置かれて、「あまりにこの水はつめたい。いつものように加持して温めてほしい」と申されました。守敏は容易いことと、建盞に向かって結火の印を結び加持しましたが、水はまったく湯になりませんでした。帝は、「これは何という不思議ぞ」と申されて、左右に目配せされると、内侍典主([典侍。内侍司=後宮。の次官])が、わざと熱く沸き返った湯を注いで参りました。帝はまた湯立て([禊の一。熱湯に笹の葉をひたして自分のからだや参詣人にふりかける儀式])されようとしましたが、また建盞を差し置かれました。「これはあまりに熱くて、手に持てぬ」と申されると、守敏は先にも懲りず、また建盞に向かって結水の印を結びましたが、湯は冷めることなく、建盞の中で沸き返ったままでした。


続く


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by santalab | 2017-04-22 08:20 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その1)

兵革ひやうかくの後、妖気えうきなほ示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄かに神泉苑をぞ被修造ける。かの神泉園しんぜんゑんまうすは、大内だいだい始めて成りし時、准周文王霊囿、方八町はちちやうに被築たりし園囿ゑんいうなり。その後桓武くわんむの御世に、始めて朱雀しゆじやく門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野かうや大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺さいじには南都の周敏僧都しゆびんそうづ金剛界こんがうかいの五百余尊を顕はして、被祈玉体長久。斯かりし処に、桓武の御宇延暦二十三年春の頃、弘法こうぼふ大師為求法御渡唐とたうありけり。その間周敏しゆびん僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。ある時御門御手水てうづを被召けるが、みづこほつて余りにつめたかりけるほどに、しばしとてさしおき給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ひける間、氷水ひようすゐ忽ちに解けて如沸湯なり。御門被御覧て、余りに不思議に被思召ければ、わざと火鉢に炭を多くをこさせて、障子しやうじを立てまはし、火気を内に被篭たれば、臘裏らふりの風光あたかも如春三月なり。帝御顔の汗を押しのごはせ給ひて、「この火をさばや」と被仰ければ、守敏また向火水の印をぞ結び給ひける。これによつて炉火ろくわ忽ちに消えて空しく冷灰れいくわいに成りにければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様かやうの顕奇特不思議事如得神変。斯かりしかば帝これを帰依渇仰きえかつがうし給へる事不尋常。




兵革([軍])が止んだ後も、妖気はなおも禍いを示していました。禍いは真言秘密([真言宗の教え])の効験([効能])が消えたせいだと、にわかに神泉苑(現京都市中京区にある寺院)を修造しました。かの神泉苑と申すは、平安京大内裏がはじめて出来た時、周文王(周朝の始祖)の霊囿([植物や動物のいる園、庭園])になぞらえて、四方八町に築かれた園囿でした。その後桓武(第五十代天皇)の世に、初めて朱雀門([大内裏に南面する正門])の東西に二寺が建てられました。(内裏から見て)左を東寺(今の教王護国寺)右を西寺と名付けました。東寺には高野大師(空海)が胎蔵界七百余尊を安置し金輪王([須弥山=古代インドの世界観 の中で中心にそびえる山。の四州を統治する王])が宝祚([天子の位])を守護しました。西寺には南都([奈良])の守敏僧都(平安時代前期の僧)が金剛界の五百余尊を安置して、玉体([天子または貴人の身体])長久を祈りました。そうこうするところに、桓武の御宇延暦二十三年(804)の春頃、弘法大師(空海)は求法のために入唐しました(ちなみに空海が東寺別当となったのは、入唐後の弘仁十四年(823))。その間守敏僧都一人が竜顔に近習し朝夕加持を行いました。ある時帝(桓武天皇)は手水を召されました、水が凍ってあまりに冷たかったので、しばらく置いておかれましたが、守敏が手水に向かって結火印を結ぶと、氷水はたちまちに解けて湯となりました。帝はこれをご覧になられて、あまりに不思議に思われたので、わざと火鉢に炭を多く熾させて、障子を立て廻らし、火気を内に籠められました、臘裏(陰暦十二月下旬)の風光はあたかも春三月のようでした。帝は顔の汗を押し拭われて、「この火を消さなくては」と申されると、守敏はまた向火水の印を結びました。すると炉火はたちまちに消えて冷灰になったので、寒気が膚を侵し五体に灑水([密教の儀礼に用いる水])を浴びせられたようになりました。この後も、守敏はこのように奇特([神仏の持っている、超人間的な力])を現して神変([人間の考えでは理解できない不思議な変化])不思議を起こしました。こうして帝は尋常でなく守敏に帰依([神仏や高僧を信じてその力にすがること])渇仰([深く仏を信じること])するようになりました。


続く


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by santalab | 2017-04-21 08:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その6)

上人聞此事給ひて、「これぞ神明の我に道心を勧めさせ給ふ御利生りしやうよ」と歓喜くわんぎの泪を流し、それよりやがて京へはかへり給はで、山城やましろの国笠置かさぎと云ふ深山みやまに卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長く発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。かくて三四年を過ごし給ひける処に承久しようきうの合戦出で来て、義時よしとき執天下権しかば、後鳥羽のゐん被流させ給ひて、広瀬の宮即天子位給ひける。その時解脱げだつ上人在笠置窟聞こし召して、為官僧度々被下勅使被召けれども、これこそ第六天の魔王どもが云ひし事よと被思ければ、つひに不随勅定いよいよ行ひ澄ましてぞおはしましける。智行ちぎやう徳開けしかば、やがて成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観もんくわん上人の行儀ぎやうぎかなと、迷愚蒙眼。遂に無幾程建武の乱出で来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊へうはくして、はり給ひけるとぞ聞こへし。




解脱上人(貞慶じようけい)はこれを聞いて、「これこそ神明が我に道心を勧める利生([仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益])である」と歓喜の涙を流し、それよりやがて京には帰らず、山城国の笠置(現京都府相楽郡笠置町)という深山に巌屋を作り、落葉を集めて上衣とし、木の実を拾って食としました、長く厭離穢土([苦悩多い穢れたこの娑婆世界をいとい離れたいと願うこと])の心を持ちひたすら欣求浄土([この穢れた現実世界を離れて極楽浄土、すなわち仏の世界を、心から喜んで願い求めること])に勤めました。こうして三四年を過ごすところに承久の合戦(承久の乱(1221))が起こり、義時(鎌倉幕府第二代執権、北条義時)が執天下を執権しました、後鳥羽院(第八十二代天皇)は配流されて、広瀬院(第八十代高倉天皇の第二皇子、守貞もりさだ親王。後高倉院)の宮が天子の位に即かれました(第八十六代後堀河天皇)。その時解脱上人は笠置窟におられてこれを聞き、勅使が下され度々官僧の召しがありましたが、これこそ第六天魔王([第六天魔王波旬はじゆん]=[仏道修行を妨げている魔])どもが申したことだと思われて、遂に勅定に従わずますます行い澄ましておられました。智行([知識と徳行])の徳が開かれて、やがてこの寺(笠置寺)を開山し、今に仏法弘通([仏教や経典が広まること])の地として紹隆([先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること])しています。これを思うに、文観上人の行儀([振る舞い])は嘆かわしく、愚蒙([愚かなこと])の迷いに他なりませんでした。遂にほどなく建武の乱(延元の乱(1336))が起こると、法流([教えを伝える系譜])相続の門弟は一人もなく孤独衰窮の身となり、吉野の辺に漂泊して、命を終えたということです(文観は後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となり、現大阪府河内長野市の金剛寺で没した)。


続く


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by santalab | 2017-04-20 08:43 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その5)

座定まつて後、上坐に居たる大人たいじん左右に向かつてまうしけるは、「この頃帝釈の軍に打ち勝つて手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、その眷属けんぞく毎日数万人すまんにん亡ぶ、ゆゑ何事ぞと見れば、南胆部州なんぜんぶしう扶桑国ふさうこく洛陽辺らくやうへん解脱房げだつばうと云ふ一人の聖出で来て、化導利生けたうりしやうする間、法威ほふゐ盛んにして天帝てんたい得力、魔障ましやう弱くして修羅失勢。所詮彼がかくてあらんほどは、我ら向天帝合戦する事叶ふまじ。いかにもして彼が醒道心、可着驕慢けうまん懈怠心」まうしければ、兜の真つかうに、第六天の魔王と金字こんじに銘を打つたる者座中に進み出で、「彼の醒道心候はん事は、可輒るにて候ふ。先ず後鳥羽のゐんに滅武家思し召す心を奉着、被攻六波羅、左京さきやうごん大夫だいぶ義時よしとき定めて向官軍くわんぐん可致合戦。その時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽の院遠国をんごくへ被流給はば、義時司天下成敗治天を計らひ申さんに、必ず広瀬のゐん第二の宮を可奉即位。さるほどならば、この解脱房かの宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業ぎやうごふは日々に怠り、驕慢は時々に増して、破戒無慚はかいむざん比丘びくと成らんずる条、不可有子細、かくてぞ我らも若干そくばく眷属けんぞくを可設候」と申しければ、二行に並居なみゐたる悪魔外道けだうども、「この儀尤可然思え候ふ」と同じて各々東西に飛び去りにけり。




座が定まった後、上座に座っていた大人が左右に向かって申すには、「帝釈(帝釈天。仏教の守護神である天部の一)との軍に打ち勝って手に日月を握り、身は須弥山([古代インドの世界観の中で中心にそびえる山])の頂にあって、一足に大海を踏むといえども、眷属([一族])が毎日数万人亡んでおる、なぜかと見れば、南胆部州扶桑国([日本国])の洛陽(京)辺に解脱房という一人の聖があって、化導利生([衆生を教え導き、利益りやくを与えること])しておるのだ、法威盛んにして天帝(帝釈天)は力を得て、魔障は弱くなって修羅(阿修羅。もともと天界の神であったが、天界から追われて修羅界を形成したという)は勢いを失っておる。所詮やつがいる限り、我らが天帝と合戦したところで勝ち目はない。どうにかしてやつの道心を醒まし、驕慢([驕り高ぶって人を見下し、勝手なことをすること])懈怠([仏道修行に励まないこと。怠りなまけること])の心を付けてやいたいのだ」と申すと、兜の真っ向に、第六天魔王([第六天魔王波旬はじゆん]=[仏道修行を妨げている魔])と金字で銘を打った者が座中に進み出て、「やつの道心を醒ますことなど、容易いことでございます。まず後鳥羽院(第八十二代天皇)に滅武家を滅ぼそうとする心を付けて、六波羅を攻めさせれば、左京権大夫義時(鎌倉幕府第二代執権、北条義時)は必ずや官軍と合戦するでしょう。その時義時に力を加えれば官軍は敗北して、後鳥羽院は遠国に流されましょう、義時は天下を成敗するためようとして、広瀬院(第八十代高倉天皇の第二皇子、守貞もりさだ親王。後高倉院)の第二の宮(茂仁とよひと親王。ただし、第三皇子)を即位させます。そうすれば、この解脱房はかの宮の帰依聖ですから、官僧となって竜顔に近習し、出仕しすなわち儀を行います。自ら行業は日々に怠り、驕慢は時々に増して、破戒無慚([戒律を破っているのに、それを恥と思っていないこと])の比丘([仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子])となることは、間違いありません、我ら若干の眷属も無事となりましょう」と申したので、二列に並居る悪魔外道どもも、「もっともなことに思われます」と同じて各々東西に飛び去りました。


続く


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by santalab | 2017-04-19 08:46 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その4)

垂迹すゐじやくの方便聞けば、仮りに雖似忌三宝名、内証ないしやうの深心を思へば、それもなほ有化俗結縁理思えて、そぞろに感涙かんるゐ袖を濡らしければ、日暮れけれども在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮げくう御前おんまへ通夜念誦つやねんじゆして、神路山かみぢやまの松風にねぶりを覚まし、御裳濯川みもすそがはの月に心を清ましておしはましける処に、俄かに空掻き曇り雨風烈しく吹いて、雲の上に車をとどろかし、馬を馳する音して東西より来たれり。「あな恐しや、これ何物やらん」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿くうでん楼閣出で来て、庭上に引幔門前に張幕。ここに十方より所来の車馬しやばかく、二三千もあるらんと思えたるが左右に居流ゐながれて、上座に一人の大人たいじんあり。そのすがたはなはだ非尋常、たけ二三十丈にさんじふぢやうもあるらんと見揚げたるに、かしらは如夜叉十二の面上おもてうへならべり。四十二の手あつて左右に相連あひつらなる。あるひは握日月、あるひは提剣戟八竜にぞ乗つたりける。相順あひしたがふ処の眷属けんぞくども、皆非常人、八臂はつぴ六足にして鉄の楯をさしはさみ、三面一体にして金のよろひを着せり。




垂迹([仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために、仮に神々の姿となって示現すること])の方便([人を真実の教えに導くため、仮に取る便宜的な手段])というのは、仮にも三宝([仏・法・僧])の名を忌み嫌うところがありますが、内証([自己の心の内で真理を悟ること])の深心を思えば、それもなお化俗([世俗の人々を教化すること])結縁([仏・菩薩が世の人を救うために 手をさしのべて縁を結ぶこと])の理ありと思われて、思わず感涙に袖を濡らせば、日が暮れても在家に宿を取る心地もせず、外宮の御前で通夜念誦して、神路山(現三重県伊勢市宇治にある内宮南方の山域)の松風に眠りを覚まし、御裳濯川(伊勢神宮内宮神域内を流れる五十鈴川の異称)に映る月に心を清ましていると、にわかに空が掻き曇り雨風が激しく吹いて、雲の上に車を轟かせ、馬が馳せる音がして東西より何物かがやって来ました。「なんと恐ろしい、何物であろうか」と解脱上人は肝を冷やし見れば、忽然として虚空に玉を磨き金を散りばめた宮殿楼閣が現れました、庭上に幔を引き門前には幕を張っていました。ここに十方より車馬の客がやって来て、二三千もいると思われましたが左右に並び、上座に一人の大きな人が座していました。その姿はまったく尋常でなく、丈は二三十丈もあろうかと見上げると、まるで夜叉のような頭に十二の面上([顔])がありました。手が四十二本あって左右に並んでいました。あるいは日月を握り、あるいは剣戟([剣と鉾])を提げて八竜に乗っていました。相従う眷属([一族])どもも、皆只人でなく、八臂六足にして鉄の楯を持ち、三面一体にして金の鎧を着ていました。


続く


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by santalab | 2017-04-18 08:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その3)

以何云之ならば、文治ぶんぢの頃洛陽らくやうに有一沙門しやもん。その名を解脱げだつ上人とぞまうしける。その母七歳の時、夢中に鈴を呑むと見てまうけたりける子なりければ、非直人とて、つになりける時より、その身を入釈門、つひたつとき聖とは成しけるなり。されば慈悲深重じひじんぢゆうにして、三衣さんえれたる事を不悲、行業ぎやうごふ不退にして、一鉢いつぱつの空しき事を不愁。大隠たいいんは必ずしも市朝してうの内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮とそうし給ひけるが、ある時伊勢太神宮にまゐつて、内外宮ないげくうを巡礼して、ひそかに自受法楽の法施ほつせをぞ被奉ける。大方おほかた自余の社には様替はつて、千木ちぎも不曲形祖木かたそぎも不剃、これ正直捨方便しやはうべんの形を顕はせるかと見へ、古松こしよう垂枝老樹らうじゆ敷葉、皆下化衆生げけしゆじやうさうへうすと思えたり。




どうして文観僧正のことを申すかというと、文治(第八十二代後鳥羽天皇の御宇)の頃洛陽(京)に一人の沙門([バラモン階級以外の出身の男性修行者])がいました。その名を解脱上人(信西の孫に当たる)と言いました。母が七歳(?)の時、夢の中で鈴を呑むと見て出来た子でしたので、只人ではないと、三つになった時から、その身を釈門に入れて、遂に貴き聖となりました。慈悲深く、三衣([僧尼の着る僧伽梨そうぎやり鬱多羅僧うつたらそう安陀会あんだえの三種の衣 ])の破れを悲しまず、行業を怠ることなく、一鉢が空しくとも愁うことはありませんでした。大隠は朝市に隠る([真の隠者は、 人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしている ということ])言葉通りの人でした。身は五濁([悪世になると生じる五つの悪い現象])の塵に交わるといえども、心は不犯三毒([仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩])の霧に冒されず。縁に任せて歳月を渡り、利生([仏神が人々を救済し、悟りに導くこと])の山川を抖薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])していましたが、ある時伊勢大神宮に参って、内外宮を巡礼して、密かに自受法楽([仏が、自らの悟りの内容を深く味わい楽しむこと])の法施([仏などに向かって経を読み、法文を唱えること])を奉りました。大方の自余の社には様変わりして、千木([神社建築などに見られる、建造物の屋根に設けられた部材])は曲がらず、片削ぎ([神社の屋根に交わしてある千木ちぎの両端を斜めに削り落としたもの])を剃らず、正直捨方便([方便=人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。を捨ててまっすぐに法を説くこと])の形を顕わすかと見え、古松は枝を垂れ老樹は葉を敷き、どれも下化衆生([この迷いの世界にあって、真理を見ずに惑い苦しむ生きとし生けるものを教化し救済すること])の相を現すと思われました。


続く


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by santalab | 2017-04-17 12:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その8)

すでに明日矢合はせと定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦の介すけを呼び退けてのたまひけるは、「合戦すでに明日と定められたり。この間相謀あひはかりつる事を、子息にて候ふ右馬のかみに、かつて知らせ候はぬ間、この者一定いちぢやう一人残り止まつて、将軍に討たれまゐらせつと思え候ふ。一家いつけの中を引き分けて、義卒ぎそつみし、老年のかうべに兜をいただくも、もし望み達せば、後栄こうえいを子孫に残さんと存ずるゆゑなり。さればこの事を告げ知らせて、心得させばやと存ずるはいかが候ふべき」と問ひ給ひければ、三浦、「げにもこれほどの事を告げ参らせられざらんは、後悔あるべしと思え候ふ。急ぎ知らせ参らせ給へ」と申しける間、石堂禅門、子息右馬の頭を呼びて、「我薩埵山の合戦に打ち負けて、今降人かうにんの如くなれば、仁木・細川らに押し据へられて、人数ならぬ有様御辺も定めて遺恨ゐこんにぞ思ふらん。明日の合戦に、三浦の介・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだうの人々と引き合つて、合戦の最中将軍しやうぐんを討ち奉り、家運かうんを一戦の間に開かんと思ふなり。相構あひかまへてその旨を心得て、我が旗の赴くに従はれるべし」と言はれければ、右馬の頭大きに気色きしよくを損じて、「弓矢の道二心あるを以つて恥とす。人の事は知らず、なにがしに於いては将軍に深く頼まれまゐらせたる身にて候へば、後ろ矢射て名を後代こうだいに失はんとは、えこそまうすまじけれ。兄弟父子の合戦いにしへより今に至るまでなき事にて候はず。いかさま三浦の介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告げ申さずは大きなる不忠なるべし。父子ふしの恩義すでに絶え候ひぬる上は、今生こんじやう見参げんざんはこれを限りと思し召し候へ」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ参られける。




すでに明日矢合わせと定まった夜のこと、石堂四郎入道(石塔義房よしふさ)が、三浦介(三浦時継ときつぐ)と二人きりになって申すには、「合戦はすでに明日と決まった。今までこのことを、子息の右馬頭に、知らせてはおらぬ、きっと一人残り止まって、将軍(足利尊氏)に討たれることであろう。一家の中を引き分けて、義卒([義兵])の味方になるのも、老年の頭に兜を戴くも、もし望み達すれば、後栄を子孫に残せると思うてのこと。ならばこの事を告げ知らせて、承知させようと思うがどうか」と訊ねると、三浦介も、「確かにこれほどの事を告げ知らせなくては、後悔がありましょう。急ぎ知らせ参らせませ」と申したので、石塔禅門は、子息右馬頭を呼んで、「わしは薩埵山(静岡県静岡市清水区にある峠)の合戦に打ち負けて、今は降人と同じようなものじゃ、仁木・細川らに押し据えられて、人数にもならぬ有様よお主もきっと遺恨に思うておろう。明日の合戦に、三浦介・葦名判官(蘆名直盛なほもり?)・二階堂の人々と組んで、合戦の最中に将軍を討ち、家運を一戦の間に開こうと思うておる。よくよくそれを心得て、わが旗に従われよ」と申せば、右馬頭はたいそう気色を損じて、「弓矢の道は二心あるを以って恥とするものです。人のことは知らず、このわたしは将軍に深く頼まれ参らせる身でございます、後ろ矢を射て名を後代に失うようなことは、決して申さないでください。兄弟父子の合戦は古より今に至るまでないことではありません。何であれ三浦介・葦名判官とともに、隠謀を企んでいることを将軍に告げ申さずは大きな不忠となりましょう。父子の恩義がすでに絶えた以上、今生の見参はこれを限りと思われませ」と、顔を赤らめ腹を立て、将軍の陣に帰って行きました。


続く


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by santalab | 2017-04-15 07:36 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その2)

これはせめて俗人なれば不足言。かの文観僧正そうじやうの振る舞ひを伝へ聞くこそ不思議なれ。たまたま一旦名利みやうり境界きやうがいを離れ、既に三密瑜伽さんみつゆがの道場に入り給ひし無益、ただ利欲・名聞みやうもんにのみおもむいて、更に観念定坐くわんねんぢやうざの勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、かたはらに集武具士卒をたくましうす。成媚結交ともがらには、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎すひやくきの兵打ち囲んで、路次を横行しければ、法衣ほふえ忽ち汚馬蹄塵、律儀りつぎ空しく落人口譏。かの廬山ろざん慧遠法師ゑをんほつし一度ひとたび辞風塵境、寂寞じやくまくの室に坐し給ひしより、仮りにもこの山を不出と誓つて、十八じふはち賢聖げんじやうを結んで、長日ちやうじつ六時礼讚ろくじらいさんを勤めき。大梅常和尚だいばいのじやうをしやうは強ひて不被世人知住処更に茅舎ばうしやを移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆いにしへも今も韜光消跡、暮山の雲に伴ひ一池いつちはちすを衣として、行道清心こそ生涯を尽くす事なるに、この僧正は如此名利のきづなほだされけるも非直事、何様天魔外道げだうのその心に依託えたくして、挙動ふるまはせけるかと思えたり。




これはせめて俗人なれば申すに及ばぬところですが。かの文観僧正の振る舞いを伝え聞くに不思議なことでした。一旦名利の境界を離れ、三密瑜伽([行者の三密=口密・身密・意密。と仏の三密とが相応・融合すること])の道場に入ったにも関わらず、ただ利欲・名聞を求め、さらに観念定座([座して禅定に入ること])の勤めを忘れたようなものでした。何の役にも立たないのに財宝を倉に積み貧窮を助けず、武具を集め士卒の守りとしました。媚をなし近付いて来る者どもには、忠なく賞を申し与えたので、文観僧正の手の者と申して、徒党を組み肘を張る([威張って振る舞う])者が、洛中に充満して、五六百人に及びました。こうして遠くはない参内の時も、輿の前後に数百騎の兵が打ち囲んで、路地を横行([自由気ままに歩きまわること])したので、法衣はたちまち馬蹄の塵に汚れ、律儀([悪や過失に陥ることを防ぐ働きのあるもの。善行のこと])は空しく人口の譏りとなりました。かの廬山(江西省北部の九江の南にある山)の慧遠法師(東晋の僧)は一度風塵([わずらわしい俗世間])境を出て、寂寞の室に座してからというもの、仮りにもこの山を出るまいと誓い、十八賢聖([聖者と賢者。菩薩と、その位に至る前の 仏道修行の人])の蓮社([浄土宗の信者で作る念仏結社])を結んで、長日([長い日数])六時礼讚([浄土教における法要、念仏三昧行のひとつ。中国の僧・ 善導の『往生礼讃』に基づいて一日を六つに分け、誦経、念仏、 礼拝を行う])を勤められました。大梅常和尚(大梅法常。唐代の僧)はあえて世の人が住まない山奥にに茅舎を移して住み、山中の風情を歌に詠み悟りを開きました。心ある人は、皆昔も今も韜光消跡([悟りを開いたものが俗世を離れてひっそりと生活すること])、暮山の雲に誘われ一池の蓮を衣として、心清らかにして修行し生涯を全うするものですが、文観僧正がこうして名利の絆にほだされたのは只事ではありませんでした、どうして天魔外道のその心に依託([他の人にま任せてやってもらうこと])して、振る舞ったのかと思うばかりです。


続く


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by santalab | 2017-04-15 07:26 | 太平記 | Comments(0)

    

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