Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1407 )



「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その2)

度重なれば右衛門うゑもんすけ大きに腹立ふくりふして、「周公旦しゆこうたんは文王の子武王の弟たりしかども、髪を洗ふ時訴人来たれば髪を握つて合ひ、はんを食する時賓客ひんかく来たればを吐いて対面し給ひけり。才とぼしといへども我大樹の一門につらなる身たり。礼儀を存せば、沓をさかさまにしても庭に出で迎ひ、袴の腰を結び結びも急ぎてこそ対面すべきに、この入道にふだう加様かやうに無礼に振る舞ふこそかへす返すも遺恨ゐこんなれ。所詮叶はぬ訴詔そしやうをすればこそ、へつらふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立つて伯耆へ下り、やがて謀反を起こして天下をくつがえし、無礼なりつる者どもに、思ひ知らせんずるものを」と独り言して、我が宿所へ帰るとひとしく、郎等らうどうどもにかくとも云はず、ただ一騎文和ぶんわ元年八月二十六日にじふろくにちの夜半に伯耆を差して落ちて行けば、相順あひしたがひしつはものども聞き伝へて、七百しちひやく余騎迹を追つてぞ下りける。




度重なれば右衛門佐(山名師氏もろうぢ)はたいそう立腹して、「周公旦は文王(朝の始祖)の子で武王(周の創始者。文王の次子)の弟であったが、髪を洗っている時に訴人がやって来れば髪を握ったまま会い、飯を食っている時に賓客([客人])が来れば哺を吐いて([口中の食物を出す])対面したという。才乏しといえどもわしは大樹(将軍)の一門に連なる身である。礼儀を知るならば、沓を逆様に履いて庭に出迎え、袴の腰を結びながらでも急いで対面すべきを、この入道(佐々木道誉だうよ)がこれほど無礼に振る舞うのは返す返すも遺恨である。所詮叶わぬ訴詔をすればこそ、諂う人でなくとも諂っておったのだ。今夜の内に都を立って伯耆へ下り、たちまち謀反を起こして天下を覆し、無礼であった者どもに、思い知らせてやるぞ」と独り言して、我の宿所へ帰るやいなや、郎等([家来])どもには何も知らせず、ただ一騎文和元年(1352)八月二十六日の夜半に伯耆を指して落ちて行けば、従う兵どもは聞き伝えて、七百余騎が後を追って下りました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-13 07:02 | 太平記 | Comments(0)


太平記

巻第一

後醍醐天皇御治世の事付武家繁昌の事
関所停止の事
立后事付三位殿御局事
儲王の御事
中宮御産御祈之事付俊基偽篭居の事
資朝俊基関東下向の事付御告文の事
無礼講の事付玄恵文談の事
頼員の事

巻第二
南都北嶺行幸の事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事
三人の僧徒関東下向の事
俊基朝臣再関東下向の事
長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事
俊基被誅事並助光事
天下怪異の事
師賢登山の事付唐崎浜合戦の事
持明院殿御幸六波羅の事
主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事

巻第三
主上御夢の事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍の事
桜山自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑の事付藤房卿の事
八歳宮御歌の事
一宮並妙法院二品親王の御事
俊明極参内の事
中宮御歎の事
先帝遷幸の事
備後三郎高徳事付呉越軍の事

巻第五
持明院殿御即位の事
宣房卿二君奉公の事
中堂新常灯消事
相摸入道弄田楽並闘犬の事
時政参篭榎嶋事
大塔宮熊野落の事

巻第六
民部卿三位局御夢想の事
楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事
正成天王寺未来記披見の事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦の事付人見本間抜懸の事

巻第七
吉野城軍事
千剣破h城軍の事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀反事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦の事付酒部瀬河合戦の事
三月十二日合戦の事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法の事付山崎合戦の事
山徒寄京都事
四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事
主上自令修金輪法給ふ事付千種殿京合戦の事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻の事付久我畷合戦の事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻の事
主上・上皇御沈落事
越後守仲時以下自害の事
主上・上皇為五宮被囚給事付資名出家の事
千葉屋城寄手敗北の事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見の事
鎌倉合戦の事
赤橋相摸守自害の事付本間自害の事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火の事付長崎父子武勇の事
大仏貞直並金沢貞将討死の事
信忍自害の事
塩田父子自害の事
塩飽入道自害の事
安東入道自害の事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近の大夫偽落奥州事
長崎高重最期合戦の事
高時並一門以下於東勝寺自害の事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸の事付新田注進の事
正成参兵庫事付還幸の事
筑紫合戦の事
長門探題降参の事
越前牛原地頭自害の事
越中守護自害の事付怨霊の事
金剛山寄手ら被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道の事
大内裏造営の事付聖廟の御事
安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事
千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事
広有射怪鳥事
神泉苑の事
兵部卿親王流刑の事付驪姫事

巻第十三
北山殿謀反の事
中前代蜂起の事
兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事
足利殿東国下向の事付時行滅亡の事

巻第十四
新田足利確執奏状の事

将軍御進発大渡・山崎等合戦の事
主上都落の事付勅使河原自害の事
長年帰洛の事付内裏炎上の事
将軍入洛の事付親光討死の事
坂本御皇居並御願書の事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢着坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊嶋河原合戦事
主上自山門還幸の事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開の事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事

備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経嶋合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵の事
正成首送故郷事

巻第十七
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事

巻第十九
光厳院殿重祚の御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠の事
諸国宮方蜂起の事
相摸次郎時行勅免の事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛の事
追奥勢跡道々合戦の事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍の事付足羽度々軍の事
越後勢越越前事
宸筆の勅書被下於義貞事

八幡炎上の事
義貞重黒丸合戦の事付平泉寺調伏法の事
義貞夢想の事付諸葛孔明事
義貞の馬属強の事
義貞自害の事
義助重集敗軍事
義貞の首懸獄門事付勾当内侍の事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧の事
佐渡判官入道流刑の事
法勝寺の塔炎上の事
先帝崩御の事
南帝受禅の事
任遺勅被成綸旨事義助攻落黒丸城事

巻第二十二
作々木信胤成宮方事
義助予州下向の事
義助朝臣病死の事付鞆軍の事
大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書の事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
三宅・荻野謀反の付壬生地蔵の事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞事

自伊勢進宝剣事黄粱夢事
住吉合戦の事

巻第二十六
正行参吉野事

巻第二十七
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁の事付玄慧法印末期の事
上杉畠山流罪死刑の事
大嘗会の事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀反事
直冬朝臣蜂起の事付将軍御進発の事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦の事付師直怪異の事
小清水合戦の事付瑞夢の事
松岡の城周章の事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者の事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去の事付殷紂王の事
直義追罰の宣旨御使の事付鴨社鳴動の事
薩多山合戦の事
慧源禅門逝去の事
吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦の事
鎌倉合戦の事
笛吹峠軍の事
八幡合戦事付官軍夜討の事
南帝八幡御退失の事

巻第三十二
茨宮御位事

山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事

主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣の事

将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事

龍泉寺軍の事

巻第三十五
新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事

北野通夜物語の事付青砥左衛門事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏反逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道道誓謀反事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍の事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍の事
大元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事

光厳院禅定法皇行脚事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時闘諍に及ぶ事
将軍薨逝の事
細川右馬頭自西国上洛の事
[PR]
by santalab | 2017-06-12 07:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その1)

山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢは今度八幡やはたの軍に功あつて、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未だたう知行なかりける若狭の国の斉所さいしよ今積いまづみを如本の可宛給由、佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよしよくしてまうし達せん為に、日々に彼の宿所へ行き給ひけれども、「今日は連歌の御会席くわいせきにて候ふ」。「只今は茶のくわいの最中にて候ふ」とて一度も対面に不及、数剋すこく立たせ、暮るるまで待たせて、ただいたづらにぞ帰しける。




山名右衛門佐師氏(山名師氏)は今度の八幡の軍に功あって、忠賞我に勝る人はないと思っていたので、先年拝領していまだ知行していない若狭国の済所([平安中期以降、租税の徴収・官物の収納などを司った国衙こくがの役所])今積(現福井県小浜市)を本通り充てられるよう、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)を通して申し達するために、日々かの宿所を訪ねるましたが、「今日は連歌([和歌から派生した詩歌の一 形態。五・七・五の発句と七・七の脇句以下,長短句を交互に連ねていくもの])の会席がござる」。「只今は茶の会の最中にござる」と申して一度も対面に及ばず、数刻立たせ、日が暮れるまで待たせたあげく、ただ徒らに帰しました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-12 07:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」茨宮御位事(その1)

今度吉野殿と将軍と御合体ごがつていの儀破れて合戦に及びし刻み、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮・梶井かぢゐ二品にほん親王しんわうまで、皆南方の敵にとらはれさせ給ひて、あるひは賀名生あなふの奥、あるひは金剛山こんがうせんの麓に御座あれば、都には御在位ございゐの君もおはしまさず、山門には時の貫首くわんじゆも渡らせ給はず。この平安城へいあんじやう比叡山ひえいさんと同時に始まりて、すでに六百余歳、一日もいまだ斯かる事をば承り及ばず、これぞ末法の世になりぬるしるしよと、浅ましかりし事どもなり。されどもかくてはいかがあるべきとて、 天台の座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤じよういん親王をなし奉る。この宮は前門主の御振る舞ひに様替やうかはつて、遊宴奇物をも愛でせさせ給はず、行業ぎやうごふ不退ふたいにしてただ我が山の興隆をのみ御心に懸けられたりければ、靡き奉らぬ衆徒もなかりけり。さて御位には誰をか就け参らすべきとたづね求め奉るところに、本院ほんゐん第二の御子、三条さんでうの内大臣公秀きんひでの御娘三位殿さんみどのの御局、後には陽禄やうろく門院と申しし御腹に生まれさせ給ひたりしが今年十五にならせ給ふを、日野の春宮とうぐう権大進ごんのたいしん保光やすみつおほせて、南方へ取り奉らんとせられけるが、とかく料理れうりとどこほつて、保光京都に捨て置き奉りけるを尋ね出だし参らせて、御位には就け参らせけるなり。




今度吉野殿(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)と将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)と合体の儀は破れて合戦に及んだ時、持明院の本院(北朝初代光厳天皇)・新院(北朝第二代光明天皇)・主上(北朝第三代崇光天皇)・春宮(崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁ふしみのみやよしひと親王)・梶井二品親王(第九十三代後伏見院の第六皇子、承胤しよういん法親王)まで、皆南方の敵に捕らわれて、あるいは賀名生(現奈良県五條市)の奥、あるいは金剛山(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の麓におられたので、都には在位の君もおられず、山門(比叡山)には時の貫首([天台座主])も渡られることはありませんでした。平安城(平安京)と比叡山が同時に始まって、すでに六百余歳、一日もいまだこのようなことを聞くことはなく、これぞ末法([仏法が行われなくなる時代])の世になる験よと、嘆かわしいことでした。けれどもこのままではどうかと、天台座主には、梶井二品親王の弟子、承胤親王(第九十三代後伏見天皇の皇子)を就けられました。この宮は前門主の振る舞いとはまるで異なり、遊宴奇物を愛でることなく、行業不退にしてただ我が山の興隆をのみ心に懸けておられたので、靡かぬ衆徒([僧])はいませんでした。さても帝位には誰を即け参らせるべきと尋ね求めるところに、本院(光厳天皇)の第二皇子、三条内大臣公秀(正親町三条公秀)の娘三位殿局(正親町三条秀子)、後には陽禄門院と申された腹にお生まれになられた皇子が今年十五になっておられました、日野春宮権大進保光(日野保光)に命じて、南方(南朝)に移そうとしましたが、処置に手間取って、保光が京都に捨て置いたのを尋ね出して、位に即けられました(北朝第四代後光厳天皇)。



[PR]
by santalab | 2017-06-11 08:42 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その5)

去るほどに新田武蔵の守義宗よしむねは、四月二十七日にじふしちにち越後の津張つばりより立つて、七千余騎越中ゑつちゆう放正津はうじやうづに着けば、桃井播磨の守直常ただつね、三千余騎にて馳せ参る。都合その勢一万余騎、九月十一日前陣せんぢんすでに能登の国へ発向はつかうす。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河の国を立つて、路次ろしの軍勢を駈りもよほし、六千余騎を率して、五月十一日に先陣すでに美濃の垂井たるゐ・赤坂に着きしかば、八幡に力をはせんと遠篝とほかがりをぞ焚きたりける。これのみならず信濃のしもの宮も、神家じんけ・滋野・友野・上杉・仁科・禰津ねづ以下の軍勢を召し具して、同じき日に信濃を立たせ給ふ。伊予には土居とゐ得能とくのう、兵船七百余艘よさうに取り乗つて、海上より責め上る。東山とうさん北陸ほくろく・四国・九州の官軍くわんぐんども、皆我が国々を立ちしかば、路次の遠近に依つて、たとひ五日三日の遅速はあるとも、後攻ごづめの勢こそ近付きたれと、云ひ立つほどならば、八幡の寄せ手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上しゆしやうは八幡を落ちさせ給ひしかば、国々の官軍くわんぐんも力を落とし果て、皆己が本国へぞ引つ返しける。これもただ天運の時不至、神慮より事起こる故とは云ひながら、とすれば違ふ宮方の運のほどこそはかられたれ。




やがて新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)は、四月二十七日に越後の津張(現新潟県中魚沼郡津南町)より立って、七千余騎で越中の放正津(現富山県射水市)に着くと、桃井播磨守直常(桃井直常)も、三千余騎で馳せ参りました。都合その勢一万余騎が、九月十一日に前陣はすでに能登国に発向しました。吉良三郎(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔頼房よりふさ)も、四月二十七日に駿河国を立って、路次の軍勢を駆り集め、六千余騎を率して、五月十一日に先陣が美濃の垂井(現岐阜県不破郡垂井町)・赤坂(現岐阜県大垣市)に着くと、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に力を合わせようと遠篝を焚きました。これのみならず信濃の下宮(現長野県諏訪郡下諏訪町にある諏訪大社)も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召し具して、同じ日に信濃を立ちました。伊予では土居・得能が、兵船七百余艘に取り乗って、海上より攻め上りました。東山道・北陸道・四国・九州の官軍どもも、皆己の国々を立ったので、路次の遠近により、五日三日の遅速はあるとも、後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢])の勢が近付くと、広まれば、八幡の寄せ手は皆退散するはずでしたが、今四五日を待たずして、主上(第九十七代後村上天皇)は八幡を落ちられました、国々の官軍も力を落とし果て、皆己が本国に引き返しました。これもただ天運の時至らず、神慮より事起こる故とは言いながら、ともすれば神慮に違う宮方の運のほどが推し量られました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-10 08:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その4)

内侍所のひつをば、初め賜はつて持ちたりける人が田の中に捨てたりけるを、伯耆はうきの太郎左衛門長生ながなり、着たる鎧を脱ぎ捨てて、みづか荷担かたんしたりける。迹より追ふ敵ども、蒔き捨つる様に射ける矢なれば、御櫃のふたに当たる音、板屋を過ぐる村雨の如し。されども身には一筋ひとすぢも不立ければ、長生とかくかかくり付いて、賀名生あなふの御所へぞ参りける。多くの矢ども御櫃に当たりつれば、内侍所も矢や立たせ給ひたるらんと、浅ましくて御櫃を見進らせたれば、矢の跡は十三までありけるが、わづかに薄き桧木板ひのきいた射徹いとほす矢の一筋もなかりけるこそ不思議なれ。今度たばかりて京都を攻められん為に、先づ住吉・天王寺てんわうじへ行幸成りたりし時、児島三郎入道志純しじゆんも召されて参りたりけるを、「これが一大事なれば急ぎ東国・北国に下つて、新田義貞よしさだをひ・子どもに義兵を興こさせ、小山をやま・宇都宮以下、便宜びんぎの大名を語らひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀をめぐらせ」とおほせ出だされければ、志純夜を日に継いで関東くわんとうへ下りたれば、東国の合戦早や事散じて、新田義興よしおき義治よしはるは河村のじやうに立て篭もり、武蔵のかみ義宗よしむね越後ゑちごの国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行き向かうて、「君すでに大敵に囲まれさせ給ひて助けの兵、力疲れぬ。もし神竜しんりようして釣者てうしやの為に捕らはれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん」と、依義重可軽命習ひを申しければ、小山をやま五郎・宇都宮少将せうしやう入道も、「勅定ちよくぢやうに随ふなり」とて、東国静謐せいひつの計略を可運由約諾す。義興よしおき義治よしはるはなほ東国に止まりて将軍と戦ひ、新田武蔵のかみ義宗よしむね桃井もものゐ播磨の守直常ただつね・上杉民部の大輔・吉良三郎満貞みつさだ・石堂入道、東山とうせん・東海・北陸道ほくろくだうの勢を率し二手に成つて上洛しやうらくし、八幡の後攻ごづめを致して朝敵てうてきを千里の外に可退と、諸将の相図を定めて、勅使を先立ちてぞ上りける。




内侍所([三種の神器の一つである神鏡、八咫鏡やたのかがみ])の櫃は、最初に賜わって持っていた人が田の中に捨てたのを、伯耆太郎左衛門長生(名和長生)が、着ていた鎧を脱ぎ捨てて、自ら荷担しました。後を追う敵どもは、蒔き捨てるように矢を射たので、櫃の蓋に当たる音は、まるで板屋に降る村雨のようでした。けれども身には一筋も立ちませんでしたので、長生はなんとか逃れて、賀名生(現奈良県五條市)の御所にたどり着きました。多くの矢が櫃に当たったので、内侍所にも矢が立っているであろうと、嘆いて櫃を見ると、矢の跡は十三ありましたが、わずかに薄い桧木板を射通す矢は一筋もなかったのは不思議なことでした。今度謀略を廻らせて京都を攻めるために、まず住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に行幸された時、児島三郎入道志純も召されて参っていましたが、(第九十七代後村上天皇は)「今が一大事である急ぎ東国・北国に下って、新田義貞の甥・子どもに義兵を起こさせ、小山・宇都宮以下、便宜(親交)の大名を味方に付けて、天下の大功を即時に致すよう、智謀を廻らせ」と命じられたので、志純は夜を日に継いで関東に下りましたが、東国の合戦はすでに治まり、新田義興(新田義貞の次男)・義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助の子)は河村城(現神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もり、武蔵守義宗(新田義宗)は越後国にいました。勅使が東国・北国に向かって、「君(後村上天皇)が大敵に囲まれて守護の兵は、疲弊しています。神竜が魚に変じて釣者に捕らわれて、天下を誰のために争うというのですか」と、義を重んじ命を軽んじる道理を申せば、小山五郎・宇都宮少将入道(宇都宮公綱きんつな)も、「勅定に従いましょう」と、東国静謐の計略を廻らせることを約諾しました。義興・義治はなおも東国に止まって将軍(足利尊氏)と戦い、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常(桃井直常)・上杉民部大輔(上杉憲顕のりあき)・吉良三郎満貞(吉良満貞)・石塔入道(石塔義房よしふさ)は、東山道・東海道・北陸道の勢を率し二手になって上洛し、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢。援軍])に向かい朝敵を千里の外に退けるべしと、諸将の相図を定めて、勅使を先立てて京に上りました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-09 07:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その3)

古津河こつかはの端を西に傍うて、御馬おんむまを早めらるるところに、備前の松田・備後の宮の入道がつはものども、二三百騎にて取り篭め奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべしとも不見けるが、天地神明の御加護もありけるにや、御鎧の袖・草摺くさずり二筋ふたすぢ当たりける矢も、かつて裏をぞ懸かざりける。法性寺左兵衛さひやうゑかみ、これまでもなほ離れまゐらせず、ただ一騎供奉したりけるが、迹より敵懸かれば引つ返して追ひ散らし、敵前をさへぎれば懸破て、主上しゆしやうを落とし進らせけるところに、いづくより来るとも不知御方の兵百騎計り、皆中黒の笠符かさじるし着けて、御馬の前後にさうらひけるが、近付く敵を右往左往うわうさわうに追ひ散らして、掻き消す様に失せにければ、主上は玉体無恙して東条へ落ちさせ給ひにけり。




木津川の川端を西に沿って、馬を早めるところに、備前の松田・備後の宮入道の兵どもが、二三百騎で取り囲みました。十方より射る矢はまるで雨が降るようでしたので、とても逃れることはできないと思われましたが、天地神明の加護があったか、鎧の袖・草摺([甲冑の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分])に二筋当たる矢も、裏を射通しませんでした。法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが?)は、これまでも(第九十七代後村上天皇の)側を離れず、ただ一騎供奉していましたが、後ろより敵が懸かれば引き返して追い散らし、敵が前を防げば駆け破って、主上(後村上天皇)を落とし参らせるところに、どこから来たとも知れず味方の兵が百騎ばかり、皆中黒(新田氏の紋)の笠符を付けて、馬の前後に付いて、近付く敵を右往左往に追い散らし、掻き消すようにいなくなったので、主上は玉体無事にして東条(現兵庫県加東市)へ落ちられました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-08 08:03 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その2)

その中に宮一人討たれさせ給ひぬ。四条しでうの大納言隆資たかすけ円明院ゑんみやうゐん大納言・三条の中納言雅賢まさかたきやうも討たれ給ひぬ。主上しゆしやうは軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官がまゐらせたりける黄糸の鎧を召して、栗毛なる馬に召されたるを、一の宮弾正左衛門だんじやうざゑもん有種ありたね追ひ懸け進らせて、「可然大将とこそ見進らせ候ふ。きたなくも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者かな」と呼ばはり懸けて、弓杖ゆんづえ三杖みつゑ許り近付きたりけるを、法性寺左兵衛さひやうゑかみきつとかへりみて、「にくひ奴ばらが云ふ様かな。いで己の手柄のほどを見せん」とて、馬より飛んで下り、四尺八寸の太刀を以つて、兜の鉢を破れ砕けよとぞ打たれたる。さしもしたたかなる一の宮、尻居しりゐにどうど打ち据ゑられて、目暮れ胆消えにければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥かに落ち延びさせ給ひにけり。




その中に宮が一人(第九十六代後醍醐天皇皇子、法仁ほふにん法親王?)討たれました。四条大納言隆資(四条隆資)・円明院大納言・三条中納言雅賢卿(三条雅賢)も討たれました。主上(第九十七代後村上天皇)は軍勢に紛れるために、山本判官が参らせた黄糸の鎧を召して、栗毛の馬に乗っておられましたが、一宮弾正左衛門有種が追いかけて、「しかるべき大将とお見受けする。卑怯にも敵に追い立てられて、一度も返さぬとはどういうことか」と叫んで、弓杖三杖ばかりに近付くところを、法性寺左兵衛督が振り返り見て、「憎むべき奴の言い様よ。わしの手柄のほどを見せてやるぞ」と言って、馬から飛んで下り、四尺八寸の太刀で、兜の鉢を破れ砕けよと打ち付けました。したたかな一宮も、尻居に打ち据えられて、目は暮れ胆は消えて、しばらく心を静めようと、目を塞ぐ間に、主上は遥かに落ち延びられました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-06 08:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その1)

三月十五日より軍始まりて、すでに五十ごじふ余日に及べば、城中じやうちゆうには早や兵粮ひやうらうを尽くし、助けの兵を待つ方もなし。かくてはいかが可有と、云ひ囁くほどこそあれ。やがて人々の気色替はつて、ただ落ち支度の外はするわざもなし。去るほどにこれぞ宗との御用にも立ちぬべき伊勢の矢野の下野しもつけかみ・熊野の湯河ゆかは庄司しやうじ、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎降人かうにんに成つて出でにけり。城の案内敵に知れなば、落つるとも落ち得じ。さらば今夜主上しゆしやうを落としまゐらせよとて、五月十一日の夜半計りに、主上しゆしやうをばれう御馬おんむまに乗せ進らせて、前後につはものども打ち囲み、大和路やまとぢへ向かつて落ちさせ給へば、数万の御敵まへよぎり跡に付いて討ち留め進らせんとす。依義軽命官軍くわんぐんども、返し合はせては防ぎ、打ち破つては落とし進らするに、疵をかうむつて腹を切り、蹈み留まつて討ち死にする者三百人に及べり。




(正平七年(1352))三月十五日より軍が始まり、すでに五十余日に及んだので、城中ではすでに兵粮が尽きて、助けの兵も当てはありませんでした。どうすればよいものかと、囁き合いました。たちまち人々の気色は替わって、ただ落ち支度のほかは何もしませんでした。やがて主にご用に立つべき伊勢の矢野下野守・熊野の湯川庄司が、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎が降人となって城を出ました。城の案内が敵に知られれば、落ちようとしても落ちることは叶わぬ。ならば今夜主上(第九十七代後村上天皇)を落とし参らせよと、五月十一日の夜半ほどに、主上をば寮の馬に乗せ参らせて、前後に兵どもが打ち囲み、大和路へ向かって落ちようとするところに、数万の敵が前を遮り後に付いて討ち止めようとしました。義により命を軽んじる官軍どもは、返し合わせては防ぎ、打ち破って落とし参らせました、疵を被って腹を切り、踏み留まって討ち死にする者は三百人に及びました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-05 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その13)

一陣破るれば残党まつたからじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣はすこしも動かず、鹿垣ししがききびしく結うて用心堅く見へたれば、夜討ちに可打様もなく、可打散便りもなかりけり。かくてはいつまでか可怺、和田にぎた・楠木を河内かはちの国へかへして、後攻ごづめをせさせよとて、彼ら両人を忍びて城より出だして、河内の国へぞ遣はされける。八幡にはこの後攻めを憑みて今や今やと待ち給ひける処に、これを我が大事と思ひ入れて引き立ちける和田五郎、にはかに病ひ出だして、無幾程も死にけり。楠木は父にも不似兄にも替はりて、心少し延びたる者なりければ、今日よ明日よと云ふ許りにて、主上しゆしやうの大敵に囲まれて御座あるを、如何がはせんとも心に不懸けるこそ方見うたてけれ。げうの子尭の如くならず、しゆんおとと舜に不似とは乍云、この楠木は正成が子なり。正行まさつらが弟なり。いつのほどにか親に替はり、兄にこれまで劣るらんと、そしらぬ人もなかりけり。




一陣を破って残党は一人も残らないと思われましたが、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)・山名(山名時氏ときうぢ)・赤松(赤松則祐のりすけ)の陣は少しも動かず、鹿垣([砦の周りに設けて防御用にした垣])を厳しく構えて守り堅く見えたので、夜討ちすることもできず、打ち散らす手立てもありませんでした。こうなってはいつまで堪えることができよう、和田(和田正隆まさたか)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)を河内国に返して、後詰め([敵の背後に回って攻めること。また、その軍勢])をさせよと、彼ら両人を密かに城から出して、河内国に発向させました。八幡ではこの後詰めを頼りにして今か今かと待つところに、これを我が大事と思い入れて引き連れた和田五郎(正隆)が、にわかに病いを患って、ほどなく死んでしまいました。楠木(正儀)は父(楠木正成)にも似ず兄(楠木正行まさつら。楠木正成の長男)とも違って、少しおっとりした者でしたので、今日よ明日よと言うばかりで、主上(第九十七代後村上天皇)が大敵に囲まれておられるのを、どうしようかと心配しませんでしたが嘆かわしいことでした。尭(中国神話に登場する君主)の子(丹朱)は尭のように立派でなく、舜(中国神話に登場する君主。堯の跡を継いだ)の弟は舜に似ずとはいいながら、この楠木(正儀)は正成の子でした。正行の弟でした。いつのほどに親と異なり、兄にこれまで劣るのかと、謗らぬ人はいませんでした。


続く


[PR]
by santalab | 2017-06-04 08:51 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧